……あれ?
今、何考えてたっけ?
階段を降りながら、カティは首を振る。ヴェーラから電話があったことは覚えているし、会話の内容もちゃんと思い出せる。だが、それからどうして階段の所まで辿り着けたのかは不明だった。確かに目を閉じていてもここまで来ることは出来る。だが――。
カティは踊り場で立ち止まり、携帯端末を見る。時間的にはヴェーラとの通話が終わってから五分と経っていないだろう。
「試験疲れか、な?」
カティは頭の中で呟き、携帯端末をカバンに押し込んだ。途中で女子たちの集団とすれ違うが、カティは考え事をしているふりをしてやり過ごした。人の波をやり過ごすのだけは本当に上手くなったとカティは思っている。無関心を装えば良いのだ。というより、カティは――あの事件以来だが――そもそも他人に無関心な性分だった。
なんとなく頭に引っかかりを覚えている状態のまま、カティはヴェーラたちの待つロビーへと移動する。さほど広くもないロビーである。長椅子に並んで座っている二人の美少女を一瞬で見つけて、カティは右手を上げた。
ヴェーラは白一色のワンピースの上に厚手のデニム地のジャケットを着て、白いふわふわのベレー帽を被っていた。足元はファーの付いた濃いベージュ色のショートブーツである。レベッカは膝下まである深緑色のロングジャケットと、緑のベレー帽、そして黒の膝下までのブーツを着用していた。二人は並んで携帯端末を操作しながら何事か会話をしていた。周囲にいる候補生たちはチラチラと二人に視線をやりつつ、それでも話しかけたりはしなかった。講義室にいる時以外には話しかけてはならないという暗黙の了解ができつつあったからだ。
「あ、カティ来た!」
ヴェーラはひょいと長椅子から降りて、携帯端末をジャケットのポケットにしまった。レベッカもヴェーラと並んでカティのそばまでやってくる。
「待たせたな。あいつがちょっと強引でさ」
あいつ?
言った本人が心の中で首を傾げる。
「あいつって、だれ? 彼氏?」
ヴェーラがカティの右手を捕まえて追及してくる。カティは「いやいやいやいや」と首を振る。
「彼氏とかそんなはずが――」
「可能性としてはなくないですよ、カティ」
レベッカが眼鏡のレンズを煌めかせながら言う。カティは小さく仰け反って「だから違うって」と釈明する。
「アタシに声をかけるような男がいるわけないだろ」
「そんなことないと思うけどなぁ」
ヴェーラはニヤニヤしながらカティの周りを回る。
「恋愛なんて、小説の中だけで十分だ。アタシはその主人公になんてなれっこないさ」
「カティは恋愛小説好きだもんね」
「好きっていうか……いや、確かによく読んでる」
だけど、それとこれとは全く別で。自分が当事者になるだなんて思ったことはないし、なろうと思ったこともない。
「あっ、そうだ。あの人じゃない? ねぇ、ベッキー」
「あの人?」
レベッカは眼鏡のフレームをくいと押し上げながら、視線でカティを詰問してくる。
「この前ちらっと見かけたじゃん、がっしりして背が高くて優しそうな人。空軍候補生だよね、あの人」
「ああ、あの人!」
レベッカは両手を打った。が、当のカティには誰のことか分からない。
「フリードマン教官もびっくりな体格の人よね。でも、優しそうな人だったわね」
「ええと、二人で盛り上がっているところ悪いんだが……。アタシにとって男子は南瓜にしか見えてない。誰だそれは」
「またまたぁ」
ヴェーラはカティの鳩尾に、基本に忠実な正拳突きを入れてくる。思わぬ不意打ちを受けたカティは、一瞬呼吸を止めた。
「けっこう……キたぞ」
「ごめん! でも、隠し事してるカティが悪いから、カティが謝れ!」
「いや、してない――」
しかし、カティの抗議の声は二人の美少女には聞こえていない。カティは右手で赤毛を掻き回してから、肺の中の空気を吐き出した。
「しかしナンだね、アレだね、カティさん」
ヴェーラはカティの右腕に左腕を絡ませて歩き始める。
「カティはものすごーく美人っていうかイケメンじゃん? そろそろ恋の一つでもしたらいいんじゃないかね?」
