カティの真紅の機体――スキュラが、薄緑色に輝くF108+ISと正対する。双方の多弾頭ミサイルが彼我の中央で相殺される。二機は生じた爆炎を貫き、なおも追いすがってくる小型ミサイルから逃げる。双方ともにミサイルを往なしながらも互いから目を離さない。振り撒かれるフレアが、チャフが、限りなく透明な真冬の空を赤や銀に彩っていく。凍てついた空気が溶解するほどの熱量が、この空域にはあった。
カティは呼吸を整えながらチャンスを待つ。敵艦載機、とりわけナイトゴーント戦の後である。少なからず消耗を感じていた。集中力の限界が見えていたし、肉体の疲労も無視できない。全身にかいた汗が、集中力をいっそうに奪っていく。
「機動性はあっちが上、か」
カティは呟く。スピードだけならスキュラの方が上だったが、機体制御プログラムをリアルタイムに補正していく力は、イスランシオの方が明らかに上だった。空戦に於いては、スピードだけ出てもあまり意味がないのだ。
カティとイスランシオは互いに機関砲を撃ち合いながら近付いていく。垂直尾翼が激突しそうなほどの至近距離で、二機は交錯した。その瞬間、カティは「あっ」と声をあげる。機体システムに不正アクセスがあったことが通告されてきたからだ。
『カティ・メラルティンだな』
通信を盗られた――!?
カティは音高く舌打ちする。慌てて周囲を見回すも、周囲には敵も味方もいなかった。先程までレーダーに映っていた敵味方の機影もいない。レーダーも偽装されていたようだった。こちらは侵入警報すら出なかった。レーダー上、カティは今、完全に孤立していた。イスランシオの機体はレーダーには映らないのだ。
カティは薄い雲を突き抜けて、ひたすらに高く高く昇っていく。スピードだけはあるから、直進運動で追いつかれることはない。しかし、F108+ISから放たれた機関砲弾が至近距離を貫いていく。
「当たるものか」
レーダーには映らない、視認するのも不可能な角度。それでもカティには敵の動きが読めていた。直感に従う限り、墜とされることはない――カティは確信を持っていた。迷わなければ、という話だ。
『噂は聞いている。お前も大佐になったらしいな』
「無駄話をするつもりはない、イスランシオ!」
カティは機体を宙返りさせる。急激な減速がカティの肉体をギリギリと締め上げる。天地が反転したその瞬間に、それまでカティがいた場所をイスランシオ機が貫いていく。イスランシオはその瞬間に機体を捻りあげてカティを追うコースに入る。機関砲弾が降り注ぐ。
「ふっ……!」
短い息を吐いて、カティは機体の軸をずらしながら何度も回転させる。そして機体を立てて急減速する。イスランシオ機が急激に近付いてきたのを確認してから、カティは上空を回ってイスランシオ機の背後に機体を捻りこませた。
直後、カティはイスランシオをロックオンすることに成功する。が――。
「ちっ! そう簡単にはいかないか」
ロックオンはすぐに解除されてしまう。
『電子戦は俺の得意科目でね』
スキュラのシステムが見る間に汚染されていく。カティは仮想キーボードを引っ張り出して、モニタの方を見もせずに、左手で猛然と叩き始める。イスランシオ戦に備えて前々から準備してあった対汚染プログラムを、ここにきて活性化させる。これを初手から出すのは敢えて控えていた。相手に手の内を全て晒すことはリスクだったからだ。プログラムはすぐに効果を発揮し、システムの汚染速度は目に見えて遅くなった。
カティは続けざまにデータリンクのチャネルを全て閉鎖する。これにより機体は完全に孤立化される。母艦リビュエからの情報支援すら断たれる。だが、これでいい。論理的な侵入余地を全て塞ぐことで、新たな一手を打てなくする。機体の中に立て籠もる。一騎打ちの準備は万端抜かりなしだ。
『メラルティン。どうしてお前はこんな現実にしがみつく』
「何を言っている」
F108+ISに機関砲の雨を降らせる。イスランシオ機は淡く薄緑色に発光した。いったいぜんたいどういう機動を取ったのか、カティには理解できなかった。だが結果として、命中弾は出なかった。
「さすがは超エース!」
もとよりカティも命中が出るとは思っていなかった。並の飛行士なら数回は爆散していたところだろうが。
『ヴェーラ・グリエールのその行為、そして、その想い』
「……!?」
知っているというのか、貴様!
