コーヒーカップをソーサーに戻すなり、シベリウスの携帯端末に着信があった。空中に浮かび上がったのは、「エリソン・パウエル」の名前だった。シベリウスは面白くなさそうに鼻を鳴らすと、携帯端末を手に取った。スピーカーモードでは聞かれたくない内容かもしれなかったからだ。
「なんだよ、エリス野郎」
『いきなりご挨拶だな、カレヴィ。地獄は二重底ってことだ』
「そう言うてめぇの弟が地獄を底上げしたんだろうが」
シベリウスは聞こえよがしに舌打ちする。パウエルは「そうなる、か」と呟く。シベリウスは虚しく佇んでいるコーヒーカップを睨み付け、言った。
「てめぇの弟のせいでこれからどうなると思ってやがるんだ、くそったれが」
『まずい状況ではある。が、これは俺の責任の範囲外の話だ』
「わかってんだよ、んなこたぁ」
シベリウスは携帯端末をデスクの上に置いて、スピーカーモードに切り替えた。仮に今、エルスナー大尉が入ってきたところで大した問題でもないと判断したからだ。
「それにしたって、エリス野郎。どうなってやがる。てめぇの弟、シミュレータ訓練さえ未履修だろ」
『ああ』
「エイディの指南でも受けたのか?」
『まさか。そんな段階ではない』
「じゃぁ、どういうことだよ」
シベリウスの表情は険しい。おそらくパウエルも似たような表情をしていることだろうとシベリウスは推測する。二人は知らない仲ではない。同期として、そして超エースとして、エイドゥル・イスランシオ大佐と共に切磋琢磨した仲だからだ。決して仲良しこよしの関係ではなかったのだが。
パウエルが言う。
『仮に俺が現役だったとしても、あんな芸当はできない』
「エイディならできるだろうが、いや、エイディにしかできないだろう」
『あいつは人外だ。例外というやつだ、例外。少なくともカルロスは、エイディではない。当然、お前でもない』
「わかってら、んなこと。少なくとも戦闘機乗りとしてのセンスは超一流。それはてめぇの弟ってことを考えても否定できねぇ。てめぇだって飛行機を降りさえしなければ今でも俺たちと対等だったろうしな。だが、なんだ。誰がてめぇの弟にあんな飛び方を教えた?」
『可能性があるとすれば』
「あるとすれば?」
『政府から派遣されてきた得体のしれない男がいる。歌姫計画にも関与しているうえに、うちの空軍候補生たちの指南役もやっている』
「ははぁ」
シベリウスは腕を組んだ。
「エイディから聞いたぞ。確か、クライバーとかいう奴だな」
『かなわんな、イスランシオには。相変わらず危ない橋を渡る』
「エイディをどうにかできるような奴は、少なくともこのヤーグベルテにはいやしねぇよ。それにエイディが何か痕跡を残すようなヘマをやらかすようなこともねぇ。心配要らねぇよ」
『わかってる。だが――』
「だがな、んなこたどーだっていいんだよ、エリス野郎。問題はこの後どうするかってこった」
シベリウスは「エリス野郎」をことさらに強調して言った。「エリス」というのは不和の女神の名前だ。パウエルのファーストネーム、エリソンを縮めてエリスと呼んでいるが、そこにはまさに「不和」の意味が込められている。かつてシベリウス、イスランシオ、そしてパウエルの三人で空軍の最強を争っていた時代に、シベリウスとイスランシオは極めて仲が悪かった。パウエルはその二人の仲介役を空軍上層部から仰せつかっていたのだが、パウエル自身、それほど品行方正な人物でもなければ正義感に目覚めた男でもなかったから、仲介を試みた際に「火に油を注ぐ」ような結果となっていた。シベリウス達ではどうにもならないほど問題が大きくなったこともあり、その時以来、シベリウスとイスランシオは、パウエルのことを「エリス野郎」と呼ぶようになった。
『残念ながら、俺の力ではどうにもならん。イスランシオやお前が火消しに走ってくれているのは知っているが、それとて動き始めた世論の前では――』
「くそったれが。まぁ、いい。ところでそっち、今あの潜水艦キラーがいるんだって?」
『クロフォード中佐だな。変な男だよ』
「噂は聞いてる。上官殴って左遷されたとか」
『事実らしいな。だが、わかりやすい人物に見えて、その本音が全くわからん。警戒すべき男だと思っている』
「なるほどな」
シベリウスは顎に手をやってしばらく黙る。
「エイディの見立てでも、第三課のアダムスの野郎なんかよりもよっぽど注意すべき男らしいな」
シベリウスは端末でメールを呼び出して言う。携帯端末の向こうで、パウエルが肯いたのが伝わってくる。シベリウスはメールをいくつか開いて「ふむ」と何かに納得した。
