二〇八三年十月、ユーメラ大空襲から八ヶ月少々が経過していた。あの後もアーシュオンは散発的な攻撃を仕掛けてきてはいたのだが、ヤーグベルテの上層部はともかく、艦隊および防空を担う最前線部隊は奮起した。本土防衛に関しては四風飛行隊が主導権を握り、事実上海軍は空軍の指揮下に入った。現実問題として、海軍で定数を揃ているまともな艦隊は第七艦隊だけであり、神出鬼没に襲来するアーシュオンの機動潜水艦艦隊に対抗する術はなかったのである。だがしかし、それでも四風飛行隊をはじめとする陸海空軍の兵士たちは善戦した。ゆえに、この八ヶ月というもの、ただの一度もアーシュオンは本土に到達できていない。
メディアは、というと、彼ら最前線の兵士たちの、いわば辛勝を過大に取り上げた。それぞれの戦いがどれほど戦術・戦略的に優れていたか、兵士たちがどれほど素晴らしい祖国愛を持って戦ったか――そうして彼らの辛勝を大勝利と読み替えさせた。大本営の思惑と、メディアの視聴率稼ぎの施策がものの見事に一致した結果の扇動記事の出来上がりである。前線では人命よりも税金そのものである弾薬を節約しながら戦わなければならないという状況だというのに、国民の大多数は日々の戦いが圧倒的勝利だと疑わなくなっていっていた。
アーシュオン、恐るるに足らず!
多くの専門家が警鐘を鳴らしていたにも関わらず、国民の大半は彼らの言うことに耳を貸さなかった。結果として、ヤーグベルテ国民たちはいつの間にか、アーシュオンの戦力を過少評価するようになってしまった。そして軍には「ゆえに勝って当然」という意識が向けられ、戦死者に敬意が払われることもなくなっていった。
ヴェーラは他にはレベッカしかいない広い食堂の中で、携帯端末でニュースサイトを流し読みしていた。ヴェーラからは時々「むむ」とか「ふむ」とかいう声が漏れ聞こえていたが、向かいの席でヒレカツを切り分けているレベッカは何も言わなかった。ヴェーラがこの表情をしているときには何を言っても聞こえないことを知っているからだ。なので、今切り分けたばかりのヒレカツをヴェーラの前に移動させて、ヴェーラの前にあった同じものを自分の前に持ってきた。そして同じように一口大に切っていく。
切り分けてもなお、ヴェーラは真剣な表情で携帯端末を睨んでおり、レベッカは水を飲んで肩を竦めた。レベッカはレベッカなりに、軍から与えられている現在遂行中の新任務に憂鬱である。二人があまりにも成績が優秀だったために、士官学校で教えられることがなくなってしまった――というのはフェーン少佐やブルクハルト中尉の弁だが、それゆえに二人には歌姫にちなむ新任務が与えられてしまった。
「ま、いいわ」
レベッカは首を振った。別にそこまで嫌な任務ではない。人を殺すような仕事でもないし。むしろその反対だ。だから、フェーン少佐からその話を聞いても、ノーとは言えなかった。
レベッカは借りてきた詩集でも読もうかと、バッグから古びた紙媒体の書籍を取り出した。
ページをめくろうかとしたその時、ヴェーラが携帯端末をテーブルの上に置いて、声を上げた。
「あ、お肉が切られてる!」
「私が切ったのよ」
「きみが噂の妖精さんか!」
「誰が妖精さんよ」
レベッカはそう言って、切り分けたばかりのヒレカツを口に運んだ。味は……いつも通りだ。というよりも、レベッカはこの食堂以外でヒレカツを食べたことがない。
その一方で、ヴェーラは一口ごとに実に幸せそうな顔をする。その表情を見るだけで、味も五割増しになろうというものだ。レベッカは目を細めてヴェーラを見た。視線が合うとヴェーラもまた微笑む。
「見つめられると食べにくいよ」
「食欲には勝てないくせに」
「まぁね。でも、食欲が満たされたらわかんないよ?」
「はいはい」
レベッカは苦笑する。
「でも、本当に食べてる時のあなたは幸せそうよね」
「食べてる時くらいはね、そうありたいんだ」
ヴェーラは少しだけ空色の瞳を光らせて、そう応じた。
「それ以外の時はあれこれ考えちゃうし。お風呂も一人で入るとそのまま水死したくなるから、だからわたし、ベッキーと一緒に入るんだよ」
「え、そうなの?」
意外な真実を知らされて、レベッカは目を丸くする。ヴェーラは「そうなんだよ」と真剣な表情で肯いた。
「わたし、ベッキーがいないとダメなんだ。ベッキーがいなかったら、わたし、どうなるかわからない。今はまだいいよ? でも、この先、私たちが歌姫として、あのシミュレータみたいなバカでかい戦艦を与えられて、最前線で多くを殺すようになったら。その未来を思うだけで発狂しそうになる」
