#08-01: 愛するからこそ、汚れたい

本文-静心

 ウラニアは沈んだ。何事もなかったかのように、あっさりと沈んでしまった。エディタ・レスコ中佐の「撤退」の言葉がなければ、私はただただ立ち尽くしていただろう。その頃にはアキレウスのシステムもすっかり回復していた。イザベラが干渉をやめたのだろう――そう思える程度には、私は冷静だった。

 その後、第一艦隊――反乱軍は、何処いずこかへと消えた。

 私は帰ってくる道すがら、第一・第二統合艦隊、通称「歌姫艦隊」の司令官のポストに収められた。それも全て二人のディーヴァとカワセ大佐の意志なのだという。

「アルマ……?」

 懐かしさも覚える自室に――私たちは未だに士官学校の寮に暮らしていた――戻ると、部屋は薄暗かった。私は反射的に天井灯シーリングライトをオンにしてソファのところに駆け寄った。

 指定席にアルマが座っていた。ただ、座っていた。顔はその三色の髪の毛に隠されてよく見えない。

「アルマ……」

 私はアルマのそばで膝をつく。アルマは無表情に泣いていた。寒い室内で、その手は冷え切っていた。重ねた私の手の上に、水滴がこぼれてくる。私は何も言えない。訊けない。そしてアルマは心を閉ざしている。何の声も聞こえない。

 私は右手でアルマの手を握り、左手でその背をさする。どちらも限界まで冷え切っていた。その心も凍えきっていた。

 きっとどんな言葉も、今のアルマには届かない。

 アルマの充血した目が、私を貫いた。

「聞いてた」

 アルマは一言そう言った。私は頷く。

「第七艦隊に守られたふねの中で聞いてた。――人生とはただ彷徨う影のごとし、哀れなる役者に過ぎぬ……」

 そうか。あそこにはアルマもいたんだ……。

「レニーのことも聞いた。でも、誰が殺したかは問題じゃない」
「うん……」
「今ここにいないことだけが問題なんだ」

 私に、いったい何が言えただろう。

 ――あたしの方が待つ人になるんだから。しっかり帰ってきてよ。

 ――帰ってきた時に浮気されてたら、呪うわよ。

 二人のやりとりが記憶の中で再生される。

「帰ってこなかったじゃないか……!」

 奥歯を噛み締めたまま、アルマが呻く。

「マリー、ねぇ、どうしたらいい? 誰を責めたらいい? 誰に怒りをぶつけたらいい? 誰にこの苦しさをぶつけたらいい? レニーがもう二度とここに座ってくれない現実を、どう受け止めたら良い?」
「……わからない。でも」

 でも? でも、何だって言うんだ? もし私がレオンを失ったら、どうなっちゃうだろう。どれほど哀しいだろう。どれほど苦しいだろう。どれほど虚しいだろう。

 そう思ったら、私はアルマにすがって泣いていた。溢れてくるものが止められない。嗚咽も止められない。レベッカを目の前で死なせてしまったこと。多くの歌姫セイレーンや海軍の人たちを殺戮してしまったこと。その重さが今になって私の中で膨れ上がっていた。耐えられないほど肥大化していた。

「なんで、どうして、マリーが泣いてるんだよ……」
「ごめんね、アルマ。ごめん」

 アルマが私の頭を撫でていた。冷え切った指先が、私の髪をいていく。

「まったく調子狂うよ、マリー」

 身動きできないほど泣き崩れる私の背中をさすってくれるアルマ。今、泣いて良いのはアルマなのに。私じゃないのに。

「泣いて良いんだ、マリーだって。悲しみは相対論じゃないって、あたし、レニーに言ったことがあったでしょ?」

 自分が泣きたいと言うのなら、泣かせてやれと、そんな言葉だっただろうか。

「あたしはいいんだ。もう十分泣いた。査問会もウザかったしね……」
「査問会……!?」
「取り調べ。あたしがイザベラの反乱を知っていたんじゃないかとか、今でもなにか画策してるんじゃないかとか。とにかくわけがわからなかった。ぶち切れそうになった所で、カワセ大佐が助けてくれたけど」

 それを聞いて安心する。カワセ大佐は敵じゃない――イザベラはそう断言したけど、それは信じても良さそうな気がした。

 携帯端末モバイルがレオンからのメッセージを通知する。ドアを開けろと言っている。私は反射的にドアの鍵を開ける。

「客が多くて申し訳ない」

 レオンはドアが開ききる前にそう言った。レオンの後ろにいたのは、ヤーグベルテの全V級歌姫ヴォーカリストだった。すなわち、エディタ・レスコ中佐を筆頭に、ハンナ・ヨーツセン、ロラ・ロレンソ、パトリシア・ルクレルクだ。この人たちは、全員が全員、国家的アイドルでもある。私のような実績のない歌姫セイレーンなどとは格の違う、国民の誰もが知っている歌姫だ。

「ソファを――」
「いや、ここでいい」

 エディタは腕を組み、ドアに背中を預けるようにして立っていた。他のV級ヴォーカリストもめいめいに立っている。レオンは首を振り、そして私を抱きしめた。

「どうしてもマリーの言葉を聞きたいんだってさ」
「私の……?」
「司令官様、だろ?」

 囁かれるその言葉に、私は「そうだった」と思い出す。階級も何も下っ端なのに。私はレオンから離れて、エディタに向き合った。私の後ろにはアルマがいた。私たちの涙は止まっていた。

 エディタは目を細めた。私を値踏みしているのだろうか。

「私は別に不満があるわけじゃないんだ、マリオン、アルマ。君たちはまぎれもない最強の歌姫セイレーンだからな」
「では……何を?」
「事ここに至って、きみたちは何をしたい? 何を成し遂げたい?」

