レベッカは大いに混乱していた。昨夜着ていたはずのブラウスが、自分の隣にきちんと畳まれて置かれているという事実に。伴い、自分の上半身がほとんど裸で、下着すら用途を為していないこと。スカートを脱いでいなかったのは幸いだが、それでも着衣は大いに乱れていた。
「……ああ、やっちゃった」
レベッカは下着とスカートを整えると、そのまま頭を抱えた。ついワインを口にしてしまったところまでは覚えている。そこから先は全く何も記憶がなく、今に至っている。ほぼ裸の上半身をマリアにも見られたであろうことはかなり恥ずかしい。ヴェーラはたぶん足元に落ちているブランケットを掛けてくれただけだろう。下着を直してくれても良かったのに、ともレベッカは思うが、「いやいや」と首を振る。
レベッカはブラウスを手に取ると手早くボタンを留めた。が、やや動転していたのか、一段ずれる。
「あう……」
ヴェーラたちが目を覚ます前にビシっとしないと。焦るほどに手が震える。
やっとでボタンを留め直し、時計を見ると午前五時を少し回ったところだった。遮光カーテンの隙間から、ほんのり明かりが差し込んできている。
ヴェーラとマリアは、ソファで折り重なるようにして眠っていた。ヴェーラの膝の上にマリアの頭があり、ヴェーラはそんなマリアにより掛かるようにして眠っているのだ。レベッカは仄かに苛立ちを覚えたが、昨夜の自分の失態を想像して何とかその感情を追いやった。
テーブルの上に目をやると、そこにはボトルの林ができていた。ワインが二本、ブランデーとウィスキーが一本ずつ、ビールの缶が半ダースもある。
「飲み過ぎよ……」
自分はこの中のどのくらい飲んだんだろうかとレベッカは考え、「ちょっとだけに違いない」と首を振った。事実、レベッカはワインをグラス半分しか飲んでいないのだが、レベッカにはその記憶はない。
「あ……?」
その林の中に電子メモパッドが埋もれていた。レベッカは電源が入ったままのそれを手にとって、重要なことを思い出す。
「作詞!」
明日締め切りの案件が一つあった。以前創った「エアリアル・エンプレス」の大ヒットに機嫌を良くした上層部が、今回もまたヴェーラとレベッカの合作でという無茶振りをしてきた案件だ。これまでもヴェーラやレベッカが作詞や作曲を行ってきた楽曲は数多くある。そしてどれもがかなりの売上を記録してきているのだが、「エアリアル・エンプレス」は『空の女帝』カティ・メラルティンのドキュメンタリー映画の公開に合わせて創られたもので、映画の大ヒットに伴い、主題歌であるこの曲もまた世界的に売れたという経緯がある。国威発揚、戦意向上のための映画でもあったのだが、元より国民的人気の高いカティ自らが出演し、エウロス飛行隊の全面的バックアップもあるということもあって、それまで謎に包まれていた空の女帝その人に興味を持った人間が多かったということもあるだろう。
もっとも、ヴェーラもレベッカもその映画には不満があった。映し出しているのはカティの一部でしかなく、カティの持つ本来の優しさや繊細さなどは映画からは全てオミットされていたからだ。勇猛果敢にして人類史上最強の戦闘機乗り、圧倒的強者たる空の女帝――そういうところばかりがフィーチャーされていたからだ。
だが結果としてカティの支持層はより分厚くなり、エウロス飛行隊一強体制はますます盤石となった。
カティは不満たらたらのヴェーラたちに言った。
「アタシの本質なんて、お前たち以外には恥ずかしくて見せたくない」
その言葉でヴェーラたちは溜飲を下げた。カティが仕事をしやすくなるのなら、それでいいだろうと納得したのだ。
ともあれ、今回も映画とタイアップする想定での作詞依頼となったわけだが――。
「できたのかな?」
レベッカは淡い期待をいだきつつ、その電子メモパッドを操作する。書き殴られた言葉がふわふわと消えていき、最終稿と思われる文字列が出力されてくる。誤字や既存作チェックなども済んでいるようで、どうやらこれで完成稿と見て間違いなさそうだった。
「ブルクハルト教官はスーパーマンね」
仕事の片手間にこんなものを作ってしまうのだから。仕事のプログラムに疲れたから趣味のプログラムをするんだ、なんてことを仰っていたっけ。それはレベッカには全く意味不明な話だったが、ヴェーラは何やら納得していたようにも見えた。
「どれ」
レベッカはその詞を指でなぞる。
舞い散る雪の華のように 立ち止まったら 消えるもの
まるで溶け行くためだけに わたしの前に現れて
その時がやって来てしまったら 辿り着いたら 消えてしまう
まるで落ち行く羽根のように わたしを迷い惑わせて
微笑うだけなら お気に召すまま
声をあげたら 叫んでしまうよ
だから今 笑いながら手を振るよりも
みっともないほど 泣きわめきたい
永遠に あなたにすがって 泣いていたい
そうさせてって今、誰に言えばいい?
あの時 何も言えなかった わたしの心は乾いていて
二人して微笑みあって 握った手のぬくもりさえ忘れて
最後は そうして手を振って 全て忘れたい、そう口にした
また会える? 訊けずじまいで
覚悟の意味も 最後の希望も
見ずに 聞かずに ただ逃がさないように
永久の別離なんてない そう言って閉じ込めて
誰に伝えよう? 誰に伝えればいい?
誰が聞いてくれる? 誰がわかってくれるというの?
