エディタとトリーネは、新型のクラゲとの交戦を開始しているようだ。物理的には対潜攻撃を繰り出す二隻の重巡と、距離を詰めようとするクラゲというような構図が見えるだけだったが、二人は論理戦闘に突入しているはずだ。イザベラの能力をもってしても、論理の世界がどうなっているのかを覗くことはできない。自ら加勢すればもちろん状況はわかるし、勝負は一瞬で決するだろう。そうと知っていながら、イザベラは冷静に首を振る。
この平常心は薬物の過剰投与によってもたらされている――そのことはイザベラ自身十分に理解していた。だが、この判断には誤りはないと、イザベラは確信してもいる。戦争には犠牲がつきものである。いいや、そもそも戦争というゲームに参加するためには、命という対価を支払わなければならないのだ。国家も国民も、今やそれを忘れている。ユーメラやセプテントリオ、レピアなどのように壊滅の憂き目を見た本土都市は幾つもある。だが、事ここに至ってもなお、多くの国民にとって、戦争はやはり他人事にすぎなかった。
「おひとよしのわたしたちが原因だけど」
自嘲するイザベラ。絶対無敵の歌姫。軍神。守り神。賛辞の言葉は実に枚挙に暇がない。そしてヴェーラたちは事実として、一人でも味方の犠牲を減らし、より多くの敵を打ち倒すことが国家のためになると信じて戦ってきた。自分たちが負う傷のことなど二の次にして。
その結果、何が残ったのか。
その結果として残ったのは「無敵であることが当然である」という国民の勘違いと、それに端を発する傲慢さの噴出であった。国民はヴェーラとレベッカの活躍が己の意のままになると勘違いし、野次を飛ばすようにすらなった。戦争の娯楽化を加速させてしまったのだ。
かくして、戦争の生中継は国民の最大の娯楽と化した。中継ドローンが撃破された時には、放送局に無数のクレームが入るという事実もあった。国民は戦闘そのものの娯楽性と同時に、セイレネスの発する特殊な音を求めた。軍はそれの流通を規制するどころか黙認を決め込んだ。それにより、セイレネスは国民の生活においてなくてはならないもの――強いて言えば、セイレネスによる戦闘行動がなくてはならないものに変化していった。
だが、かつてのわたしには、何をすることもできなかった。
ヴェーラたちがその流れに対抗しようとするならば、同時にヤーグベルテ軍に大きな損害をもたらすことになったし、ともすれば本土の民間人が数百万単位で犠牲になることも自明だった。そんなことにはヴェーラは耐えられなかった。だからヴェーラもレベッカも、支え続けたのだ。
しかしその緊張の糸は、エディタたち次世代の歌姫たちの登場によって、ぷつりと切れた。その結果があの事件である。ヴェーラは自身の負債のすべてを焼き尽くし、イザベラとして蘇った。その時からイザベラは、国家のあるべき形、真に受け容れられ得る未来を創るべく、冷酷冷静な鬼となることを決めたのだ。その役目はレベッカには任せてはならない――イザベラは強く決意していた。
「ん……?」
終わったか?
エディタとトリーネの重巡、アルデバランとレグルスから放たれていた薄緑色の粒子が途絶えた。新型ナイアーラトテップも動きを止め沈黙した。重巡側に損害はほぼ見られない。勝ったと見るのが常道だったが、イザベラには妙な胸騒ぎがあった。
「エディタ、トリーネ、状況は」
『倒したはずです、が、何か妙です』
エディタが応じる。とどめは刺したつもりだが、その直後に論理空間から弾き出されたのだ。強力な干渉、つまり対セイレネスシステムがどこかからか発動したと考えるべきだった。しかもそれは並の能力ではない。エディタとトリーネ二人をはねのけるほどの能力――最低限見積もってS級レベルであると見るべきだった。
「トリーネ、注意しろ。進路をそっちに合わせたぞ。クラゲはまだ生きている」
イザベラは意識を集中して、その新型ナイアーラトテップの動きの阻止を試みた。だがいかんせん距離がない。そしてこの新型は異常に速い。
変形だと?