レベッカは思わず食事の手を止める。レベッカも、それは考えないわけではなかった。だが、意識的にそれを思考の外に追いやっていた。そんな絶望的な未来なんてやって来るはずがない――そんな根拠のない楽観論と共に。だがヴェーラは違った。その未来と真正面から向き合っている。そんな事実にいまさら気が付いて、レベッカの食欲は一気にゼロになった。
すっかり手を止めてしまった親友を見て、ヴェーラは一瞬顔を顰めた。ヒレカツの一切れを口に放り込んで、ヴェーラはしばらく黙る。
「ベッキーまで悩まれたら、わたしたちは揃って奈落の底へまっさかさまだ」
「でも、あなただけが悩むのは違うし、それに、それに私だって悩んでないわけじゃないし」
「わかってるさ」
ヴェーラは柔らかく微笑んだ。
「ベッキーは論理的だから、わたしとは違う。わたしみたいに感情的に考え、直感的に動く人間とは違う。だけど、それでいいんだよ。わたしと一緒だったらベッキーは疲れちゃうだろうし、わたしもまたベッキーみたいに論理的に割り切って考えたら変になっちゃうと思う」
ヴェーラは訥々と言い、またゆっくりと笑みを作る。
「だからこそ、わたしたちは一緒にいるんだよ、ベッキー。だから、これでいいし。それに、わたしは今のベッキーのことを本当に大好きなんだ。だから、そのままでいてほしいよ」
「ヴェーラ……」
レベッカはテーブルの真ん中あたりに視線を落とし、フォークを握りなおした。
「そう、食べようよ、ベッキー。それもわたしたちの仕事、だよ」
「仕事、ね」
レベッカは例の新任務を思い出して渋面になる。ヴェーラは苦笑を浮かべる。
「平和な仕事じゃないか。お金を稼ぐのは軍のため、戦争のためだけど、同時に人々を守るためでもあるよ。わたしたちのために使われるお金なんだから。わたしたちが力の使い方を間違えない限り、わたしたちは剣にもなり、鎧にもなる」
「|歌姫計画、か」
レベッカは首を振った。
「そのために、わたしたちは軍隊アイドルなんて仮面を着けて、歌って踊ってるんじゃないか」
「膨大なお金を稼いでいるって聞いているけど、でも」
レベッカは少し言いにくそうにした。ヴェーラは「うん」と気のない相槌を返し、言った。
「全長六百メートル以上、ざっくり正規空母の二倍。バカげた大きさの海上構造物。それがわたしたちの戦艦、メルポメネとエラトー。音楽の女神からとった名前だろうけど、まぁ、たいそうな金食い虫だよ」
「建造費は二隻で全世界のGDPの一パーセント、とも言われているわね」
レベッカは携帯端末を取り出して、一応その情報の裏を取る。アクセスしているのは軍のデータベースであり、一般人はその存在も知らされていない。
「維持費も考えると、そりゃ国が傾くよ。一部メディアで言われてるように、傾城傾国の女神ともいうのはなるほど納得な表現さ。そしてその、戦艦一隻あたり、イージス搭載駆逐艦換算で約三百隻分とも言われている予算が、ヤーグベルテの本気度を如実に示してもいた。中央政府は伊達や酔狂でヴェーラとレベッカを軍隊アイドルに仕立て上げているわけではないのだ。
「仮にね、ヴェーラ。あのシミュレータでできることが現実にできるとして。私、怖いのよ」
「怖いね」
ヴェーラは同意する。レベッカは「でしょ」と言ってから続けた。
「あのヴァラスキャルヴの関与は疑いようがないわ。ホメロス社はアイスキュロス重工と並ぶ軍事企業の最先を行っているから。ヴァラスキャルヴが噛んでいないはずがない」
「だろうね。だからたぶん、基幹OSはジークフリートだ。わたしの大嫌いな超AIジークフリート」
「不気味よね」
「だよ」
ヴェーラは短く賛意を示す。レベッカは小さく息を吐いてから水を一口飲んだ。
「多分だけど、セイレネスっていうのは、ジークフリートが私たちにアクセスするためのゲートウェイなんじゃないかなって思うの。プロトコルの違う世界をつなげるための装置というか」
「なるほど。となると、わたしたちにはジークフリートに対する監理者権限のようなものが与えられてるってことになる?」
「監理者となると、あのジョルジュ・ベルリオーズただ一人だと思うけど、少なくともそれに準ずる――」
「うーん?」
ヴェーラは唸って異議を示した。
「逆だと思う。わたしたちがジークフリートの監理者、なのではなくて、ジークフリートがわたしたちの監理者じゃないかなって。わたしたちの能力》を呼び出して、その返り値を現実相的な何かの上で具現化する、みたいな? その結果が、あのオーロラグリーンの光だったり、敵の撃墜、撃沈だったりするみたいな?」
「冗談や絵空事じゃないのは事実と思うけど」