わたしが たたずむ 深い淵に
わたしが かくした ただひとつの歌
……これって。
電子メモパッドを持つ手が少し震えていた。レベッカは指先に力を入れて、震えを止めようとする。だが、力が入らなかった。
「おはよ、ベッキー」
突然のヴェーラの声に、レベッカは肩を震わせた。その様子を見て、寝起きのヴェーラが小さく笑う。
「見た?」
「え、ええ」
「わかるでしょ。それ、ヴァリーを思って書いたんだ」
「やっぱり」
「で、どうさ?」
感想を急かされて、レベッカはもう一度歌詞を読んだ。
「わがままな人の、いい歌」
「わがままな、かぁ」
ヴェーラはまだ眠っているマリアの髪を撫でながら、少し哀しげに微笑んだ。そのあまりの、女神のような美しさに、レベッカは目が眩む。
「あなたのせいいっぱいのわがまま。否定するわけじゃないわ。私、嬉しいくらい」
「嬉しい?」
「あなたは今までヴァリーとのことをずっと自分だけの中に閉じ込めてたもの。あのままだといつか破裂しちゃうんじゃないかって思ってた。だからこれはいい傾向だと思うの」
「いい傾向か。そうかもしれないね」
ヴェーラはそう言って少し考える。
「ガス抜きにはなったかもしれない」
そう呟いたヴェーラの顔に見惚れながら、レベッカはポツリと言った。
「セルフィッシュ・スタンド」
「タイトル?」
「ええ。どうかな」
「わがままな……戦い?」
「スタンドの持ついろんな意味を含めてみたの。わがままに立ち尽くす、わがままに針路を取る、とかね」
「ふぅん」
ヴェーラは顎に手をやって少し考えてから、空色の目を輝かせた。
「いいね、それでいい!」
そこでヴェーラに膝枕されていたマリアが目を覚ます。
「あっ、す、すみません、ヴェーラ姉様」
「おっはよ、マリア。楽しい夜だったね」
ヴェーラはマリアの肩を抱き寄せる。その目はレベッカの胸のあたりを見ていた。
「レベッカの巨乳も拝めたしさ」
「ヴェ、ヴェーラ!?」
あなたはほぼ毎日お風呂で見てるじゃない――と、レベッカは言いかけて黙る。
レベッカは胸を隠すような仕草をし、ヴェーラはその様子に声を上げて笑った。
「もうっ!」
「あはっ、ごめんごめん! それでね、マリア。あのさ、この歌のタイトル。セルフィッシュ・スタンドなんてどうかなってベッキーが」
「セルフィッシュ・スタンド、ですか?」
マリアはレベッカから電子メモパッドを受け取りながら、何度かそのタイトル候補を復唱した。その顔はもうすでにいつもの参謀としてのものになっていた。鋭利な視線で電子メモパッドを見つめ、時々視線を上げては「セルフィッシュ・スタンド」と繰り返す。
「ど、どうかしら……?」
途端に自信がなくなってきたレベッカがおずおずと意見を求める。マリアはレベッカを凝視する。
「う……」
胃がキリキリしてきた――レベッカは鳩尾のあたりを軽くさする。
マリアは電子メモパッドに「セルフィッシュ・スタンド」と流麗に書き入れた。そして口角を上げて表情を緩めた。
「いいですね。しっくりきます」
「よかった」
レベッカは安堵の息を吐いた。マリアは目を細め、そして思い出したようにヴェーラを見た。
「あ、ヴェーラ姉様、ご褒美は……」
「ご褒美?」
ヴェーラとレベッカの声が重なった。
「頬にキスをしてくれるって……」
「あ、あれね。きみが寝てる間にたっぷりさせてもらったけど」
「ず、ずるい……」
レベッカが恨みがましく呟き、マリアはやや複雑な表情を浮かべる。
「私の意識がない間にキスされても、それはご褒美になりませんよ、ヴェーラ姉様。それとも」
「ごめんごめん」
ヴェーラはそう言うとマリアの右頬に触れ、そのまま左頬にキスを贈った。
「こんなのでいいの、マリア」
「じゅ、十分ですっ」
マリアは一瞬だらしない表情を見せたが、すぐに引き締まったいつもの顔に戻った。
「レベッカ姉様からももらえたら最高なんですけど」
「だそうだよ、ベッキー。きみは確かに眼福だったけど、基本的に寝てただけだからねぇ」
ヴェーラとマリアの視線を受けて、レベッカはたじろいだ。
「が、眼福だったらそれで帳消し……」
「ああ、肩が凝りました。徹夜でちょっとだるいですね。どうしましょう」
マリアはわざとらしく言い、ジト目でレベッカを見る。レベッカはますます気圧される。
「ああ、もう、わかったわよ。マリア、こっち来て」
「はい!」
おやつにありついた子犬のように、マリアはレベッカの前に移動する。レベッカは立ち上がるとマリアの頬に素早くキスをした。
「足りません」
「……キスはしたわよ」
「愛情が足りません」
毅然と言い放たれたその言葉を受けて、ヴェーラはケラケラと笑い転げている。レベッカは唸りつつ、しかし縋るような目を向けているマリアから視線を外せず、やがて押し負ける。
レベッカはマリアを抱きしめると、意を決してその唇にキスをした。てっきり頬にされるものだと思っていたマリアは驚いたように目を見開き、まるで沸騰でもしたかのように首から上を赤くした。
「してやったりな自爆攻撃が決まったね」
ヴェーラはレフェリーのようにそうジャッジした。