行こうか――と、三人は連れ立って歩く。カティはヴェーラたちがどこに住んでいるのかを知らない。少なくともカティの住む寮ではないこと以外は。
カティの右手をそっと握りながら、ヴェーラがポツリと言った。
「カティは……血を流しているんだね」
「怪我なんて」
「こころ」
心――カティは小さく唇を噛む。ヴェーラはその空色の瞳でカティを見上げ、また自分の爪先に目を落とす。
「伝わってくるんだ、カティの痛み」
「伝わる……?」
カティは唾を飲む。左を見れば、レベッカが心配そうな表情で見上げていた。そして意を決したように言う。
「オカルトじみてるとは思います。昨日ヴェーラから聞いて。それで、でも、私も半信半疑でした。でも……その、すみません」
「さっぱり状況がわからないんだが」
戸惑うカティに、ヴェーラは「だよね」と少し元気なく言った。ヴェーラはまたカティを見上げ、厳しい表情を見せて言う。
「十年前、アイギス村――で伝わる、よね?」
「……!」
カティは思わず足を止めた。ヴェーラたちも立ち止まる。薄暗くなった廊下には、他に誰もいない。
「カティは、アイギス村のただ一人の生存者、なんだね」
「……ああ」
カティは唇を噛む。首を振る。
「そうだ。でも、どうして分かったんだ」
今ひとつ状況が理解できていないカティの問いかけに、レベッカが小さく頷く。
「見えるんです、思考や感情や……記憶が」
「カティ以外のはぼんやり見えるだけなんだ。気のせいかもしれないってくらいぼんやりと。ベッキーは、うん、その、例外として。だけど、カティの……それは、昨日なんかよりずっと鮮明に見えるんだ、今も。音も、臭いも、伝わってくる」
「そんなことが……あるのか」
信じ難いとカティは思う。でも、カティがあのアイギス村襲撃事件の唯一の生存者だと知っている人間は少ない。ましてヴェーラたちが知っているとはなかなか考えにくかった。
「触っちゃいけない記憶だったって思ってる。ごめん、カティ」
「ごめんなさい」
急に二人に謝られて、カティは狼狽える。
「謝るなよ。別に見たくて見たわけじゃ……ないんだろ?」
「うん」
ヴェーラはカティの右手を両手で握りしめて、肯定する。小さな震えがカティに伝わってくる。
「カティは、こんなものをずっと一人で抱えて生きてきたの? こんな――」
「誰にも喋ったことはないな」
カティは深く息を吐く。喋ろうにも、喋れなかったんだけどなと、心の中で呟いた。
「思い出させて、ごめん」
「忘れたことなんて、ないさ」
カティは二人を両手に捕まえたまま、また歩き始める。
「忘れられたら良かったんだろうけど、いっそ」
カティはそう言って天井を見上げる。
「話せるかどうかはわからないし、まだ出会って二日目のお前たちに話して良いことかもわからない」
今なら話せるかもしれない。でも、この、アタシの自分勝手な感情に巻き込みたいとも思えない。カティはそんな事を考えた。
「それは自分勝手な感情なんかじゃないよ」
ヴェーラが言う。カティは思考を読み当てられて息を飲む。カティはヴェーラと見つめ合う。ヴェーラは今にも泣きそうだった。
「優しいんだね、カティは」
「優しいもんか」
カティは吐き捨てる。呼吸が浅くなっているのを感じる。少し眩暈を覚える。薄ら寒い廊下の空気に体温が奪われていく。冷たくなっていく意識を繋ぎ留めたのは、二人の少女の体温だった。
「十年前、か」
カティは苦労して声を出す。記憶に霞がかかり始める。言葉が少しずつ消えていく。
「伝わってるよ、カティ」
ヴェーラの声が、カティの意識の解像度を上げていく。話したい――カティの中についぞ感じたことのない能動的な欲求が湧き上がる。逃げ続けた、しかし常につきまとっていた記憶と向き合える唯一の機会かもしれない――そう直感したのだ。
「アタシなんかより不幸な人間は大勢いると思うし、あんまりそういう悲劇のヒロインじみた自分語りはしたくないし……したこともない」
「カティより不幸な人、いるかもしれないね。たしかに。でも、そのことと、カティが本当に苦しんでいる記憶が実際に存在すること。何か関係があるの?」
ヴェーラの静かな問いかけに、カティは沈黙する。
「誰かと不幸比べをして負けたからって、自分の心の悲鳴に対して耳を塞ぐのなんて、おかしいよ」
そんなこと言ってもらえたことはなかった。カティは俯いてまた足を止めた。
「アタシは、さ」
カティは自分の声が震えていることに驚く。
「十年前のあの日に、きっと一度死んだんだ」
――少なくとも心は、あの日に一度、完全に破壊されてしまった。
カティはまた天井を見上げ、湿った眼球を乾かそうとする。奥歯を噛みしめる。目が熱い。横隔膜が痙攣する。
「ヴェーラ、レベッカ。なんかゴメンな」
二人の少女はカティに寄り添い、歩いていた。