06-2-4:冥王星の物語

本文-ヴェーラ編1

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 ヨーンのその言葉に、カティは首をかしげる。

「今は?」

 惑星がそう簡単に数を減らしたりなんてするものだろうか?

 カティが「?」をふわふわ浮かべ始めたのを見て取って、ヨーンは静かな声で語り始める。

「八十年くらい前まではね、僕たちのこの太陽系には、もう一つと呼ばれた星があったんだよ」
「消えた、のか? 爆発した、とか?」

 宇宙の話には全く知識のないカティには、そのくらいしか思いつかない。しかしヨーンは「まさか」と笑う。

「今から百五十年前に惑星として生まれた。今から八十年前に惑星という地位を追われた。そういうこと」
「そういうこと……って言われてもよくわからない。ごめん」

 カティは素直に頭を下げた。ヨーンはカティの肩を軽く叩く。

「興味ない?」
「まさか!」

 ヨーンの問いかけに対し、カティは目を見開いて否定する。

「だけど、その、理解できてなくて申し訳ない。で、でも、理解したいんだよ、ヨーンの言ってること」
「ありがとう、カティ」

 ヨーンは微笑むと、少し離れたところにある自動販売機でコーヒーを二缶買ってきた。

「カフェオレとブラック、どっちがいい?」
「……ブラック」

 カティはそう言って、遠慮なく一つを受け取った。ヨーンは早速、カフェオレの缶を開けて口を付けた。カティもそれにならう。

「あったかいな」
「僕はさっきから火照りっぱなしだけど」
「ア、アタシだって」
「何の競争なんだろうね」

 ヨーンは笑う。カティもつられて笑った。

「じゃぁ、カティには僕のお話に付き合ってもらおうかな」
「理解できなくても怒らないなら」
「そんなことで僕が怒るって思われてるなら、僕は怒るかな」
「……思ってない」
「ならよし」

 ヨーンはベンチに座り直すと、今度はカティの右手を握る。体温がカティに流れ込んできて、カティは少し姿勢を崩す。

「さっきの惑星。彼にはね、明日が来ないんだ。明日は常に去っていく。遠くなっていく」
「明日が来ないって?」
「感傷的な理屈だけどね、それは。時間はちゃんと未来に向かって進んでいくんだけど、さ。その惑星は金星と同じで、僕たちの地球とは反対方向に自転してるんだ。逆行自転っていうんだけど」
「なるほど……」

 カティは「詩的だな」と思いながら聞いている。ヨーンの柔らかな語り口に、カティは自然とリラックスし始める。気付けばヨーンの肩に頭を乗せていた。

「彼はね、僕ら人間によってと言われ、名前も与えられた。冥王星プルート。そういう名前」
「冥王星か。なんかの小説に出てきたかもしれない」

 カティは記憶を探すが、出典には辿り着けなかった。ヨーンは頷く。

「でもね、冥王星プルートが公転軌道の三分の一もまわってないうちに学者たちが侃々諤々かんかんがくがく議論し始めた。そしてその結果、やっぱりって、惑星の地位と名前を取り上げたんだ。彼はとても小さくて、ともすれば他の惑星の衛星たちよりも小さかったからね。惑星が衛星より小さいんじゃ話にならないよって。そしてその結果、彼は名前の代わりに134340という味気のない番号を与えられた」
「勝手な話だな、なんか」
「そう、勝手な話なんだよ」

 ヨーンはカティの髪を撫でる。カティは今や完全にその身を任せている。しかしそのことにカティ自身は気付いていなかった。

「でもね、カティ。プルートはそんなこと気にしちゃいないと思う。僕ら人間はその一連の流れを時として無関心に、時として感傷的に見てきたけど。色々考えたけど。でも、それは僕らの身勝手な同情と感傷から生まれた妄想に過ぎないんだ。僕としてはそんな妄想には否定的ではないんだけどさ」