「そういうことか。第六課もなかなかやるもんだ」
『どういうことだ?』
「憲兵野郎がいるだろ、そっち」
『フェーン少佐か』
「そ。海軍の教練主任だろ。そいつと第六課の統括――」
シベリウスは参謀部第六課統括の顔を思い浮かべる。痛々しい火傷の痕をそのままにした、見た目に激しいインパクトのある女性高級将校である。
『逃がし屋のルフェーブル中佐か。なるほど、中佐とフェーン少佐は確か以前付き合っていたという話を聞いたことがあったな』
「ということだ。参謀部第六課といえば、歌姫計画の統括部署だろ。そのボスはルフェーブル中佐。対立するのは第三課のアダムス少佐。アダムス少佐がクライバーなる化け物をそっちに送り込んだ。それを牽制するために、そして、クロフォードの動向を監視させるために、ルフェーブル中佐は信頼の置ける男、フェーン少佐を歌姫たちにつけた」
『考えすぎでは?』
「てめぇは考えなさすぎなんだよ」
シベリウスはまた唸る。多分イスランシオも同じことを考えるに違いないという確信があった。
「今、エイディからメールが来た。なるほどな、第六艦隊がへぼすぎたのはそういうことか」
シベリウスは第六艦隊に起きていた事象を確認しながら眉間に皺を寄せた。
第六艦隊の対潜哨戒機がエンジントラブルを起こし、発艦タイミングが大幅に遅れて哨戒活動に穴が開いた。対潜駆逐艦の基幹システムがウィルスに感染し、哨戒ルートが漏洩していた可能性がある。第六艦隊は敵艦隊規模を二倍に見誤り、戦わずして後退を選択した。なお、その際に、情報探査艦が強力なジャミングを受けた影響からか、一時システムダウン。そのため、四風飛行隊への出撃要請が遅延した。
「なんてザマだ」
シベリウスはそう言いながら「すべてが完璧におかしい」ことに違和感を覚える。すべてが嚙み合わないことは、戦場では間々ある。だが、この状況はあまりにも綺麗すぎた。
イスランシオのメールにはまだ続きがあった。
当時、陸上電探部隊の設備がメンテナンスを実施中。サブシステムでの運用監視を行っていたが、外部からの電子的アタックを受けて挙動が不安定化。大至急代替経路を用意して電探を実施したが、その時にはすでに電子戦闘が開始されてしまっており、あえなくシステムへの侵入を許してしまった。その後、通信途絶。衛星による監視ログには、成層圏付近に一ダースほどの電子戦闘機らしきものの影が残っていた。
そして、空軍の防衛部隊の層は、もともと非常に薄かった。
「どこのどいつが手を引いてるかはわからねぇが」
『アダムス少佐ではないのか』
「あの小者が主導権をとれるはずもねぇよ。もっともっと上じゃねぇか」
『……軍の上層部や政府ではなく?』
「だったらいいんだがな」
シベリウスは新たなメールに気付く。まるでシベリウスが今ここでこうしてメールを読んでいるのを知っているかのようなタイミングで届くそのメールは、もちろんイスランシオが送信元だった。
「ヴァラスキャルヴ……」
タイトルにその一単語だけが書かれていた。本文はなかった。
『ヴァラスキャルヴ……。ジョルジュ・ベルリオーズが直接? まさかそんなことが』
訝し気なパウエルの言葉に、シベリウスも半信半疑な様子であいまいな相槌を送る。
ヴァラスキャルヴ、世界最大の軍産企業複合体であり、ありとあらゆる国家群に影響を与えている超巨大組織である。すべての国家、あらゆる巨大組織に作用する力を有しているため、たとえば戦争、たとえば疫病、たとえば……とにかく何が起きたとしてもすべてがこのヴァラスキャルヴに還元されるようにできているのだと言われている。言われている、というのは、その組織体があまりに巨大で複雑であるがために、その総帥であるところのジョルジュ・ベルリオーズ以外にその全容を把握している者がいないという事実による。そして、ヴァラスキャルヴにまつわる情報のすべては、超AI、あるいはすべてのAIの母とも呼ばれる「ジークフリート」によって統御されており、現時点ではこのAIの防御を突破できる技術は存在もしていない。
「だがしかし、すべての災いをヤツに帰結させるなら、すべての辻褄は合ってくるな」
『できすぎだ』
パウエルはなおも懐疑的だった。だが、シベリウスは「うむ……」としか言えなかった。
『俺たちは、いったい誰と戦わされているのだろうな』
そのパウエルの言葉に、シベリウスはなんとも答えることができなかった。