レベッカとレネの食事の日から二日後、二〇九五年の大晦日、夕刻――。
レベッカの邸宅にカティがやってきた。
「おかえりなさい、カティ」
「ただいま」
自然に交わされる言葉に、カティは目を細める。出迎えたレベッカは、カティの手を取って「まぁ、冷たい」と目を丸くする。
「門扉から玄関まで遠すぎるよ、この家」
「警備の関係なんですよ」
「ふぅん」
カティは鼻を鳴らすと、レベッカの肩を抱くようにしてリビングに移動した。リビングでは、ピンクのエプロン姿のマリアがせっせと料理をテーブルの上に並べていた。料理を置いたマリアはカティに向き直るとその暗黒の瞳でカティを見て、小さく頭を下げた。
「いらっしゃいませ、メラルティン大佐」
「まだ慣れないなぁ」
「飛行士としての最高階級に到達ですね」
「そうらしいな。なんか実感湧かないけど」
そんなことを答えているカティから、レベッカはレザージャケットを受け取りながら尋ねた。
「今夜はゆっくりできるの?」
「ああ。一週間の強制休暇。エリオット中佐にしてやられた」
「よかったじゃないですか。カティは働きすぎです」
「お前に言われることじゃないな。国で一番働いているのはベッキーだろ」
カティは肩を竦めてソファの一つに腰を下ろした。マリアはジンジャーエールのボトルを冷蔵庫から取り出して持ってくる。テーブルの上ではすでにシャンパンが冷やされていた。
「カティの昇進と新年のお祝いに。シャンパン、なかなか良いものらしいですよ」
私は詳しくないんですけどねとレベッカはマリアをうかがった。
「エル・マークヴェリアからの輸入品です。値段や味も評判ですが、何より入手の難しいものなんです」
「そうなのか。ありがたくいただくとするか」
カティはボトルを手にとって眺めながら言う。そこでレベッカがどこか歯切れ悪く言った。
「乾杯の前に、カティに一つ重大なお話が」
「ヴェーラ関係のことか?」
「……ええ」
レベッカは頷いた。
「これは最高機密に属していて、本来はあなたにもお伝えしてはならないこと。ですが、ヴェーラ本人の意志を尊重し――」
「前置きはいいよ。で、本題は」
カティはその紺色の瞳でレベッカを見据えた。レベッカの表情が眼鏡のレンズの反射で一瞬隠れる。レベッカはゆっくりと息を吐き、告げた。
「ヴェーラが、目を覚ましました」
「……そう、か」
カティは腕を組み、目を閉じる。そしてそのままたっぷりと一分間沈黙してから、ゆっくりと目を開けた。
「よし、続きを聞こうじゃないか」
「はい」
レベッカは強く頷いた。
「ヴェーラの命の危険はもうありません。ですが、もうヴェーラはいません」
「い、いない?」
どういうことかとカティは眉根を寄せる。
「イザベラ・ネーミアというD級歌姫が、ヴェーラの後任となります。マリア、根回しの状況は?」
「問題ありません。関係者全員にご理解いただきました」
意味深なマリアの回答に、レベッカは無意識に眉間に力を込めた。カティはなんとなく事情を悟ったが、そのマリアの手段についての追及はしないでおこうと決めた。
「イザベラ、か。あいつ、別人という名目で好き放題するつもりか」
「おそらくは」
レベッカはそう言って、自分専用のジンジャーエールのボトルを開けた。マリアもシャンパンを開封する。
「でもそれがヴェーラの選択だというのなら、私は受容するつもりです、カティ。いかなる方向に向かおうとも」
「しかしベッキー。あいつの暴走を止めるのもお前の仕事じゃないのか」
「あの子はもう、ヴェーラではありません」
レベッカはあっけらかんとした口調を作る。
「うん、まぁ、そうか」
カティはマリアに促されるままにグラスを差し出す。シャンパンがゆらゆらと注ぎ込まれてくる。
「もっとも、ヴェーラの暴走は今に始まったことでもないか」
「しかし、今のヴェーラはもうヴェーラという軛を外されてしまった。イザベラを止める術は、私にはもうないんです」
レベッカは首を振りながら言った。
「カティにはお願いがあるのです」
「お願い?」
「あの子の暴走が手に負えなくなったら、あなたに止めてもらいたいんです」
「冗談キツいぞ」
「いえ」
レベッカはグラスのジンジャーエールを呷る。
「本気です。あの子も本気。私だって本気です。なので、万が一の時には――」
「わかった」
カティはレベッカの言葉を遮った。レベッカは悲しげな表情を見せる。
「わかったが、努力目標だ」
ヴェーラを撃てだなんて言ってくれるなよと、カティは強く思う。そうなった時に、もしヴェーラがヤーグベルテにとって巨悪の存在となった時に、自分は引き金を引けるのか――否だ。間違いなく、否だ。
カティはシャンパンに口をつけたが、味がまるで分からなかった。