カティは頭の中で舌打ちする。
『俺に見つけられない情報はない』
「そうかい」
カティはイスランシオの真後ろに位置取りし続ける。もはや砲弾もミサイルも心許ない。無駄打ちはできない。それがカティをわずかに焦らせる。
「ッ!」
カティは操縦桿を思い切り右に倒した。機体がぐるりと時計回りに弧を描く。イスランシオが機体を垂直に立て、急減速したのだ。一瞬でも判断が遅れていたら、スキュラはF108+ISに追突していたに違いない。
『お前ももう認知しただろう。この国家の、国民どもがどれほど愚昧なのか。そんな無知蒙昧な連中に、お前たち才ある者たちは浪費させられている』
「だから、何だ!」
背面上方から遅い来るミサイルをギリギリで回避しながら怒鳴り返す。ミサイルの爆風すら味方につけた機動で、カティはイスランシオを煙に巻く。
「アタシは道具で結構! あいつらにだってその覚悟はある!」
『そうかな?』
そう言うなり、真後ろについたイスランシオがスキュラをロックする。至近距離だ。カティは操縦桿を思い切り引き、同時にベクタードノズルを進行方向に向けてからオーグメンタを点火した。凄まじいGがカティの両肩にかかり、シートに身体がめり込んでいく。背骨が圧縮されるような激痛が走るが、カティは歯を食いしばって耐えた。
速度がゼロになるその瞬間に、今度は海面にノズルを向けて、真上に飛び上がる。イスランシオの機体がカティの真下を噴射炎に炙られながら通り過ぎていく。
『その覚悟があったというのなら、なぜヴェーラはヴェーラとしての死を選んだ。いや、あの娘はそもそも生き残ることすら想定してはいなかっただろう』
「そんなことはアタシにはわからない」
カティは宙返りすると、またイスランシオの後輩にピタリとつけた。イスランシオのクラッキングによって照準がぶらされ続けているため、ロックオンには至らない。カティは舌打ちする。
「だけどね、あいつも今はこうして戦っている。アタシと一緒に、まちがいなく。だからそれでいいんだ」
――そしてアタシは、そうであるなら絶対にあいつらを守り抜く。
「今のアタシはヴェーラとベッキーに作ってもらったようなものだ。そしてヨーンと、エレナに! アタシは二人を守れなかった。だから、絶対にヴェーラとベッキーは守る。二度と死なせない」
『つまらんな』
イスランシオの声は冷たい。
『歌姫などと呼ばれているあいつらが、どんな扱いを受けているか知らぬではないだろう?』
「それをどうにかするために、あいつらは自ら先頭に立って戦っている!」
『その戦いの先に何がある? 救いが待っているとでも思っているのか?』
うるさいっ!
カティは精神の乱れを意識する。意識して息を吐き、精神を落ち着ける。
二つの機影はまるで曲芸飛行をしているかのように、空を切り裂き海を抉る。飛び交う曳光弾もまた、一つの芸術作品のようだった。
『この戦いで生き残ったとしても、お前は空で死ぬだろう。死ぬまで飛ばされ続け、そして死ぬ』
「それならば悔いはない!」
海面スレスレを飛ぶF108+ISに向かって、まるで海鳥が魚を狙うかのように急降下し、砲弾の雨を降らせた。イスランシオ機はそこに向かってまっすぐに突っ込むことになる。だが結果としてかすり傷をいくつかつけたにとどまってしまう。致命弾には程遠い。
『俺は知っている。このどうしようもない世界を終わらせる術を、な』
終わらせる術……?
『もうすでに終わりは近付いてきているというのが正しいのかもしれんが』
イスランシオはカティの機体の鼻先を掠めるようにして上に逃げた。カティは視線でその動きを追う。スキュラがカティの思考を追尾する。
『セイレネスこそが福音だ。ゲートを開き、論理層と物理層の境界を無くす!』
「意味がわからない! くっだらないことを言っていないで、とっとと墜ちろ!」
『俺たちは物理層への絶対的なアクセス権を持っている』
カティの怒号などお構いなしに、イスランシオは語る。
『論理層が物理層へ近付くことによって、俺たちは物理的な制約をより一層無視することができるようになる。ゲートウェイの干渉がなくなれば、なお、な!』
「だから何だと言うんだ!」
カティは反射的に応じる。思考にリソースを割くのがもったいない――カティは本能で会話している。
「士官学校を襲った連中だって、セイレネスで消し飛んだじゃないか!」
『物理的には、な。だが、ヴァシリー・ジュバイルは消えてなどいなかっただろう?』
「――!?」
確かにヴァシリーとは再戦の機会があった。確かに奴は生きていた。カティは苦労して唾を飲み込んだ。
「奴はまだ生きているのか!」