 その問いに、私は首を振る。

「ただ、イザベラと話をしたい」
「話をしてどうする? 我々は旧第一艦隊をひとり残らず殺せと言われている」
「それでも」
「そもそもマリオン。君はあのイザベラ・ネーミアを倒せるのか」
「そんなことはわかりません。でも、私とアルマで勝てなければ、ゲームはおしまいです」

 私の肩に後ろから手が置かれる。レオンのものだった。その重みが私を力づける。

「たとえイザベラを討ち取らなければならないとしても、私たちはイザベラのその声、イザベラのその言葉をみんなに伝える義務がある。たとえ皆が舞台から下りてしまっても、人々の心に刺さった剣は抜けない――私はそう信じたい」
「十億の国民は理解するかな? 女神の怒りを」

 エディタが平坦なトーンで訊いてくる。私は首を振った。

「百人とか二百人かもしれない。イザベラのもたらす言葉の意味、未来への憂い、現在への怒り、過去への後悔――そういうものを理解できる人は」
「その極少数に意味はあるのか?」
「確かに極少数でしょう。でも、ゼロじゃないです」

 私はエディタの青い瞳を直視する。エディタは無表情に応える。

「なるほど――そういうわけか」

 エディタはハンナたちを振り返り、私にまた視線を戻した。雪のように青い輝きを放つ瞳だったが、それは少しだけ柔らかく感じた。普段は決して見せないような表情だ。

「私たちはね、この日が来ることを知っていた」
「――!?」

 何を言われたのか一瞬理解できなかった。肩越しにレオンを振り返るが、レオンもまた、私と同じ表情をしていたと思う。アルマに至ってはまるで表情がない。

「ある日提督に呼ばれて言われたんだ。クララやテレサも。そして選択を迫られた。ネーミア提督に付くか、アーメリング提督に付くか。私たちはアーメリング提督を選んだが、全面的にそうしたかったわけでもない」

 事実上の第二艦隊司令官、レベッカの腹心をしてそう言わせる。エディタは天井を見上げる。白い喉に影が落ちる。

「ネーミア提督は――」

 エディタはまた私を正視した。

「私たちを誘うことはなかった。ただ、選べと。しかし、私は……悪役ヒールにも道化ピエロにもなれなかった。この国に、そこまでの献身はできなかった」
「レスコ中佐……」
「だが、君の言葉で、提督方がなぜ君たちに次世代をたくそうとしたのか、わかった」

 ――私にはわからない。

「だから、提督方を失望させないでやってくれ」
「……努力します」

 私は目を逸らさずに応じた。エディタもまた、視線を外さない。

「きみとアルマは、ネーミア提督を頼む。ただし」
「ただし?」
「クララ、テレサ、そしてC級歌姫クワイアたちのは私が取る。君たちだけが返り血に染まる様を眺めていたのでは、私たちもこの国の人間と同じになってしまう」
「しかし、中佐」

 私が前に出る。

「私は先日、多くのC級歌姫クワイアを殺しました。この手に残る不快感、耳に残る断末魔。それは――」
「すまなか――」
「そうじゃなくて! そうじゃない。違うんです」

 私は首を振る。エディタは少し怪訝けげんな表情になる。

「あんな思いをするのは、私だけでいい!」
「ならん」

 短い拒否。そして私の肩の方に視線をやった。そっちにはレオンがいる。

「そんなのはただの自己犠牲だ。そんなものは正義となんか言わないんだよ、マリオン・シン・ブラック。君は耐え難い痛みを一人で引き受けて、傷付いて、苦しんでいる。誰の目から見ても明らかなくらいに君はズタズタに傷ついている。
 想像してみるといい、マリオン。君のことを心から愛する人が、そんな君を見たらどう思う? 君の苦しみを完全には知ることができないでいることに、どれだけ悔しい思いをすると思う? どれほど無力感にさいななまれると思う?」
「それは、でも、愛してるから、その……汚したくない」
「君が彼女を愛しているのと同じように、彼女も君を愛してる。だろ?」

 エディタは私のすぐ目の前までやってきた。そして私の肩にあるレオンの手に、自分の白い手を重ねた。

 私の隣にやって来たアルマが、私の肘を軽く叩く。

「アルマ……?」
「あたしはレニーの苦悩を知らない。レニーの痛みを理解できてない。そんなあたしの、今の唯一の希望を教えようか?」
「アルマ――」
「汚れることさ。レニーのように、美しく真っ赤に汚れたいんだ、あたしは」

 そう言って、寝室に引っ込んでしまった。バタンとドアが閉められる。

 耳元で小さな溜息が聞こえた。レオンだ。

「マリー。私はこの手を汚すことに躊躇ためらいはない」
「レオン……」
「マリーのため、なんての気持ちじゃない。これは私の意志だ。私の力はマリーには全然及びはしない。だからマリーを守ることは出来ない。マリーの代わりにイザベラを討つことなんてできない。だったらせめて――そういう無力な私のささやかな希望だよ」

 レオンが後ろから私を抱きしめる。エディタは微笑して一歩下がる。

「レオナの言葉は、私たちの思いでもある」

 そう言うと、踵を返してハンナ、ロラ、パトリシアを連れて部屋を出て行った。

「レオン……」

 未だ私を抱きしめてくれているレオンの体温。私は顔を横に向ける。レオンは目を閉じていた。少し苦しそうに、唇を引き結んでいた。私はその唇にキスをする。レオンは薄く目を開けて、ぎこちなく微笑んだ。艶のある唇が、私に触れる。

 私たちは長いキスをして、そして手を振って別れた。

次のエピソード

■本話のコメンタリー

タイトルとURLをコピーしました