それから三日後。
エディタは暗いセイレネスシミュレータの筐体に乗り込むと、大きく息を吐いた。エディタが部屋に着いた時には既に五基のシミュレータが使用中となっていた。招集した全員が既にログインしているのだとわかった。
「ログイン……!」
意を決してシステムにログインすると、視界が急激に明るくなった。白一色の、あの論理空間に意識が移動したのだ。
「待たせた」
円陣を組んで座っている五名のV級歌姫を見つけ、エディタもその中に加わった。左隣にクララがいて、その隣にテレサ。ロラとパトリシアがいて、最後にハンナがいる格好だった。
エディタは指を三本立てた。
「三日。十分な時間だったと思う」
「そうだね」
クララが憔悴したような顔で同意した。
「三日は長すぎる時間だった」
その言葉に、全員が頷く。この場の六名はこの三日間、僅かな時間も心が休まることはなかった。睡眠も取れていない。
イザベラの言葉、そして想い。彼女らはそれぞれに考え抜き、ひたすらに自問し続けた。自分と向き合い続けた。
痛いほどの沈黙の時間が過ぎる。エディタの言葉を待っていた――エディタ自身も。だが、エディタはなかなか踏み出せずにいた。
「エディタ」
クララがエディタの背中に触れる。エディタはクララの黒い瞳を見て、それから高すぎる白い天井を見た。
「わかった」
エディタは視線をクララに向ける。クララは頷いた。
「では、問おう。覚悟を決めた者はいるか」
「私は決めたわ」
真っ先に手を挙げたのはテレサだった。勝ち気な緑の瞳がエディタを見て、それから全員を見回した。
「私はこれまで通りにネーミア提督についていく。私は提督の盾であり続けたい」
「でも、それは」
エディタが思わず身を乗り出す。しかし、その左腕をクララが軽く掴んだ。エディタは目を見開いてクララを見る。二人の目は確かに潤んでいた。
「私はね、エディタ。未来への礎でかまわない。私はネーミア提督を、いえ、グリエール提督を尊敬しているの。幼い頃から憧れていた大切な歌姫だもの。愛していると言ってもいいわ。その大好きな人がああまで苦しんでいる。火を被り、自らを殺しながらも貫こうとしている意志がある。だったら私は、絶対にネーミア提督から、いえ、ヴェーラ・グリエールから離れたりしない」
「反乱軍として記録に残るんだぞ、君の名前が」
「だから?」
テレサの笑みは荒んでいるように見えた。その表情に、エディタは悟る。テレサは全てを理解しているということを。何を言っても決して彼女の意志は揺らがないであろうということを。
「私の名前がどんなふうに歴史に残ろうと、あるいは抹消されようと、そんなことはどうでもいいのよ、エディタ。私は、大切な人の、愛する人のために戦う。それにね、ネーミア提督のあの言葉、あの意志を受け止めていてなお、私があの方に弓を引く立場を選んでしまったとしたら、その後の私の人生に意味なんてなくなってしまうわ」
「でも、テレサ、それは……私たちと戦う立場になるということだ」
「そう。エディタはアーメリング提督につくということね」
「ああ。そうだ」
なし崩し的に白状させられる。エディタの答えは、あの夜に既に決まっていた。
「これは茶番なんだよ、テレサ。命を賭けた、茶番なんだ。こんなこと私は感心しない。死ぬのは私たち歌姫たちだけじゃない。海軍の兵だって大勢死ぬ。減った戦力によって守りきれなくなる人たちだってたくさん出るだろう。こんな茶番劇のために大勢の人が死ぬ。悲しむ。苦しむ。これがなければ泣かなくていい人たちだっているんだ。だから、こんな馬鹿なことをハイそうですかと認めるわけにはいかない」
「エディタは、わからなかったの? ネーミア提督の……ううん、ヴェーラ・グリエールの血を吐くような想いが、わからなかったの?」
「わかったさ!」
エディタは白金の髪にイライラと手をやった。指先が震えている。
「私だって、忸怩たる思いでいる。わかっているさ。こんな国、こんな国民たちを、感謝もされずに守り続ける義務を課せられた苦しみ。わかっているさ。だけどね、だからといって、国家を脅迫するようなことに与することは絶対にできない。そうしてしまったら、それこそ、ヴェーラ・グリエール、そしてレベッカ・アーメリングという二人の偉人が築いてきたものをゼロにしてしまうことになる!」
