それから二週間が経過する頃には、カティの同期たちもF102をそれなりに飛ばせるようにはなっていた。もちろん適性の問題はあるにしても、飛ぶだけなら全員が一端のパイロットだった。それぞれがカティやエレナ、あるいはヨーンの手ほどきを受けたこともあり、ともすれば上級生たちよりもうまく飛べる者が多々生まれた。カティたちが将来軍に配備される時には、F108が主力機になっているはずだったが、カティたちの教練の中には、未だにF108の操縦訓練は含まれていない。ジェット機が主力になり始めた頃にレシプロ機の訓練を強要されているようなそんな虚しさが、候補生たちの間に蔓延していた。
カティ、エレナ、ヨーンの三人は、食堂の隅の席に陣取って、備え付けられている旧型のテレビを睨んでいる。そこには芸能人のスキャンダルが放送時間に応じてランキングされている……という極めてくだらない情報が踊っていた。今この瞬間も、アーシュオンの脅威にさらされているというのに。
「まったく、くだらない」
カティは空になった皿を前に腕を組んでいる。エレナとヨーンは追加で頼んだサラダをそれぞれに食べていた。カティは食事が早いのだ。
「カティ、二週間も前の話でイライラし続けるのは建設的じゃないわよ」
「あの一件は二週間前だけど、あの課題には未だに答えが見つけられてない。だからイライラしている」
エレナの言葉に、カティはやや棘のある口調で応えた。ヨーンが肩を竦める。
「わかるさ。僕だって正直あんまり心は穏やかじゃないよ。自殺攻撃を半ば強要されるようなそんな体制が、面白いはずがないね」
ヨーンの言葉を受けて、カティはヨーンと目を合わせる。ヨーンは目を逸らさずに、ほんの僅かに微笑を見せる。エレナはわざとらしい溜息をついて立ち上がり、三人分のコーヒーをトレイに乗せて戻ってくる。その間、カティとヨーンの間で言葉が交わされた形跡はなかった。
「どーぞ」
エレナは二人の前にコーヒーを置いて、席に座る。そして香りを――エレナにとっては安物の――楽しんでから一口飲んだ。ヨーンも同じようにしたが、カティはカップを手に持ったままじっとしている。エレナは右の眉を跳ね上げる。
「どうしたの?」
「いや、その、熱いかなって」
「猫舌?」
「ちょっとした、ね。ちょっとした、だぞ?」
カティはそう言ってカップに口をつけて、やや慌てて口を離した。エレナとヨーンは顔を見合わせて苦笑する。カティは二度咳払いをしてみせた。
「メラルティンがコーヒーを飲み終わるまでは、まだしばらくかかりそうだね」
「す、すぐ飲み終わるさ」
「いや、いいんだよ、ゆっくりで」
ヨーンはそう言って目を細める。
「話の続きをしようか」
「う、うん?」
「僕があの状況で一番機だったら、君が突っ込んでいただろうと思うよ」
「その仮定に意味はあるか?」
「仮定だからこそだよ」
ヨーンは頷く。
「僕が君よりも遥かに優秀なパイロットだったとしたら、君はそうしたはずだ。合理的に考えられる君なら、間違いなくそうした。死にたくないとかそういうのじゃなくて、もっと本能のような部分でね」
「冗談じゃない」
カティは首を振る。しかしヨーンもそれを否定する。
「ただ死ぬんじゃない。それによって、守りたいものを守れるとわかっているから、命を賭ける。いや、守れるかもしれない程度の理由でも十分だ。メラルティン、君はそういう判断をするだろう。僕たちと同じように」
「それは……」
――君にとって大切な人を守るために、何人かの味方が犠牲にならなければならないとしたら? あるいは、何人かの味方を犠牲にすれば、その人を確実に守れるとしたら?
ブルクハルトの言葉がカティの中に蘇る。
ヴェーラやレベッカ。あの二人を守るためなら……。
カティは考えてみる。しかし、その答えは出し切れない。
「違うよ、メラルティン」
ヨーンは穏やかな口調で言った。
「守るために何かを犠牲にできるか、という問いをしちゃだめなんだ。その人を守りたいか、それとも、守れなくても良い人なのか。問うべきはそれだけなんだ」
「そんなこと」
カティは紺色の目でヨーンを睨む。鋭い剣のような視線だったが、ヨーンはそれを真正面から突き刺されても動揺しない。
「じゃ、じゃぁ、ヨーン。訊くが、守りたいと思った人も、犠牲に差し出さなければならない人も、同じくらいに大切だったら。アタシはどうしたらいい」
「択ぶしかない」
ヨーンの静かな答えを聞いて、エレナも頷いた。カティはもうこの頃には完全に頭に血が上っていた。
「命に優先順位をつけろっていうのか!」
「そうだよ、優先順位だ」
ヨーンの冷静な言葉が、カティの冷静さをますます奪っていく。
「アタシは、もう誰も失いたくなんてない!」
「その結果として、何もかも失うかもしれない」
「だとしても! アタシは……誰も死なせたくない!」
絞り出されたカティの声に、エレナは表情を曇らせる。ヨーンはなおも穏やかな表情でカティを見つめていた。
「誰かの命を踏み台にするなんて、どんな崇高な目的があったってまっぴらごめんだ、アタシは!」
「僕もそう思う。けどね。そんなことじゃ、誰も救えない」
「だとしても! そこで思考停止してどうする!」