『生きてなどいない、最初からな。だが、奴は逝った。自らの意志でな。お前の力をもってしても、ヤツを殺すことは決してできなかった。なぜなら今のお前たちは、論理層への介入ができないからな』
「よくわからん!」
高度一万メートル。二人はいつの間にかその空域、空以外には何もない空間に在った。
どこまでも続く凍てついた冬空で、二つの機影はぶつかり合い、絡まり合う。一瞬の隙もなく、間断なく互いの尻尾に噛みつこうと動き回る。
集中力が切れたらおしまいだと、カティは意識を強く持つ。脳はとっくに虚血状態に陥っていたし、緊張の連続のせいで全身の筋肉から力が流出しているかのようだった。
『セイレネスを使うべき者が使えば、世界は変わる。この結果論に満ちた絶望の世界が組み変わるだろう!』
「そんな妄想に付き合っていられるほど暇じゃない。そんな非現実的な夢物語には興味がない!」
『非現実的?』
イスランシオは笑う。喉の奥を低く鳴らす、耳障りな笑い声だった。
『非現実を否定するというのなら、お前はこの俺の存在をどう説明するつもりだ。なぁ、カティ・メラルティン』
カティは耐える。イスランシオは今きっと真後ろにいる。奴がトリガーを引くその寸前まで待つ。攻撃の瞬間にこそ、防御の隙はできる。
カティは一つ瞬きをし、操縦桿を思い切り引いた。すかさず左に押し倒す。スキュラはその動きに忠実に追従した。上昇からの反時計回りの旋回。イスランシオの左上方からカティは襲いかかった。機関砲が業火を噴き出し、曳光弾とHVAPがF108+ISの右翼に突き刺さる。コックピットを狙ったのだが、それは躱された。しかし、十分な有効弾だ。
「あんたの存在の説明だって?」
カティはトリガーを引き続けた。百を超える砲弾が一瞬でイスランシオの機体に吸い込まれていく。
「あんたはな、現実から逃げ出した卑怯者だ!」
『卑怯者、か』
右の翼を喪失しながらも、イスランシオは機首を反転させた。
「ちっ」
体当たりでも仕掛けてくるつもりか。カティは機首を一瞬下げ、すぐに上げ直した。この予備動作がなければイスランシオ機と正面衝突していたはずだ。眼下をすり抜けていったF108+ISに向けて、カティは機首を返そうとした。が、その時――。
『カティ! 気を付けて! 空域から離脱!』
イザベラの緊迫した声だった。通信回線はさっき遮断していたから、本来は聞こえるはずのない声だった。しかしカティは即座にペダルを踏み込んでイスランシオ機と反対方向に機首を向け直す。反射的な判断だった。
「どういうことだ、イザベラ」
『全速力で逃げて!』
「わかった」
お前の言うことなら、アタシは疑わない。
カティはオーグメンタを点火して空域からの離脱を図る。スキュラの限界ギリギリのところまで加速すると、眼球が痛んだ。眼窩の奥深くまで眼球がねじ込まれるかのような痛みだ。
「ッ!?」
突如空域が白金色に染まった。続く轟音と、衝撃波。復旧しかけていたシステムが一斉に落ちる。機体制御プログラムは寸でのところで持ちこたえた。
「あぶな……」
カティは後方確認カメラの映像を見て息を呑んだ。
「核か?」
或いはそれに類する反応兵器……。
その爆発と、スキュラが叩き出してきたエネルギー量を確認して、カティは呻く。
「まるでISMT……」
喉がカラカラだった。ここに来て心身に限界が来てしまったのを感じる。
『――長、こちらナルキッソス1。通信回復したっすか、隊長』
「あ、ああ。エリオット中佐か。アタシは無事だ」
『モニタはしてました。無茶なことして』
「ああでもしなきゃ勝てた戦いではなかったさ」
カティは痛む肋骨を叱咤しながら何度か呼吸を繰り返し、首を巡らせて空域がクリアになっていることを確認する。しかし最後はまさかの自爆とは――カティはイスランシオの顔を記憶から呼び起こし、そして首を振った。奴はとっくに死んでいるのだ。もはや生前の奴とは違う。憐憫の情を抱いてやる必要なんてないのだ。
カティはヘルメットを脱いだ。赤い髪が汗で湿って頬に貼り付いていた。
一刻も早くシャワーを浴びて、それからイザベラに会いに行こう。
カティはざっくりと計画を立てると、静謐な青空を見上げて、艦隊全体に向けて通信回線を開いた。
「こちらエウロス飛行隊隊長、カティ・メラルティン。当該空海域の敵戦力の殲滅を確認した。エンプレス1はこれにて戦闘行動を終了する」
『こちらイザベラ・ネーミア』
カティの通信に間髪入れずに反応したのはイザベラだった。イザベラらしからぬ早口に、カティは思わず微笑んでしまう。
『状況について承知した。当方も状況を確認している。エウロス飛行隊は我々に先んじて休んで欲しい、問題ないか?』
「大丈夫だ、そうさせてもらう」
どうせならもっと上手くイザベラを演じないとダメだぞ、と、カティは心の中で指摘した。