「でもね、エディタ」
テレサは円陣の中央付近に視線を漂わせる。
「異端審問の振り子はもう落ち始めているの。もはやこの流れを、この茶番劇の開演を止めることはできないのよ」
「だとしても、私は歌姫たちの未来を守りたい! 人々に恐怖を抱かれるような存在にはしたくはないんだよ、テレサ。たとえどんな理不尽な扱いを受けたとしても、だ」
「うん」
クララがエディタの肩を軽く叩いた。そしてその左手に自らの右手を重ねた。
「僕は君の言葉には同意する。想いも一緒だよ。茶番だよ、こんなのは確かに」
クララの言葉に、全員が大なり小なり頷いた。それを確認してから、クララはエディタの美しい顔に触れた。
「でもね、エディタ。僕には、君の言葉は綺麗すぎる」
「君まで……」
エディタは掠れた声を絞り出す。
「君までテレサと一緒に……?」
「うん」
クララは迷いなく頷いた。
「君が何と言ったって、そしてこれが茶番だというのは間違いないけれど、僕は提督の、ヴェーラ・グリエールとしての言葉に共感したんだ。提督が反旗を翻すとおっしゃるのなら、僕たちは喜んでその先鋒を担う。僕らはきっと汚れ役ってことになるだろう。でもね僕は」
クララは小さく鼻をすすった。両目からポロリと涙が流れた。
「ヴェーラを二度も孤独の中で殺してはいけないと思う。絶対に、そんなことはさせない。僕はあの夜にそう決めていた。それに、これからはテレサも一緒だから心強いと思う」
「そんな……」
「エディタ」
クララはエディタの左手を両手で包んだ。エディタの肩は大きく震えていた。
「泣くなよとは言わないよ。泣いてくれて、僕は嬉しい」
「クララ、テレサ、そんな」
「君はそのままでいてよ、エディタ。君には、綺麗なままでいて欲しいんだ」
「クララ、そんなこと言うなよ。ずっと一緒に――」
エディタの声が途切れる。クララの手がエディタの頬に触れていた。
「僕らは遠くない未来に皆死んでしまうと思う。僕も、君も、だ。いずれにせよ。この大一番に生き延びたとしても、摩耗して、摩耗して。だから僕は自分の意志で歌える内に一抜けしたいという気持ちもあるんだ、少なからずね」
「そうね」
テレサがエディタの前にふわりと片膝をつく。
「どちらの提督につくにせよ、私たちは擦り減っていくわ。よほど運が良くない限り、十年、二十年と生き残るのは難しいわ。平和なんてものが本当に存在するとしたら、そしてそれが現実にやってくるのだとすればいいのだけれど、たぶんそれは無理よ。何十年と続いた戦争状態が今々終わるなんて思えない。だから私は決めたのよ。未来のための戦いに、この命を捧げるって」
「私は、君たちを失いたくないんだ……!」
「エディタはこのままでいいの? 国民という名の搾取者の下で奴隷のように歌わされるだけでいいの? そんな未来でいいの? あなたに続く子たちにも、こんな現実を見せてしまって良いというの?」
矢継ぎ早の問いかけに、エディタは唇を噛む。
沈黙を破ったのはパトリシアだった。
「私はテレサ先輩とクララ先輩に同意します。共感せざるを得ない」
「パティ!?」
思わず反応したのは、パトリシアの同期であるロラだった。パトリシアは首を振る。
「ロラ、私はネーミア提督の言葉を理解できたつもりでいる。未来への懸念、疑念、不安、絶望、そういったものを受け止められたと思っているわ。だから」
「あんたさ」
ロラはパトリシアの言葉を強引に遮った。
「あんたは大義のために生きているのかい? 生きてきたのかい? 死ねと言われて死ねるっていうのかい」
馬鹿馬鹿しい、と、ロラは吐き捨てる。
「あたしもね、ネーミア提督の言葉は理解したさ。三日間も考えたんだ。嫌だって理解できる。でもね、そんな不確かな未来を創ることを大義っていわれたって、ちゃんちゃらおかしいよ、あたしには」
「でも、ロラ。今のままだったら!」
「そんな予測は、主観的な未来予報みたいなもんなんだよ、パティ。確定なんかしていない、ただの悲観的な推測に過ぎないとあたしは思っている。クララ先輩やテレサ先輩の大義は理解した。けど、パティ。あんたまでがそんなことに付き合うだなんて、それこそ無駄死にだよ」
「でも!」
「でもでもうるさいな!」