「停止なんてしない」
ヨーンは強い口調で言った。思わずカティは言葉を飲み、エレナは息を呑んだ。
「だけどね、ほら。現実問題として僕らはそのための方法論を見つけられていないだろう? だからそれが見つかるその時まで、僕たちは常に命の優先順位を作り、それを守るために冷徹に犠牲を捧げていかなくちゃならないんだ」
「冗談じゃないぞ」
カティは腰を浮かせる。が、その動作の続きはエレナの鋭利な視線が制した。渋々椅子に戻ったカティはまた腕を組んで目を閉じる。
「カティ、僕だって迷ってる。だけどね、僕にとっての優先順位トップにいるのは、ずっと君だよ、メラルティン」
「ア、アタシ……!?」
「わお」
エレナが思わず茶々を入れた。ヨーンはそれに気付かなかった様子で、言葉を続ける。
「合理的にさ、多くの人を守るポテンシャルを持ってるのは君だ。だから、君を守れば間接的に多くの人を救える可能性が出てくる。だから、君なんだ」
その言葉に、エレナは心の中で転倒した。違うでしょ、ヨーン。そう言いかけたが、かろうじて踏みとどまった。
「僕は君を守るためなら、どんな手段だろうが、どんな道具だろうが、どんな政治的駆け引きだろうが、利用するよ」
「アタシなんか――」
「メラルティン、いや、カティと呼ばせてもらうよ」
突然ファーストネームを呼ばれ、カティは露骨に視線を彷徨わせた。
「君は誰の目から見ても超エースの才能に満ちている。誰もが君に期待している。君はどんな機体だって我が物にするだろう。遠からずして、君に追いつける者はいなくなる。これは僕だけの予測じゃない。あの暗黒空域や異次元の手でさえそう評価している」
その事はカティも知っていた。空軍の公式広報サイトで、現時点最強の二人が、カティのシミュレーションデータを見てそう評したのは、もはや誰もが知っている。
「でも、そんな事以前に、僕は君を生き残らせるためなら、どんな手段だって講じる。何度も言うけど。僕は僕にできることをする。それだけだ」
ヨーンは極めて真面目に言ったのだが、エレナはそれを聞いて顔がだらしなく緩むのを止められなかった。もちろんただならぬ嫉妬心も覚えてはいたが、それ以上にエレナはこの状況に興奮してもいた。ともすれば口笛を吹いてしまいそうなほどに。
ヨーンは生真面目な表情のまま、続ける。
「僕はこの生命に代えても、君を失う可能性というやつから君を守る」
「だからそれは――」
「仮に今、君にぶん殴られたとしても、僕はこの決意を変えない」
静かなヨーンの言葉に、カティは険しい表情を見せて立ち上がる。そしてそのまま「勝手にしろ!」とどこかへと去ってしまった。
「あのさ、ヨーン」
エレナがカティの姿がすっかり視界から消えたのを確認してから、半眼で声をかける。
「あなた、カティのことが好きなんでしょ」
「え?」
「え、じゃないわよ。どう考えてもあれは告白でしょ?」
「そんなことは。僕はただ合理的に……」
「恋愛は非合理よ。あなたはそれに合理性という蓋をしてるだけ。違う?」
「僕にはそういう感情は」
「ないの?」
畳み掛けるエレナに、ヨーンは戸惑う。
「いい、ヨーン。カティは今のところ私のものよ。だからあなたが手を出さないって言うなら、私がもらっちゃう。絶対奪っちゃう。どんな手を使ってでもね。だけど、あなたがしゃっきりと男を見せるって言うなら、私は手を伸ばすのをやめるわ。あなた以外の男にあの子をあげるなんて絶対にないけど、ヨーン、あなたになら譲ってもいい」
まだ私のものでもないけどね、と、エレナは心で舌を出す。
「だから、僕はそんな」
「ええい、肝心なところでうじうじと! あなたもカティもほんっと似た者同士ね! 特にカティはすぐこじらせるタイプよ。もうあなたと二度と口をきかない可能性だってあるわ」
「そ、それは」
「困るでしょ、悲しいでしょ」
「ま、まぁ……」
ヨーンは狼狽える羆のように、大きな身体を小さくした。
「よくもまー、そんなウブなのに、さっきはあんなに大胆なことが言えたものね。なんでもいいけど、早くしないと午後の教練にずれ込むし、時間が経つほど言葉は遠くなるわよ。あなたの言葉がカティを傷付けることになるとしても、仮に関係性が変わってしまうとしても、何も言わないままでそうなるよりは絶対に良い。でしょ?」
「う、うん」
ヨーンは頭をポリポリと掻いた。エレナは腕を組んでヨーンを見つめる。ヨーンは息を飲みながらもそれを受け止めた。
「私だって嫉妬でどうにかなりそうなのよ、ヨーン。このままあなたとカティがずるずる意味のわからない距離感にいるんだとしたら、私がおかしくなっちゃいそう。だからさっさと行って、さっさと関係性を確立してきなさい!」
エレナはそう言って立ち上がり、カティが消えていった方向を顎でしゃくった。ヨーンは「わかったよ……」と力なく呟くと、そちらへと消えていった。
食器を片付けながら、エレナは首を振る。
「なんで私、あんなおせっかいしたんだろ」
私のカティが取られちゃうのよ? いいの?
そんなことを問いかけても、エレナの本心は答えを濁す。
「なんか腹が立つのは事実だけどね」
エレナはコップに水を注ぎ、一息で飲み干した。