カティが覚えていたことはほんのわずかで、言葉にすることができたのは更にその何分の一かだった。しかし、ヴェーラもレベッカも鋭く影のある表情でカティを見つめていた。
「ヴァシリー……」
ヴェーラは唇を噛み締めている。ヴェーラはカティの中にある記憶を読み込んでいた。カティ自身は思い出せなかった記憶を、だ。カティが自我防衛機制の働きによって封印してしまった情報を、ヴェーラもレベッカも、正確に読み取っていた。
「こんなこと」
レベッカの声が震えている。ヴェーラは目を伏せている。三人は薄暗い廊下のベンチに影のように固まっている。
「こんなこと、絶対……!」
「ベッキー、今はそうじゃないよ」
ヴェーラは立ち上がってレベッカの前に移動し、その灰色の髪を撫でた。レベッカは目に涙を浮かべてヴェーラを見る。ヴェーラはゆっくり頷き、カティに顔を向けた。
「カティの記憶、受け取らせてもらった。カティが今まで誰にも話さなかった記憶。失語症になってまで封印し続けた記憶。だよね」
ヴェーラのその言葉に、カティは目を見開く。失語症のことなんて、一言も話さなかったのだから。
ややしばらくして、カティは額に手を当てて微笑った。
「参ったな。これは、参ったな」
思い出さないようにしていた。話そうとなんて思ったこともなかった。このまま一生、胸に抱え込んで、そして軍に入って死ぬんだと思っていた。別にどうということもないと、そんな事を思っていた。
「お前たち、本当に全部見えるのか」
「うん」
ヴェーラは頷いた。レベッカは無言のまま、何度も頷いている。その肩は小さく震えていた。ヴェーラはまたカティの左側に座り、その背中に手を当てて、囁いた。
「わたしたちがカティの記憶をこんなに鮮明に見ることができるのには、きっと特別な意味があるんだ。カティの苦しみや後悔も見えたよ。わかるんだ。でもね、カティ。カティのしてきたこと、選択の結果がね、そんな記憶を作ったわけじゃないんだ」
「でも、アタシが……」
「ううん」
ヴェーラは首を振る。
「カティがその時にどんな選択をしていたってね、きっとあの日は訪れていたんだ。だから――」
「そんなの、あんまりじゃないか」
カティは口に手を当てる。奥歯を噛み締めながら、「あんまりじゃないか」と吐き出した。
「アタシが何をしても、何もしなくても、あんなことが起きるなんて。あんな惨たらしく殺されていくなんて。その中でアタシ一人が生き残ってしまうなんて。アタシにいったい、何の罪があったって言うんだ」
そんなカティの背中にもう一つの手のひらが乗せられる。レベッカだった。
「あなたに罪なんてあるわけない。苦しみを受けた人に罪なんてあるわけがない」
「でも、アタシは……じゃあ、なんでこんな」
「罪じゃない。あなたのせいじゃない。あなたをこんな目に遭わせた人が、罪人なんです。でも、カティさん。納得なんてできないですよね。こんなこと、きっともう何回も自問自答して出尽くした答えですよね」
レベッカの声が上擦っている。カティは背中から伝わるレベッカの震えに、何も言えなくなる。ヴェーラは立ち上がって、カティの頬に手を当てた。目を丸くするカティに、ヴェーラは微笑む。
「カティ、あのね。わたしたちがカティに対してできることなんてないよ。過去を変えられる力もない。ただね、カティさえ良ければだけど、その、一緒にいることはできるんだ」
「同情とかじゃないんです、カティさん」
レベッカが早口で言った。カティは頬を挟むヴェーラの両手をゆっくり引き剥がし、暗い天井を見上げて、溜息をつく。
「カティさんの過去を正面から受け止める勇気なんて、私にはありません。でも、私たちは知ってしまったから。だから、これからはもう……独りじゃないって」
「うん」
カティは曖昧に頷く。
「独りでいることは、嫌いじゃないんだ」
「カティさん……」
「独りはいい。全て自分の責任でやれる。なにかあっても自分だけが痛い目を見ればいい。誰かが失敗したところで自分には関係ない。争う必要も妬む必要もない、だろ?」
カティは正面に立つヴェーラを見上げる。ヴェーラはその翳った空色の瞳でカティを見つめ返す。カティは息を飲み、その美しく整った少女に意識を奪われる。ヴェーラは小さく問いかける。
「悲しくない?」
「……かもな」
悲しい、か。考えたこともなかった。カティは首を振る。ヴェーラは今度はカティの両手のひらを捕まえた。
「カティ。わたしたちじゃダメかな」
「ダメ?」
「わたし、もしカティに何かあったら悲しいよ。カティを傷付けるような人が現れたら、わたしは全力でぶん殴る。カティが泣いたらわたしも悲しい。カティが怒るならわたしも怒る」
「会ったばかりだろ? まだ……」
「関係ない」
明快に言い切るヴェーラに、カティは少し面食らう。
「わたしはカティを知ってしまった。今のカティにつながるカティを知ってしまった。だから、関係ない」
