轟音が消えるか消えないか。エレナが倒れた。その周囲におびただしい血液の海が広がっていく。暗い空間にあっても、カティたちにはそれがハッキリと認識できた。
「エレナッ！？」
我を取り戻したカティが、エレナを助け起こす。カティの手にべっとりと生暖かい液体がこびりつく。エレナは首を持ち上げる力もなく、ぐったりとして薄目を開けていた。明らかに――致命傷だった。
「う、嘘だろ……！？」
「行って、カティ。早く……！」
ごぼごぼとしたノイズを混入させながら、エレナは言う。肺を満たす自分の血液に溺れているのだ。
連続的な銃撃音が、ヨーンの手にしたアサルトライフルから響く。廊下がチカチカと照らされて、そこに新手の姿を浮かび上がらせる。その人影は甲冑すら着ていなかったが、銃撃に怯むことはなかった。
顔を上げたカティは、そこに浮かび上がった兵士の顔に戦慄する。皮膚が熱を帯びて泡立ったようにすら感じた。心の底に湧き上がる恐怖を感じはしたが、同時にエレナを撃たれたという怒りの嵐が巻き怒り、その冷たい感覚を圧殺した。竦みかけた身体に、逆に力が漲ってくる。
「お前は！」
カティは、今まで出したことがないほど鋭い声を放った。
忘れもしない。十二年前。カティから全てを奪い去った男だ。家族を、友人を、虐殺した男だ。男は五メートルほどのところまで近付いてきて、大げさにお辞儀をした。
「覚えていてもらえたとは光栄」
「忘れられるならそうしていた！」
カティはエレナを横たえて立ち上がる。アサルトライフルを構えるなりトリガーを引き絞る。だが、放たれた5.56mm弾は男に命中こそしたが、ダメージにはなっていなかった。吸収されてしまったかのように見える。
カティはライフルを投げ捨てると、兵士が持っていた大振りのナイフを拾い上げた。だが、その手を止めたのはヨーンだ。
「無理だ。僕らは格納庫に行かなくちゃならない」
「でも、エレナが！ それに、あいつは！」
「全滅したら意味がない！」
ヨーンは腕組みをする男――ヴァシリーを睨みながら怒鳴る。ヴァシリーは愉快そうに唇を歪め、一歩踏み出しかけて足を止める。
「そう、よ、カティ。全滅は、よくない」
「ほう？」
エレナだった。エレナが落ちていたライフルを杖にして立ち上がっていた。
「ここは私が引き受けるから、先に、行って」
「エレナ、そんな身体で何ができる！」
カティはエレナに近付こうとしたが、ヨーンに腕を引っ張られる。二人の距離が広がった。
「エレナァッ！」
「カティ、行くよ」
ヨーンがカティを抱えるようにしてエレナに背を向ける。カティはなおも抵抗するが、ヨーンの腕力のほうがはるかに上だった。ヨーンはカティが抵抗をやめるや否や、屋外へ通じる扉を開け、走った。サーチライトが二人を捉え、たちまちのうちに屋上に据え付けられた機関銃から掃射が行われた。闇を焼く曳光弾とサーチライトがカティとヨーンを容赦なく襲った。
「おーおー、派手にやってるなぁ」
ヴァシリーは他人事のように呟くと、咳き込んでは血を吐いているエレナを哀れむように見た。エレナは意識を目の前の男に――よく知った男に集中させる。
「兄さん――」
その言葉と視線を受け止めて、ヴァシリーはニヤニヤと笑う。
「出来損ないの妹、存在そのものが可哀そうなエレナ」
「私を、哀れむな！」
エレナは口の周りの血を拭きながら吐き捨てた。ヴァシリーは手にした大型の拳銃を軽く振りながら、肩を竦めてみせた。
「死人をモデルにした塑像のくせに。哀れむ以外になにがある？」
「侮るな、私を！」
エレナは不思議な感覚に戸惑っている。さっきまで全く力が入らなかった全身に力が戻ってきていた。撃たれた胸の痛みも薄れている。今ならちょっとした格闘戦闘ができる――そんな気さえした。
「それに私は死んでいない。死人は、お前だ、兄さん」
「ははは！ お前なんか俺よりずーっと昔に死んでるじゃないか」
「私は死んでない！」
「お前は作られた人間なんだよ。俺たちにとって都合よく、な」
「意味がわからない！」
エレナはカティが落としていったナイフを足で拾い上げ、受け止める。そして床を蹴って切りかかった。
「その動きができることが、お前が普通の人間じゃないことの証だろうが」
「……！」
動揺こそしたが、今はこの男を倒さなくてはならない。カティたちのためにも、絶対に。エレナは裂帛の気合を込めてナイフを打ち下ろす。それは容易くヴァシリーの左腕を切断する。が、ヴァシリーはうるさげに首を振る。すると、傷口から腕が再生した。
「うそ……！？」
「お前にもできるぜ、なぁ？」
ヴァシリーの右手の拳銃が火を噴き、エレナの左腕を吹き飛ばした。衝撃にエレナ自身も弾き飛ばされ、壁に頭を打ち付ける。
「うっ……」
