はたと気付けば、エディタの意識は暗いシミュレータの筐体の中に戻ってきていた。擦過音と共に天蓋が開くと、そこにトリーネの心配そうな顔が覗いた。
「だいじょうぶ?」
「ああ、多分……。私、どのくらいこうしてた?」
「一分くらい? たいした時間じゃないけど、何の反応もなくなったから」
トリーネの助けを借りて、エディタは筐体から出た。クララとテレサもそばにいて、口々にエディタの状況を尋ねてくる。モニタルームに目をやると、ブルクハルト中佐が忙しそうに動き回っていた。
「ところでクララ、さっきの話――」
「胃腸薬とか風邪薬の話じゃないの?」
トリーネが口を挟んだ。そしてクララに向き直る。
「クララも噂レベルの真偽も曖昧なことを言わないのよ。C級のみんなも心配するわ」
そう言うと、トリーネはエディタに目配せした。エディタはトリーネが軽く指差した先、モニタルームの中に、ハーディ中佐の姿を認めた。ハーディは無表情なまま扉を開けて、エディタたちのいる部屋へと移動してくる。
「エディタ、あなたに少し話があります」
「じ、自分だけですか?」
「イエス、あなただけ」
ハーディは眼鏡のフレームに軽く手を触れつつ、平坦な口調で肯定した。空気を読んだトリーネたちは頷き合って部屋を出ていく。ドアが閉まるのを見届けて、ハーディは筐体の一つに寄りかかった。その表情はハーディにしては珍しく、いくらか疲労を感じさせるものだった。エディタはニメートルほど離れた場所に、直立不動で立っている。
「V級首席のあなたにだけははっきりと伝えます。ヴェーラ・グリエール提督が、精神安定剤を服用しているのは事実です。しかも一般には非合法なものを」
「え……?」
「歌姫特措法によって、歌姫については手続きを経さえすれば合法的に利用できる――しかし危険な薬物を、ヴェーラは常用しています」
「そんな……二十年も前の法律で、そんなことを?」
「想定の範囲内、なのでしょうね」
ハーディはエディタを見据えて言った。エディタは喉を鳴らして唾を飲む。
「そうともしなければ、実効的な戦力になり得ない可能性があったと」
「現にそうなっています。レベッカはヴェーラに依存することで精神の安定を図っていて、それも結局、ヴェーラの状況とさして変わりありません」
ハーディが淡々と紡ぐその言葉を前に、エディタは身動きが取れない。
「ともかく」
ハーディは寄りかかった姿勢のまま、腕を組んで目を閉じた。
「あの子の精神状態は、現時点でもうすでに限界を遥かに超えて悪化しています。薬物でどうにか立っていられる状態ではありますが、それでも実際のところは身も心もボロボロなのです、ヴェーラは」
その原因の一つは私なのだが――という言葉は飲み込んだ。エディタに自分の行いを懺悔したところで、誰も何も得をしない。
「あなたは現在第二艦隊に所属していますが、現時刻を以て第一艦隊との兼務とします」
「け、兼務ですか?」
「イエス。しかし、兼務といってもやることは今までと同じ。作戦では第二艦隊に所属してもらいます。ただ、第一艦隊所属という肩書があったほうが、ヴェーラのサポートをし易いと、参謀部は考えました」
「ちょ、ちょっと待ってください、中佐。自分はまだ十七歳です。ヴェーラ、レベッカを支えるって、そんな、自分みたいな子どもにできるはずがありません」
「あなたがた歌姫と私たちには、埋められない溝があるのです。歌姫を理解できるのは、同じ歌姫であるあなたたちだけなのです。難しいことは言いません。ただ、あの子たちの話し相手になってあげて欲しいのです」
「それは」
エディタは拳を握る。
「それは無責任です。自分たちは違う、自分たちにはできない。だから私たちのような子どもにそんな役割を押し付ける。それは狡い大人の論理です。そんなだから、ヴェーラは」
「わかっています」
ハーディは首を振った。
「我々は歌姫との距離感を測りかねたまま、ここまで来てしまった。それ故にあの子たちは孤独になってしまった。わかっているのです」
「ではなぜ」
エディタは頭が熱くなっているのを感じていた。
「ではなぜ、今からでもどうにかしようとしないんです、大人たちは! 私みたいな子どもに頼って、結局私だって同じことになるかもしれない。歌姫を理解しようともせず、対症療法のようなことばかりして」
「言い返す言葉もありません」
ハーディは厳しい表情でそう言った。
「しかし、ヴェーラは今まさに助けを必要としている。希望が必要なのです」
「それは絶望の先送りです」
エディタはそれまでの直立不動の姿勢を崩した。やや足を開き、項垂れる。ハーディはそのことに関して弁解をしようとはしなかった。エディタは表情から感情を消し、前髪の奥からハーディを伺い見る。
「我々はヴェーラとレベッカを守る使命があります。国益のために。二人を守り、二人が戦える状態を維持することこそが、即ち国防です。ですから、手を抜いたことはありません」
「その方法論が間違えていただけ、とおっしゃいますか?」
「間違えてもいません。より良い方法はあるかもしれませんが、現にヴェーラは今もまだ戦えている」
「遠からず……!」
「ええ。だから、私は今こうして手を打っているのですよ、エディタ・レスコ」
ハーディの黒褐色の瞳がエディタを射抜いた。エディタは軽く仰け反った。その眼力があまりに強力だったからだ。
「わかり、ました」
どのみち拒否権はないのだ。エディタは小さく首を振った。ハーディは「助かります」と言うと、筐体から背を離して、出口へと歩を進めた。
「ハーディ中佐」
「……何か」
「なぜですか。なぜヴェーラ……グリエール提督は、そこまで傷つけられなければならなかったんですか」
レベッカでさえ癒やしきれないほどの傷を?
ハーディはエディタを振り返らないまま、ボソリと答えた。
「――戦争だからよ」
そう言うなり、ハーディは部屋を出て行った。
「戦争だから――」
便利な表現だと、エディタは思った。戦争を掲げれば、何だって許される。勝つことが国益なのだと、あるいは負けないことが国益なのだと言われてしまえば、誰も何も言えなくなる。
そんなことはエディタが生まれる前からずっと続いている。逆に言えば、誰もこの状況を変えようとしてこなかったことの証左であり、「戦争だから」という表現が便利でありすぎたことの証拠だった。
「身勝手な話すぎるだろ……」
エディタは目の奥が急激に熱くなるのを感じた。