ロラは右の拳を左の手のひらに叩きつけた。
「あたしはね、ネーミア提督の大義なんかよりも、エディタ先輩の大義の方に重みを感じているんだ、きっと。でもね、勘違いして欲しくはないんだけどさ、エディタ先輩。あたしはエディタ先輩の言う大義だか正義だかにも、大した価値を感じちゃいない。国家だ国民だ。そんなもの、あたしの命に比べたら吹けば飛ぶくらいに軽いものさ。――国家国民ごときのために死ねとは言わない。わたしのために死ぬのだ。イザベラ・ネーミア提督が着任して早々に言ったね。まさにそれなんだ」
ロラは立ち上がると、全員を睥睨した。
「あたしたちの大義はあたしたちそれぞれの中にある。誰にも否定できるものでもないし、他人に強制できるものでもない。外野が、自分以外の誰が何と言おうと知ったことか。自分の生き方は自分で決めなきゃならない。他人の大義を見て、それに自分を投影して理解った気になって死ににいく。それをね、あたしは無駄死にだと言うさ」
ロラは胸を反らしてそう言い切った。エディタは黙ってうなずき、クララとテレサは顔を見合わせた。唯一喋っていないハンナは俯いて聴いていた。
パトリシアはゆっくりと立ち上がり、震える膝を両手でおさえた。
「ロラ、私は、やっぱり……あなたと一緒にいたい」
「それがパティ、あんた自身から生まれた大義ってことでいいのかい?」
「ええ」
パトリシアはまっすぐに立った。
「あなたの言葉で目が覚めた。私はできることなら生きて未来を変えたい。その未来を見届けたい」
そして、涙目になってそう訴えた。ロラは「わかった」と頷くと、パトリシアの肩を抱いて共に寄り添って座った。
「ハンナ、君は?」
エディタが尋ねると、ハンナはおどおどとした表情でエディタを見た。
「私は、臆病、ですから。死ぬのが、怖い。だから、少しでも生き延びられる方に付きます。それに私でも守れる子たちがいます」
「ハンナ、守ることもできるが、殺す必要もあるんだぞ」
エディタが静かに言う。ハンナは目を伏せ、唇を強く噛み締めた。
「私はそれでも、死にたくないから。いえ、でも、どちらにしても死ぬかもしれないことは理解しています。でも、私は……ネーミア提督には付けません」
そう、か――エディタは声にならない声で言った。
「なら、これで決まり、なのか」
「ああ、決まりさ」
クララが言った。
「僕とテレサは、ネーミア提督と一緒に行く。提督を……ヴェーラを、今度は一人では逝かせたりしない。部下の何人かは自分の意志で彼女についていったんだって、彼女は決して孤独な人ではなかったんだって、そんなふうに記録して欲しいと思う」
「だから今、笑いながら手を振るよりも、みっともないほど泣き喚きたい」
テレサが「セルフィッシュ・スタンド」の一節を口ずさんだ。それはヴェーラの遺作となった歌だった。
「とは言うけど」
クララがテレサの肩を抱きながら口元を緩めた。
「今は笑いながら手を降ってほしいと思うよ、僕は」
その言葉を聞いて、エディタは目を伏せた。
「お気に召すまま、さ」
――微笑うだけなら。
「エディタ、僕たちのことを忘れないで」
「忘れるものか」
エディタは目の前に立つクララとテレサを見て絞り出すように言った。テレサがエディタの頬に軽く触れた。
「誰が何と言おうと、私たちはこの嘘のつけない空間で、心から言葉を交わし合って、心から理解しあった。全てはその結果。納得なんてできない。けど、理解はしあったはずよ」
「ううっ……」
エディタは両目からボロボロと涙をこぼし、二人を抱きしめた。
「美人が台無しよ」
そう言ったテレサの顔もまた、気丈な彼女らしくもなく、涙で濡れていた。クララも鼻をすすり、袖で涙を拭った。
エディタは子どものようにしゃくりあげながら、「ヴェーラを頼む」と二人をまた強く抱いた。
「僕らじゃ頼りないかもしれないけど、精一杯頑張るよ」
「だからあなたも油断しないで、エディタ。私たち、絶対に手は抜かないから」
テレサはそう言って、エディタの胸を軽く押しやった。
エディタは腕の力を緩め、二人を解放する。
クララとテレサは手を握りあい、他の四人を見回した。
「お別れがいつになるかはわからないけれど、みんな、元気でね」
それが二人と四人との、論理空間での最後の交流だった。