「無茶苦茶な気もするけど……」
カティは苦笑する。その弾みで涙がこぼれた。それにはカティ自身が一番驚いた。レベッカの手がカティの背をゆっくりとさすり、ヴェーラはカティの両手をしっかりと包み込んだ。
「アタシ、泣いてる、のか――」
カティは思わずそう呟いた。涙が止まらない。気付けば嗚咽していたし、涙を拭くこともままならない状態で、カティは咽び泣いていた。二人の少女はただ黙ってその現実を見つめている。
「すまない」
カティは震える声で言う。ヴェーラは首を振り、レベッカはカティの肩に頭を乗せた。
「だいじょうぶ」
レベッカの声に、カティはまた嗚咽する。
「私たちが、こんな世界変えちゃいますから」
「うん、わたしたちがね、必ず変えるから」
二人の少女の言葉に、カティは目を瞬かせる。
「お前たち、まさかと思うが」
カティは二人を順に見た。
「歌姫……?」
「歌姫かぁ」
ヴェーラはカティの左側に戻って、その身体にもたれかかった。
「歌姫防衛構想、歌姫特別措置法――まぁ、そういうあれだよね。肝心の歌姫がなんなのか全く開示されてないけど」
「うん」
カティは頷く。名前だけがセンセーショナルに発表されて以来、何の動きも見られない政治の話だった。
「ま、実際問題、わたしたちが歌姫であっても、イエスとは言えないわけだけど。それはともかくとしてさ、カティ。わたしたちがね、こんな戦争まみれの世界を変えるから、さ。まずそこからでしょ」
「ああ」
カティは両サイドのヴェーラとレベッカの肩に手を回す。ヴェーラは小さく笑う。
「あはっ、両手に花だね」
「ちょっとヴェーラ、自分たちで言うことじゃないわよ」
「アタシには過ぎた花だよ」
カティはそう言って二人の頭を撫でた。
「二人がもし、歌姫だっていうのならさ。アタシのために何か歌ってくれよ」
「あのね、カティ」
ヴェーラが難しい顔をする。
「歌姫っていうのは、たぶん兵器だよ? だから、歌ったらカティが爆発しちゃうかもしれないよ?」
「それは困る」
カティは目を細める。ヴェーラと目が合った。ヴェーラはこの世のものとは思えないほどに透明な微笑みを返してくる。
「なんか……ごめんな」
「どうして謝る?」
カティの謝罪に、ヴェーラが間髪入れずに尋ねた。驚くカティに、ヴェーラはまた笑みを見せた。
「アタシ、そんなたいそうな人間じゃないんだとか、そういうこと思ったでしょ」
「……参ったな」
カティは大きく息を吐いた。心を見透かされているのは事実だったが、それについて悪い気は一つもしなかった。
「カティの考え方とか、そういうのを否定するつもりはないんだよ、わたし。ベッキーもだよね?」
「ええ」
「でもね、カティ」
ヴェーラの空色の瞳がキラリと輝く。
「そういう考え方は、時々にして」
「と、時々?」
「うん、時々」
ヴェーラは立ち上がり、カティの手を引いた。レベッカも立ち上がって「そろそろ帰りましょうか」と提案する。
「時々なら、いいのか?」
カティは立ち上がりながらヴェーラに尋ねる。今まで何十回ものカウンセリングを受けてきたが、そのたびに自分の考え方を否定されてきたし、「正しい考え方」というものを押し付けられてきた。だから、ヴェーラの言葉は新鮮だった。
「カティがそうしたいって思うなら、それでいいよ。でも、時々だよ、時々」
「優しいんだな、ヴェーラは」
「そうかな」
歩きながら、ヴェーラはふっと息を吐く。
「だといいな」
ヴェーラのその言葉を聞いて、カティはヴェーラの白金の髪をくしゃっと撫でた。
「アタシ、なんか変な気持ちだ」
カティは両腕を再びしっかりとホールドされながら、小さく唸る。レベッカがカティを見上げる。
「アタシに友だちができるなんて、ですか?」
「う、うん」
「残念!」
ヴェーラが大きな声を出した。カティとレベッカがビクッと肩を震わせる。
「友だちじゃありません! 親友でした!」
ヴェーラはキラキラとした表情で、そう断言したのだった。
親友――カティは立ち止まってしまう。足が動かなくなった。ヴェーラとレベッカは、カティを見上げながらただ待った。
「……アタシ、部屋に帰ったら泣くと思う」
「いいんですよ」
レベッカの囁きが、カティの胸を締め付ける。
「それはたぶん、悪い涙じゃないですから」
「あ、そうだ!」
ヴェーラがカバンの中から携帯端末を取り出した。
「連絡先交換してなかったよ!」
「いいですか?」
レベッカも携帯端末を取り出した。そうまでされて嫌だとは言えないとカティは苦笑する。カティの携帯端末に記録されているのは、学校事務局だけだった。
「どうやって追加するんだっけ」
カティはそう言って肩を竦める。ヴェーラはそれを受け取ると、手早く自分とレベッカのアドレスを設定した。
「じゃ、かーえろ!」
ヴェーラは鼻歌を歌いながら、カティと手を繋いで歩き始めた。