レベッカはヴェーラに促されて、食事を再開する。ヴェーラの皿はもうほとんど空だ。
「ねぇ、ベッキー、訊いていい?」
「身構えちゃうわよ」
「じゃぁ、ベッドで訊いたほうがいい?」
ヴェーラはまた微笑んだ。レベッカは少し頬を赤く染める。
「もう、そういうことばっかり言って。で、何?」
「あのさ……。戦争って、どうなったら終わると思う?」
「どうなったら……」
「どうなったら、もう兵器なんて要らなくなると思う?」
ヴェーラの空色の視線がレベッカの新緑の瞳に突き刺さる。レベッカは二秒ほどの間を置いた。
「武力の放棄が平和につながるなんて世迷言を言うつもりはないわ」
「きみがそれを口にしたら、三時間は口をきかないところだったよ」
ヴェーラは少し遠くを見るような表情を見せる。
「結局は銃口を向けあって、一触即発の緊張状態を維持し続けるしかないのかな」
「バランスの問題ということ?」
「そうだね。だけど、ここまでヤーグベルテは叩かれている。今さら停戦交渉だの、ましてや和平交渉だのに、この国の世論がイエスというとは到底思えない。何十万人と殺されてるし、その何倍かの人間はアーシュオンを心底憎んでる」
「憎しみの連鎖、か」
レベッカは水を飲み、呟く。ヴェーラは肯いてまた口を開く。
「憎しみの連鎖は、誰かがどこかで我慢すれば止まる。そんなバカげたことを言う人はいるけど、じゃぁ、その我慢した人はその憎しみをどうしたらいい。失った大事な人になんて言えばいい。その先、その傷を抱えてどうやって生きていけばいい」
「誰かがその憎しみを晴らし、敵の憎しみを引き受ける」
レベッカは重苦しい口調でそう言った。ヴェーラは一瞬だけ、荒んだ笑みを浮かべた。
「そう。それがわたしたち、なんじゃないかな」
「そんな……」
レベッカは呻く。しかし、同時に得心してもいたし、それならそれで、という諦観のようなものを覚えてもいた。
「あ、その詩集ってさ」
ヴェーラはさっきレベッカが取り出した書籍に手を伸ばした。レベッカがそれを手渡すと、「ふむふむ」とページをめくり始める。
「西風に寄せる歌、か」
P.B.シェリーによる有名な詩だ。レベッカは「そうよ」と短く肯定し、ヴェーラを見た。ヴェーラと視線が合った。そして二人は同時に言う。
「冬来たりなば、春遠からじ」
と。それは「西風に寄せる歌」の中にあって最も有名なフレーズだった。綺麗なハーモニーを作った二人の声が、がらんとした食堂の天井に消えていった。
「彼は」
レベッカははるか昔に生きた詩人に思いを馳せる。
「彼は、そう信じたかったんでしょうね」
きっと彼が目にしていたものは、厳しくて、長い冬だったから。ヴェーラは目を伏せ、詩集を閉じ、レベッカに返す。
「ベッキーはどうしてこの詩集を借りたの? ほとんど暗記してるんじゃ?」
「頭の中で読み返すのと、こうして誰かの手を通じて作られたものを読むのでは、全然感じ方が変わるのよ、ヴェーラ」
「へぇ。おんなじ情報だと思うんだけど」
「違うのよ、ヴェーラ。例えば『君たちは頑張ってる』って言葉。フェーン少佐に言われたときと、アダムス少佐に言われたときを想像してよ」
「あー……」
ヴェーラは先日対面した参謀部第三課の統括、アダムス少佐の顔を思い出して渋面になる。なんの特徴もないその顔は、それ自体が特徴だった。あまりに普通過ぎて、何も思い出せないのだ。ヴェーラの記憶力をもってしても、一体全体どんな顔をしていたのかが思い出せない。ただ、嫌味な表情をしていたことだけは覚えている――という具合だ。
「確かに、フェーン少佐なら、よしもっと頑張ろうって気になるよね。でも、あのアダムスって人に言われたら何か裏があるだろうとか、この人のためには頑張りたくないなとか思うよね」
「ストレートね」
レベッカはそう笑う。ヴェーラは「それがわたしの取り柄だからさ」と、にやにやしながら応じた。
「でもよくわかったよ、ベッキー。やっぱり大事な言葉はちゃんと伝えないとダメなんだなってこともわかった」
「大事な言葉?」
「たとえばわたしがベッキーのことを愛してるってこと」
「知ってるわよ」
「だとしても。きみはわたしの言葉を何億回でも脳内でリフレインできるだろうけど、それじゃだめなんでしょ?」
ヴェーラはたとえようもなく美しい笑顔を見せた。レベッカは思わず目を細めてしまう。
「そ、そうね。あなたの声でそういわれると、とっても嬉しい」
「うん。よかった。わたしはきみとなら何だってできる。何にだって耐えられる。そう信じてる」
ヴェーラはそう言って、少しだけ眉尻を下げた。