カティとヨーンは並んで食堂を出る。その間、言葉はなく、ただ少し固い呼吸音が流れていた。
「とっ、ところでヨーン」
薄暗い廊下を歩きつつ、カティはどこか素っ頓狂な声を出した。ヨーンは少し肩をビクつかせる。彼も緊張しているのだ。しかしカティはそんなことに気付けない。
「ど、どこに、あの、行くんだ?」
少なくともカティの脳内には、自分たちに相応しいデートスポットの情報は格納されていない。一つ思い当たる場所がないではないが、生真面目なヨーンがデート一回目にしてそんなところに連れて行くとは考えられない。
とはいえ、カティはそんなことを想像してしまった自分に驚いた。カティは読書家だったから、知識だけなら人並み以上にある。だからこそ、それを自分に置き換えることは難しくはなかった。それゆえに、カティは自爆的に赤面した。
「まだまだ寒いからどうかなとは思うけど」
ヨーンはそう前置きする。
「でも、今くらいの空気は、星の鑑賞にはとてもいいんだ」
「星?」
「そ、恒星。忘れてると思うけど、僕は天体物理学の博士だよ」
「そうだったっけ」
「そうなんだよ」
ヨーンはいつものように困ったような微笑を浮かべる。カティはひどく申し訳なく感じて少し俯いた。が、ヨーンには気にした様子はなかった。カティは落ち着かない様子でズボンのポケットに手を入れ、その中にある車のカードキーを指先でこすっていた。
ヨーンは右隣を歩く赤毛の美女をまぶしそうに見つめ、意を決したように息を吸う。
「君は本当に美しいと思う」
「なっ、ばっ……!」
もはや意味のある言葉になっていないカティの左手に触れる。触れた瞬間、お互いに痙攣したように反応して、手を離す。
「あ、あ、ああ、アタシが美しいとか、ど、どういう感覚だ」
「この点に関しては譲らないよ。君は美しい」
ヨーンは今度こそ意を決してカティの左手を握った。カティの肩がこわばったのが伝わってきたが、それでもヨーンは離さなかった。
カティは足を止めて、ヨーンを見た。カティはポツリと言った。
「男と手を繋いだのは……初めてなんだ」
「そっか。イヤじゃない?」
「イヤじゃない」
カティはそう言うと、カードキーを取り出して、校舎の外に出た。駐車場はすぐそこだ。ヨーンは前に進みかけたカティを制し、自分のカードキーを小さく掲げた。
「僕が運転するよ。初デートくらい格好つけさせてくれる?」
「ヨーン」
「ん?」
「アタシ……吐きそう」
「えっ!?」
驚くヨーンは、反射的にカティの背中に手をやっていた。その掌の温度がカティの背中をじわりと温める。カティはまた身体を固くして、ぎこちなくヨーンを振り返った。
「具合悪いわけじゃないよ、ヨーン。なんか、こう、心臓がものすごいことになってて、頭が熱くて、どうしたらいいかわかんない。アタシでいいの? 本当に? アタシなんて」
「君だから、いいんじゃないか」
ヨーンは今度は躊躇セずにカティの左手を握り、ゆっくりとしたペースで自分の車のもとへと歩き始める。
「それにカティ、君だけじゃないよ、それ。僕も今、喉がカラカラだし、全身こわばってるし」
「落ち着いて、見えるけど?」
「かっこつけてるだけ」
ヨーンはそう言うと、助手席のドアを開けた。そこでカティは意を決するように拳を握りしめ、大きく息を吐いた。「乗って」と首を傾げるヨーンを見つめ、そのまま抱きついた。
「おわっ!?」
思わぬ不意打ちに、ヨーンは動揺する。この行動は、ヨーンにとっては完全に予想外だった。だが、すぐに我に返って、ヨーンもカティの頭をその胸に抱きしめた。カティはしばらく沈黙していたが、やがて喉を震わせて笑い始める。
「心臓、すごい」
「メルトダウンしそうだよ」
ヨーンはカティの体温を感じながら首を振った。カティは目を閉じて呟いた。