 その言葉の端々に感じられる重たい感情のようなものに、カティは気が付いた。そうか、ヨーンはロマンティストなんだな――カティはそう認識して少しテンションが上がる。

「星を見て、この太陽系や銀河に思いを馳せられるのは、僕たち人間の特権だと思っているんだ。ここまで人間の感性を育ててきたのが宇宙だと思ってる。はるか古代からね。星座、神話。そう言ったものはその最たる例さ」
「それはわかる気がする」

 カティはヨーンの顔を見つめ、ヨーンの左手を握りしめる。キスをしたいと思いはしたが、気恥ずかしさに負けた。

「と、ところでさ、ヨーン。冥王星って、見えるの?」
「十四等級の彼の姿は、どうあがいたって見えないよ、肉眼ではね。高性能な天体望遠鏡でもあれば、この空でもギリギリ見えるかもね」
「そうなんだ。十四等級……」

 数値を言われてもピンとは来なかったが、とにかく見えないことは理解する。

「冥王星にはいわくがあってね。天文学者たちは計算でその存在と位置情報を予言していたんだけど、実に長い間発見されなかった」
「場所はわかっていたってことだろう? なのになんで?」
「計算が間違ってた」
「学者でも間違える?」

 カティの素朴な問いかけに、ヨーンは苦笑する。

「もちろんさ。学者だって人間だし。それに間違えるから、学者という職業が成立するとも言える」
「でも今はきっとAIとかで正確になってるんだろうな」
「AIは人間以上にはならないさ。使うのが人間である以上はね」
「ジークフリートでも?」
「AIを使うのが僕たち人間である限りは、AIは結局その恣意しい性から逃がれることは出来ないんだ。計算は早くなっているさ、いろんなものの。だけど、その結果のどれを採用するかについては、結局人間が決めるよね。となれば僕たち人間自身が安全装置になるっていう寸法だよ」

 ヨーンはカフェオレの最後のひとくちを飲み干し、カティからも空き缶を受け取った。そして立ち上がる。カティもそれに着いていく。

「座っててよ」
「歩きたい」
「オーケー」

 ヨーンは空き缶入れに缶を二つ投入し、カティと腕を組んで丘の頂上に向けて歩き始める。雪は残っていたが、歩くのに支障はなかった。

「例えばさ。あそこに冥王星がいたとするよね」
「うん」
「でもその時には彼はもうそこにはいない」
「いるのにいない?」
「カティに質問。太陽の光が僕たちのところに届くのに、何分かかる?」
「えっと……五分?」
「あてずっぽうにしては惜しい。約八分だよ。一億五千万キロメートル離れてるからね」
「いっ、いちおくごせんまん……?」
「そう」

 ヨーンは頷いて、右手の人差し指と親指をギリギリまで近づける。

「地球の直径が一ミリだったとしたら」

 そして少し離れたところにあったガードレールを指差した。

「太陽までの距離は十メートル以上あるってこと」
「想像不可能だよ、ヨーン。天文学的な数値じゃないか」
「これは一天文単位の話」
「天文単位……?」
「太陽から地球までの距離がつまり、一AU天文単位っていうんだ」
「へぇぇ……」

 カティはヨーンの話にすっかり引き込まれていた。

「退屈してない?」
「してない! もっと聞きたい」

 カティの中の知的好奇心がグイグイと前のめりになっている。ヨーンはそれを感じて、少し満足そうに頷いた。

「太陽の光が僕らのところへ到着するまで約八分。さっき言ったとおりにね。でも、冥王星にはね、平均して五時間半もかかるんだ。冥王星は楕円の軌道で公転しているから、最小で三十天文単位、最大で五十天文単位のところにいるんだけど。さっきの例えで言えば、地球が一ミリ、太陽までが十メートルだとしたら、冥王星は三百から五百メートルのところにいるってこと。楕円なうえに、潜ったり浮かんだりするような、かしいだ軌道で公転しているんだ」

 ヨーンはそこで月を指差す。

「眩しいくらいに綺麗な月だ。月に反射した太陽の光でさえ、僕らにはこんなに眩しい。でも、冥王星のところに辿り着く頃には、強烈な太陽光だって単なるにすぎないんだ。氷漬けの冥王星にとって、太陽の光なんてただの標識に過ぎないんだ。二百四十七年かけて一周するためのね」
「それでもないと困るんだろう?」
「だね」