「乾杯前にお二人とも」
マリアが苦笑しながら二人を見た。二人は「あ」と揃って声を発して、小さく笑い合った。
「改めて」
マリアはカティのグラスに再びシャンパンを注ぎ、レベッカのグラスにはジンジャーエールを注いだ。レベッカがグラスを持ち上げてカティに微笑みかける。その微笑を見て、カティは「ベッキーもすっかり大人だな」と感想を告げた。
「お酒は飲めませんけど、立派なレディですよ、私」
「認めるよ」
カティはグラスを小さく掲げた。レベッカが小さく咳払いをして、音頭を取った。
「カティの大佐への昇進に乾杯」
「どーも」
カティは二人と順にグラスを合わせ、シャンパンをゆっくりと喉に流し込んだ。
「なるほど、高級な味がするな」
「カティは舌が肥えてるものね」
レベッカは笑う。カティは「そうなのかな」と首を傾げた。
「全国各地の名産品を食べ歩いているでしょう、大佐は」
「カティでいいよ、マリア」
カティはマリアの暗黒の目を見つめる。
カティは正直に言って、未だにマリアという人物がよくわかっていない。警戒すべき相手なのか、信頼すべき相手なのかすら。ただレベッカが完全に心を許しているのは間違いがなかったから、カティも大きく歩み寄っているに過ぎないのだ。カティ自身の判断としては、黄色信号が点いていると感じなくもない。
「心配は要らないと思いますよ」
カティの心を見透かしたように、マリアは言った。カティは「そうかな?」と返す。
「私は常に姉様方の味方。私自身にどんな役目があろうとも、それだけは絶対に揺るぎません」
「どうしてそこまでベッキーやヴェーラを想うんだ?」
「人を愛することに理由なんて要らないと、私は考えています。私は姉様方を心から愛していますし、それは全てに優先します」
マリアの強い言葉にカティは気圧される。
「カティもまた、姉様方を愛しておられるでしょう?」
「あ、うん。なんか気恥ずかしいけど、そう言ってもいいだろうね」
「同じです。誰よりも大切だと思う気持ちに、嘘はないんです」
マリアの力説に、カティは圧倒されてしまって言葉が出ない。
「はいはい、私がモテモテなことはわかりましたよ」
レベッカがお道化て言った。
「でも、ふたりとも私に抱かれたいとは言ってくれないものね」
「それとこれとは話が別だよ、ベッキー」
カティは苦笑しながら、グラスを持ち上げてレベッカの座るソファに移動した。レベッカはカティの肩に頭を乗せた。マリアの視線がほんの少し鋭くなったのを感じて、カティは少し吹き出した。
「マリアに刺されそうなんだけど」
「そんな利敵行為ははたらきませんよ」
マリアはツンとして顔をそむけた。そしてたまりかねたように吹き出して、少し慌てて口元を拭う。
「あとでレベッカ姉様成分は補充させていただくとして。ヴェーラ姉様にしても、いきなり大暴走とはいかないと思いますよ。幾度かはチャンスをくれるでしょう」
「だが、一度は不合格を貰ったわけだ」
カティはカルパッチョを取りながら言った。
その不合格へのペナルティがヴェーラの喪失というわけか。これからはなんとも厳しい採点が待っているに違いない。唸って沈黙してしまったカティの顔を、レベッカが覗き込む。
「私はこの国の安全装置。つまり、あの子のブレーキです、確かに。ですが、それ以前に、私はあの子の最高の親友でありたい。だから」
「そうあってやってくれ、ベッキー。お前たちはアタシの妹分みたいなもんさ。だから心配するな。何があったって、アタシがどうにかしてやる」
カティはシャンパンを飲み干した。マリアがすかさずグラスを満たす。
「それにお前たちは、アタシなんかよりずっと頭がいい。お前たちがいいと思ったことは、その時点で多分、正しい。信じるだけさ、アタシは」
カティは左手でレベッカの美しい灰色の髪を撫でた。顔を上げたレベッカの瞳は潤んでいた。そんな二人の様子を見て、マリアは目を伏せる。
「レベッカ姉様は姉様の思う道を進んでください。私は姉様方を全力でサポートします。それがいかなる判断、いかなる決断であったとしても」
「ありがとう、マリア」
レベッカは頷き、グラスを置いて立ち上がった。
「どうした?」
「気合入れてるの」
レベッカは軽くストレッチをする真似事をして、カティに笑顔を見せた。
「あの子が暴れるなら、私はあの子をひっぱたかなくちゃ」
「マリア、二人の手綱はしっかり引いといてくれよ」
カティは肩を竦めてそう言った。
「案外、裏で糸を操っているのは私かもしれませんよ」
「かもな、とは言いにくいな」
カティはどこか苦い笑みを見せて、マリアに向けてグラスを掲げた。
シャンパン越しに見るマリアの姿は、規則正しく歪んでいた。