「おじいちゃんかよ」
「げふげふ、老い先短いワシのために、孫の顔を……」
「ばか」
カティはヴェーラの頭をわしゃわしゃと撫で回した。白金の髪が西日の中で踊る。
「で、あいつって誰?」
「誰ですか?」
二人の矢継ぎ早の攻撃を受けて、カティは思わず眉間に皺を寄せた。そんなカティの左腕を捕まえるレベッカである。いつものように二人に挟まれたカティは、諦めたように歩みを進めた。
「尋問の続きはケーキでも食べながらしましょ、ヴェーラ」
「ピザは?」
「今日はケーキ」
譲らないレベッカに、ヴェーラは「しょーがないなー」と降参する。
「おごりだよね!」
「ちょっ、ヴェーラ。自分の分は自分で払いなさいよ」
「ああ、いいよ。ケーキくらいならまだ予算の範囲内」
カティは両サイドの二人を見ながら苦笑する。カティの軍資金は決して潤沢ではないが、それでも一通りの生活に困らない程度は国から支給されていた。故郷のアイギス村襲撃事件の被害者であることから、国の制度に基いて支払われているのだ。また、奨学金も出ており、これは五年間軍人として責務を全うしさえすれば支払い義務がなくなるというものだった。
「大丈夫ですか? 本買えます?」
「そこまで貧乏じゃないよ」
カティはレベッカを見下ろしながら応じる。レベッカは「なら……」と頷いた。
レベッカはカティのその穏やかな表情を見上げて、少しだけ目を細める。あれだけの経験をしてきたのに、カティはこうして笑っている。それまでの間に、どれほどの葛藤があったのか。苦しみがあったのか。想像するだけで胸が苦しくなる。カティがこうして笑っていられるのなら、私たちは何だってするだろう――レベッカはそう思う。
「いやはー、助かるぅ。わたし、今月の予算使い切っちゃってさぁ」
「ヴェーラはお金遣いが荒いのよ!」
「だってさぁ、わたし、歌コレクターじゃん? ちょっと気になったら買っちゃうんだよねぇ。わかるよね、カティ。カティだって紙媒体のいい感じの小説見たら買うでしょ」
「お、おう」
そこで意気投合しないでよと、レベッカは首を振る。ヴェーラはポケットの中から小さな白色の音楽プレイヤーを取り出した。カティのA856よりもだいぶ小さい。しかし、高解像度空中投影型ディスプレイを有するその端末は、カティにとっては高嶺の花と言っても良い超がつくほどの高級品だった。
「Ax933か、いいなぁ」
「すごい! ひと目でわかるんだ!」
「そりゃね」
カティは幾分得意げに応える。ヴェーラは空中投影ディスプレイのサイズを調整して、保存されている曲目の一覧を表示してみせる。
「こんなに古いのをよく集めたな。相当かかっただろ」
「手当たり次第だからね。めちゃめちゃピザ我慢したよ」
「あなた、ピザを貨幣代わりにしてる文化だったの?」
「うん」
ヴェーラはふんふんと歌いながら曲目を一通り見せて、ディスプレイ機能をオフにした。
「ベッキーだってピザ我慢すべき」
「なんで」
「だって、わたしが買ったのを聴いてから、自分も買うか決めてるじゃん? それ、ズルくない?」
「そ、それはっ」
狼狽えるレベッカに、ヴェーラが悪い笑みを向けている。
「まぁ、わたしは寛大だから? ベッキーがちょっと豪華なピザを毎週三回おごってくれれば二年くらいで許してあげなくもないよ?」
「食べ過ぎ! あと、期間、長すぎ!」
瞬間的にツッコミを入れるレベッカに、たまらずカティは吹き出した。しかし、ヴェーラはニヤニヤしながら応じる。
「わたしは大丈夫だから!」
「いや、あなたの話じゃなくて」
「わたしの話じゃん?」
「いやそうじゃな――う、うん? そう、なのかな?」
割とあっさり押し負けるレベッカを見て、カティは笑いを止められなくなる。
「さて、ケーキの時間が遠ざかるぞ」
カティは息を切らせながら言う。そして二人を小脇に抱えて歩き始める。ヴェーラは歓声を上げて足をばたつかせ、レベッカは恥ずかしそうに顔を伏せた。
「いざゆかーん!」
ヴェーラは前方を指差して高らかに宣言した。