 ヨーンは白い息を吐く。

「僕はさ、ずっと独りで生きてきた気がしていたし、きっとこれからもそうだろうってなんとなく思ってた。さっきも言ったけど」
「うん」
「僕はそうだな、小さい頃からちょっと、違った」
「違った?」
「そう、違った」
「ちょっとね、頭が良すぎたんだ。良くも悪くも。おかげで大人たちは僕を神童扱いして、期待に期待を上乗せした。僕はそれに応えようと必死に頑張った。だけどやってもやっても当たり前、出来て当然、これだけ期待してるんだから成果があって当然――そんな大人たちの心情に気付いたんだ。でも僕は期待に応え続けた。逃げられなかった。そして僕は、そんな意気地のない僕が大嫌いだった」
「気がついたら宇宙に逃避していたって?」
「そう、その通り」

 ヨーンは明るい声で笑う。カティも引き寄せられるように笑った。

「で、気付いたら天体物理学の博士号。親たちからは散々文句を言われたよ。そんなもののために勉強させたわけじゃないとか、そんなものがいったい何の役に立つと思ってるんだ、とかね」
「アタシの親だったら、きっとそんな事言わなかったと思う」
「君のお父さんやお母さんなら言わなかったと思うよ。もっとも、士官学校にも入れなかったと思うけど」
「そう思う、アタシも」

 カティは息を吐きながら、目を細める。もうあまり思い出せない両親の顔、兄や姉、妹の顔。故郷がまだ平和だった頃の様子ですら、どこか幻想的な思い出の一つになっている。

「言い訳にしてるんだ、僕はこうして何もかもね。ラーセン家の面倒なことから逃げるために。気付けば宇宙の研究すら言い訳になってた。そして家出同然に士官学校。星を見るために、ね」
「誰も不幸になってないじゃないか、それで。いいんじゃないのか?」
「親は不本意だったと思うけど」
「でも不幸じゃないさ」

 カティは強い口調で断言する。

「少なくとも、アタシは……し、しっ、幸せだし。ヨーンが賢くて、持ち上げられて、煩わしくなって、星の研究に逃避して、ますます家庭と関係悪くなって、士官学校に飛び込んできて。おかげでアタシ、アタシは、ヨーンに出会えた。そしてこうして――」

 カティはその続きを言えなかった。ヨーンが口付けしてきたからだ。

「僕は君に起きた事件を良かった、とか、絶対思わない。だけど、それがあったから、僕たちは今、ここでキスをしてる。少なくともその一点に関しては、僕はこれまでの出来事の全てに感謝してる」

 ヨーンの柔らかな言葉に、カティは胸がいっぱいになる。呼吸すら苦しくなるほどに、目の奥が熱くなっていた。ヨーンの言葉は、まるで恋愛小説のようだった。カティが好んで読む世界。その中で語られる囁き。そんなものが自分に向けられる日が来るなんて、想像したこともなかった。自分にとって恋愛なんて、最も縁の遠い出来事だと思いこんでいたからだ。

「君を幸せにしたいんだ」
「アタシで、いいのか?」
「何度かれても、僕の答えは変わらない」

 ヨーンは静かに言う。

「カティ、君じゃないとダメだ」
「直球だね」

 カティは微笑んでいた。ヨーンの顔がすぐ側にあって、呼吸による空気の流れすら伝わってくる。ヨーンはカティの頭を抱きしめ、耳元で囁く。

「僕は変化球を投げられるほど器用じゃない」
「奇遇」

 カティは小さく笑う。

「アタシにも変化球を受け止められる余裕はないんだ」

 そう言って、ヨーンの胸を押して身体を離し、今度はカティからキスをする。ゆっくりとした動作で唇を離し、カティは少し頬を染めながら言った。

「愛してるって、いうのかな、この気持ちって」
「とても愛されてる気がしてるよ、僕は」

 ヨーンはニッと笑い、カティを強く抱きしめたのだった。

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