「あったかい」
あったかいなぁ――。この感覚には強烈なトラウマが伴う。十二年前、家族も知り合いも皆殺しにされたあの事件。その時以来の感覚だった。何もかもが終わった後で、助けに来てくれたヤーグベルテの兵士たち。その中のひとり、豪奢な金髪の女性隊員が、泣きながらカティを抱きしめていた。そのことだけが記憶に強く焼き付いていた。今となってはそれが誰かはわからないし、思い出せない。だけど、その時のぬくもりがなかったら、今自分はこうしてはいられなかったに違いない――カティはそう確信している。軍に入るという強い信念も、もしかするとそのことが起源になっているのかもしれなかった。
「カティ、泣いてる……?」
「なんでだろうな」
カティは震える声で応じた。それに呼応するように、涙が次から次へと溢れてくる。青白い月光に照らされたその白い顔は、例えようもなく繊細で美しい。輝く涙の軌跡も加わって、それはもはや人智を超えているのではないかと、大袈裟ではなくヨーンは思った。
カティはヨーンの胸に顔を埋めたまま言った。
「人に触れられるのが、怖かったんだ」
「うん」
「ヴェーラたちが変えてくれた。エレナが教えてくれた。きっとそうだ」
「感謝しないとね」
ヨーンは少しおどけた調子で言おうとして失敗する。妙に堅苦しい声が出てしまう。それを察知したカティはククッと声を殺して笑う。
「星。今のアタシにとっては、ただ空でチカチカしてるだけの光だ」
「そうだね」
「でもきっと、ヨーンがアタシの世界を変えてくれる。そうだろ?」
「僕の知ってる世界は全部君に伝えるよ、これからね」
「アタシは世界をそんなに知らない」
カティは助手席に乗り込みながら、少し不安げに言った。ヨーンは素早く運転席に乗り込み、エンジンを始動させて、ハンドルを握った。手動運転で行くらしい。
「アタシなんかで、いいのかな……」
「僕は、僕には君以上の人がいるだなんて思わない」
「アタシ、学歴もないし、家もないよ」
「あはは!」
ヨーンは努めて明るく笑う。
「今の君にそれ以上を付け加えることができるんだとしたら、神様はあまりにも不公平だ」
「どういうこと?」
「君は最高ってこと」
「……ば、ばか」
惜しげもなく賛辞の言葉を送ってくるヨーンに戸惑いながらも、悪い気はしていない自分がいることにカティは気付く。もてはやされるから嬉しいのではなくて、実直なヨーンからそんな言葉をかけてもらえる自分が少し誇らしかったのだ。
ヨーンは車を動かそうとしたが、数秒の逡巡の末にハンドルから手を離した。そしてカティの方に身体を乗り出す。カティはシートベルトをつけようとしていたが、それを中止してヨーンと向き合った。
ヨーンの右手がカティの左頬に触れる。カティは一瞬目を見開き、右手でヨーンの目を覆った。そして自分も目を閉じる。
ヨーンの吐息を感じて、ほぅと息を吐くカティ。
「あっ、あの、あのさ、ヨーン」
「うん?」
「息、臭くない? 大丈夫? アタシ、歯を磨いたほうがいいか――」
カティは最後まで喋らせてもらえなかった。ヨーンの唇がカティの口を塞いでいた。
はぁ……。
カティは右手をヨーンの頬に移動させ、閉じられたヨーンのまぶたを見つめる。
長いようで短いキスが終わり、二人はしばし見つめ合う。互いの紅潮した顔を見、その瞳の中に映る自分を見、二人はますます言葉を見失う。
音のない薄暗い車内で、カティとヨーンはもう、無言で一度キスをした。その後、カティはその間中ずっと考えていた言葉を、全意志力を結集して口に出すことに成功した。
「好き」――と。
ヨーンは困ったような微笑を見せて、カティの髪を撫でた。
「それじゃ、出発しよう」
「どこにでも行く」
カティは目を細めてヨーンに言い、いそいそとシートベルトを着け始めた。