約十年前、二〇七一年の晴れた夏の日のことだ。
ヤーグベルテ南部にある小さな漁村、アイギス村の周囲には文字通り何もなかった。大きな道路もなく、公共交通機関も名目上存在するだけだった。村で購入した輸送ヘリが、生活必需品の類の輸送を一手に引き受けていた。近隣都市からはあまりにも距離があるために、ドローン輸送すらままならないのだ。それゆえに、アイギス村の存在を知る人からは「隔絶の土地」などと呼ばれてもいた。
アイギス村の漁師たちは、漁に出ると直接村へは帰ってこない。一度市場のある隣接都市の港に寄ってから戻ってくる。そのまま村に戻ってきたところで、魚介類を市場に出せないからだ。
また、アイギス村の沖合は、ヤーグベルテとアーシュオンの海戦が頻繁に発生する土地である。島嶼占領作戦と奪還作戦が交互に行われるからだ。それだけ地理的に重要なポジションにあるため、村人たちは海洋監視の任務も帯びているのだ。レーダーや衛星、航空監視も行われていたが、村人たちの目は最終防衛ラインとして活用されているのだ。
「カティ偵察員、状況を報告!」
「お兄ちゃん船長! 水平線異常なーし!」
八歳のカティは双眼鏡を手に、ぐるりと海を見回した。二日前には真っ黒な煙が立ち上っていた水平線の向こうには、今は白い入道雲が佇んでいる。海岸線には多くの遺留品が流れ着いていて、その殆どがいまだ放置されていた。遺体もかなり上がっていたのだが、それは子どもたちが目にする前に、大人たちによって回収されていた。このあたりの手際も、アイギス村の住人たちには慣れたものだった。
「お兄ちゃん船長!」
カティはレトロな双眼鏡を外して、傍らにいた二歳年上の兄の袖を引っ張った。
「どうした、カティ偵察員」
「あそこ見て!」
カティは遠くに見える岩海岸を指差して、兄に双眼鏡を手渡した。兄はそれを使って暫し黙り、不意に駆け出した。
「死体だ! 死体を見れるぞ、カティ!」
「ええ!? 死体なんて見たくないよ」
「うるさい、着いてこい!」
「やだなぁ」
二人は走り出す。妹を連れてこなくてよかったと、カティは思う。死体なんて見せたら、きっと怒られるから。
「ねえねえ、お兄ちゃん。もし生きてたらどうするの? あれ、アーシュオンの服だと思うんだけど」
双眼鏡で見えたのは、少なくともヤーグベルテの軍服ではなかった。
「お父さんたちに報せに行った方が良いと思うんだけど」
「せっかくのチャンスなのに、そんなことができるかよ!」
頑固な兄はカティの手を引いてぐいぐいと進んでいく。二人は途中で棒切れを拾い、目的地へと辿り着く。
「確かこの辺……」
カティの兄はおっかなびっくり岩陰を覗き込む。カティもその肩越しに覗き込み、ふぅと息を吐く。
「いない……」
「誰を探してるのかな?」
降ってきたその声に、カティたちは文字通り飛び上がった。大きな岩の上に、アーシュオンの兵士が立っていた。武器は持ち合わせてはいないようだが、カティたちにしてもそれは同様だ。つまり、兵士がやる気になれば全く勝ち目はない。子どもが持つ頼りない棒きれ二本で何が出来るかという話だ。
「お、お前、アーシュオンの兵隊だな! う、動くな!」
「相手に言うことを聞かせたいなら、君は相手以上の力を見せなきゃならないんだよ」
兵士は全くお構いなしに岩場を降りてきて、すくんでいる二人の子どもの前に立った。栗色の髪、緑の瞳。軍服は傷んでいたが、兵士自身に怪我はないようだった。
「ここはどのあたりだ? 携帯端末をなくしてしまってね」
兵士は流暢なヤーグベルテ語でそう言った。カティは兄の手を引いて「逃げよう」と言う。が、兄は首を振る。
「ここはユーメラのアイギス村」
「ああ、あそこか。地図で見た記憶があるな」
兵士は「うむ」と一つ頷いて、「空き家はないか」と尋ねてくる。カティは大きく首を振る。
「お父さんたちに報せて、軍隊呼んでもらわないと――」
「俺の捜索隊が来るまで黙っていてくれたらお礼はする」
兵士は人差し指を立てて提案する。カティはぶんぶんと首を振ったが、兄は「カティは黙ってろよ」と聞く耳を持たない。カティは油断なく兵士を睨みつけるが、兵士はにこにこと微笑み返す。敵意はなさそうだ――カティはなんとかそのように判断する。何の根拠もなかったのだが。
三人は連れ立って、海岸にほど近い場所に放置されていた空き家に向かった。カティたちがしばしば遊び場にしている半世紀前の建物だ。そこには多くの水や食料が蓄えられていた。海戦が起こるたびにカティたちが海岸で回収したものをこっそり集めていたからだ。それは最近の頻繁な島嶼攻防戦のおかげで、かなりの分量になっていた。
「心配しなくても良いよ。捜索隊が来たらこっそり帰るから」
兵士の名前はヴァシリーと言った。
そしてカティたちは、ヴァシリーのこの言葉の不自然さに気付けるほど、大人ではなかった。