「そらそらどうした。こんなのかすり傷だろうが」
「このォ……」
エレナは跳ね起きる。左肩からおびただしい血液が吹き出したが、それもすぐに止まる。
「んッ……！」
濡れたような音とともに、左腕が再生した。エレナはもはや不思議に思わない。こんな現象は、彼女にとっては当然のことだった。
「よしよし、そうじゃなきゃ、楽しくないな」
「私たち、どっちも悪霊のようなものだったのね」
「格が違うがね」
ヴァシリーは一気に距離を詰めると、エレナの鳩尾に銃口を押し付けた。躊躇もせずに弾丸を発射し、エレナの背中に穴が開く。背骨が砕けて、その破片が天井に刺さった。
「死なない死なない。痛いだけだ」
うずくまって唸るエレナを見下ろし、ヴァシリーはゆっくりと銃弾を再装填した。その間にもエレナの傷は再生していく。
「俺たちは永遠に死なない。銀の悪魔に解放されるまではな」
そして――と、ヴァシリーは唇を歪める。
「お前も俺もしくじった。つまり、だ。俺たちは永遠に死なない。永遠に彷徨い続けることになったわけだ」
「しくじった……？」
「お前はあの女をあるべき形にしなければならなかった。のに、何を思ったのか友だちごっこなんぞに終始しやがって。十二年前に俺が蒔いた種を、お前は枯らしてしまったんだ」
ヴァシリーはエレナの胸を撃った。骨と肉が砕ける音が響き渡る。
「仕方ないから、俺はこれから、あの女をこっち側に引き込むことにする。俺たちと同じ存在にな」
「こんな、こんな化け物に、カティを……」
「喜ばしいことだろう。人という枷から解放されるんだ」
「バカを、言うな」
エレナは身を起こそうとしたが、今度は腹に複数の銃弾を受ける。上半身と下半身が分離するほどのダメージだった。
「とはいえ、ひとつくらいチャンスをやるよ、お前に。俺はよく出来た兄だからな。あの女を殺してこいよ。そうしたら俺はあの女をこっちには引き込まない。さもなくば、俺はあいつをこっち側に引き込んで、永遠の時間の牢獄に閉じ込めるだろうね」
「そん、な、こと、は……」
「とにかくお前はあの女と戦う必要がある。あの女は、お前を殺せるだろう。最初からそういう設計だったわけだし？ もっとも、今や計画に於いて不要となったあの女を殺してくれれば、俺は特別にお前をあの世に送ってやれるように話ししてやるよ、銀の悪魔にな」
「誰が、カティと……」
エレナは斬りかかる。ヴァシリーは拳銃でそれを止める。
「お前は俺に勝てない。そしてあの女を救いたいというのなら、お前が殺すしかない。さもなくばあいつは、永遠に苦痛のうちに彷徨うことになるだろう」
「……私たちは、何なの」
「なんだろうなぁ。計画のために作られた人形、というところかもしれんが。元はと言えばね。だが今の俺にはそんなことはどうでもいい。恐怖に怯え、迫る死から逃げ、あがき、もがき、泣き叫ぶ。その苦痛は俺にとって何よりの悦び。俺は人間に生のありがたさを教え、そしてその結果死の恐怖というごちそうを受け取る。なぁに、なんてことのない弱肉強食さ」
ヴァシリーはエレナの額に銃を突きつけていた。エレナは身動きが取れなくなる。
「どうして私たちが」
「運命に理由なんてない」
ヴァシリーは超然と言った。
「悪魔は俺に囁いた。俺は俺の記憶を捧げ、悪魔はそこからお前を作った。計画のために」
「計画……」
「お前らの言うところの歌姫計画。全ての事象は、その円環の裡にある。もっとも、俺は詳細なんざ知らないが。興味もないし」
屋外では銃撃音が鳴り響いている。重砲の音すらあった。
「さぁて。そろそろ頃合いだな。愚昧な妹よ。あの女を、カティ・メラルティンを救いたいだろう？ 屈辱と苦悩の中で永遠に放置なんてさせたくないだろう？ 俺より先にあの女を殺せ。さもなくば――」
「……お前の好きにはさせない、化け物め」
エレナは額に押し付けられていた銃口にも構わず、ナイフを振る。しかしヴァシリーはそれを素手で止めた。
「ならば俺はあいつの血肉を啜ろう。さぞ美味かろうなぁ。あいつの前でお前をずたずたに引き裂いて、その恐怖を肴にあいつの手足を噛みちぎろうか」
「カティに触れさせはしない」
「お前に選択権はねぇんだよ」
ヴァシリーは喉の奥で笑う。
「あいつを犯して犯して犯し尽くすのもいいな。永遠に犯し続けるのも楽しそうだ。そうだ、あいつの男も一緒にこっちに引き込んで、そのさまを見せつけるのも楽しそうだな！ ぞくぞくするほどの絶望と怒り。快楽に負ける屈辱。んー、実に良いものじゃないか」
「そんな、こと！ させないっ！」
「ならば、お前はあいつを俺より先に殺すしかない」
ヴァシリーは愉快そうにエレナの顎に銃口を押し付けた。
「ずどん」
ヴァシリーは笑いながらそう言って、引き金を引いた。