クラゲのようなその姿が、まるで槍のように細長く捻りあげられていく。
「しまった! 見た目に騙された!」
イザベラは舌打ちして、セイレーンEM-AZの主砲を一斉射する。だが、有効射程であるにも関わらず、その槍の纏うセイレネスによる防御フィールドに弾き返される。
「気を付けろ、トリーネ! そいつはインスマウスだ!」
『う、うそっ……』
時速三百キロを超える速度で海面を滑るその槍が、重巡レグルスが展開したセイレネスによる防御障壁に激突する。激烈な放電現象が発生し、夜の空と海を黄金色の閃光で引き裂いた。
『なんなの、これ、これって……!』
トリーネの掠れた声が艦隊中に響き渡る。
『トリーネ、今行くから!』
『だめ、エディタ!』
『一人でどうにかなるものか!』
「ならん、エディタ!」
進路を変えつつあるアルデバランを見て、イザベラは怒鳴る。
『しかし提督、このままでは!』
「きみも死ぬ気か!」
『見捨てることはできません!』
エディタはアルデバランの進路を変え続ける。主砲が放たれ、トリーネを襲う槍に命中する。だが、その異常に過ぎる防御力の前に、あらゆる攻撃が無効化されてしまう。イザベラからの攻撃もまた同様だった。
その時、イザベラの意識の中に一人の女性の姿が浮かび上がった。
銀髪に赤茶の瞳――情報としてはそれしか理解できなかったが、とにかくも女性の姿ではあった。
そして――。
「わたしを……凌ぐ……!?」
息を飲むイザベラ。この銀髪の女性は、イザベラをはるかに凌ぐ歌姫であると直感した。現にイザベラからの全力攻撃ですら、槍に傷ひとつつけられていない。
『エディタ、ごめん……』
『トリーネ、あきらめるな! 今助けてやるからっ!』
『来ちゃ、だめ。その代わりこいつ、絶対に抑え込むから』
トリーネの防御障壁が槍に貫かれる。ㇳリーネがわざと綻びを作ったのだ。
槍は重巡レグルスの艦首から艦尾までを貫いていた。
『トリーネッ!』
槍から無数の触手が出現し、瞬く間にレグルスを包み込んだ。
「レグルスのセイレネス・システムを利用して誘爆を引き起こす気だ!」
イザベラが全艦の退避行動を命ずる。イザベラの意識の中で、銀髪の女性が微笑む。それは酷く冷たい表情だった。
『トリーネ、今行くから!』
「ならん、エディタ!」
イザベラがその主砲をアルデバランの目前に撃ち放つ。アルデバランはたまらず足を止める。
『トリーネ! トリーネ!』
エディタが激しく取り乱している。イザベラは唇を噛む。そして自らのセイレネスを最大出力で展開した。次に来るのは激しい爆発だとイザベラは知っている。相手はあのインスマウスだからだ。
『エディタ、楽しかった。ごめん。もっと一緒にいたかったよ――』
『トリーネ! あきらめるな!』
『セイレネスでは嘘はつけない。残酷だよね』
槍に貫かれたレグルスが爆発した。半球形に広がった爆炎は、アルデバランの目前まで迫ったところで止まった。薄緑色の輝きが、爆発を押し留めていた。爆発の中心ではプラズマの嵐が吹き荒れ、レグルスであったものの片鱗すら残されてはいなかった。
『命がけで守ってくれたんだね』
クララが上ずった声で言った。エディタは何も答えなかったが、歌姫たちにはその慟哭が聞こえていた。感情をあまり見せないエディタのその泣き叫ぶ声に、さしものイザベラも何も言うことはできなかった。
「全艦に。全艦に告ぐ。敵を一人とて生かして帰すな。C級はM型を集中攻撃。全てを沈めろ。エディタ、呆けるのはもう少し先にしてくれ。わたしとともに敵艦隊を撃滅するんだ」
敵の艦隊はあの新型ナイアーラトテップ、もといインスマウスの突撃とともに反転してきた。おそらくは最初からそのような算段だったのだ。あの爆発に艦隊の大半が巻き込まれると予測し、一気に撃滅するという――だが、その目算はトリーネの力によって潰え去った。
敵艦隊は慌てて再反転を試みていたが、その時にはイザベラとエディタの有効射程に捉えられていた。
『提督、怒りで人を殺すことをお許しください』
エディタの平坦な声が、イザベラの意識の中に直接流れ込んできた。
「女神よ、怒りを歌い給え、だ。エディタ、人を殺してもトリーネは戻っては来ない。人を殺してもトリーネは喜ぶまい。きみ自身その後で苦しむことになるだろう」
『それでも』
「わたしはきみに命ずる。アーシュオン残存艦隊を殲滅せよ。いいな?」
『……了解』
アルデバランがその火砲を撃ち放った。そのセイレネスの威力の乗った熾烈な放火から、敵は逃げられない。反転途中という中途半端な体勢もまた、それに拍車をかけた。次々と艦艇が沈んでいく。そこにC級の駆逐艦たちが八隻突っ込んでいく。混乱が混乱を呼び、敵艦艇は更に被害を拡大していく。先の攻撃で司令部機能を喪失している艦隊では、もはや何もできなかった。暴れまわる駆逐艦達によって、敵艦艇は無慈悲に沈められていき、エディタによる執拗な砲撃は、海上に脱出した兵士たちを直接粉砕した。
『イズー、M型攻撃の支援に私も』
「きみはそこにいて督戦する係だ」
『でも、被害が出るわ!』
「だめだ」
M型は残り十。クララとテレサ、そしてC級たちが苛烈な攻撃を加えた結果だ。だが、それでも残り十。歌姫たちの集中力にも限界があった。
「感情的にならないほうが良いよ、ベッキー。これは戦争なんだよ。わたしたちが絶対無敵の兵器として、数多くのアーシュオンの人々を殺してきたように、彼らだって新たな攻略兵器を生み出してくる、今回みたいにね。連綿と繰り返されてきて、そしてこれからも延々と続いていく社会の仕組み――言ってしまえば歌姫計画の本質さ、これが」
『でも、だからと言ってこんなこと、私はやっぱり……』
「きみとてもうすでに手を汚してきたじゃないか。それともそれは過ちだったときみは認めるというのかい」
『それは……でも私は』
「つまるところ、わたしたちがこんなだから、この国はこんな風になってしまったんだよ、ベッキー」
イザベラの鋭い指弾を受けて、レベッカは沈黙してしまう。
「平和が、来るといいな」
イザベラのそのつぶやきは、誰にも聞こえない。
もうすでに多くのC級たちが死傷している。C級やその艦艇なら、まだいくらでも替えがある。だが、喪われてしまった命は、それまでなのだ。そんなこと、イザベラには痛いほどよくわかっていた。
しかし、イザベラはイザベラの使命感で以て、それを甘受しなければならなかった。
――すまない、許せ。
心の中でそう呟き、そして大きく息を吸い込んだ。