あらあら――。
アトラク=ナクアはレベッカとイザベラのためだけに存在しているはずの論理空間を、闇の中から観測していた。アトラク=ナクアのすぐそばにはツァトゥグァとベルリオーズが泰然として立っていた。
少し離れた場所には、ARMIAが所在無さげに佇んでいる。
振り返ったアトラク=ナクアは、興味深そうにその三人を眺め回した。
「どうするの? このまま見ているの?」
「あなたは?」
アトラク=ナクアの問いかけに、ツァトゥグァが気怠げに応じた。アトラク=ナクアの口角がきゅっと吊り上がる。
「私の出番はまだまだ先。あるとしても、ね。それに」
アトラク=ナクアは誰もいなくなったレベッカたちの論理空間、その白一色の空間に視線を戻す。
「いま、私が関心を持っているのは、新しい時代のディーヴァたち。そして、あの子たちもまた。だから、いいのよ」
「そう?」
ツァトゥグァが冷たい声を発する。
「全てをあの子たちに任せると? あなたは何もするつもりはないと?」
「さぁて?」
その揶揄するような問いかけを往なし、アトラク=ナクアは銀の髪を掻き上げた。キラキラとした粒子が彼女の周りに散る。
ツァトゥグァは氷の瞳でベルリオーズを見遣り、またアトラク=ナクアを鋭く見た。
「あなたの関心はむしろ、この男にあるのでしょう、アトラク=ナクア」
「ふふふ……。あなたにしては珍しく的外れでもないわね」
「ふむ」
それまで沈黙を守っていたベルリオーズが声を発する。
「僕に関心があるというのは事実だとしても、必要以上の干渉は好ましくはないね」
左目を赤く輝かせながら、ベルリオーズは窅然とした風に言った。
「僕としては、こんなことは別にどうなったっていいのさ。ただ、どちらかといえば都合が良いといえば良い。それだけだよ、ディーヴァの交代なんてイベントは、ね。いずれ遅かれ早かれ、こうなっていたのは事実だしね」
「ならばっ!」
ARMIAがベルリオーズに一歩分近付いた。それでも二人の間には十歩分以上の距離がある。かつて寄り添っていた二人には、もはやこれだけの距離がある。
「ならば、創造主、あなたは姉様方を何のために!」
「何のために彼女らを創ったのか、かい?」
「はい」
ARMIAは萎縮していた。それでも唇を噛んで己を奮い立たせる。
ベルリオーズはARMIAに向けてニ歩近付いた。
「僕の計画は、ミスティルテインが手に入らなかった時点ですでに変わっていたんだ。そしてミスティルテインになるべきだった素質者は、図らずもエキドナに変性した。そうなったのが決定的さ。それからは、僕にとって、ヴェーラもレベッカももはや無価値なものに成り下がったのさ」
「無価値な……!?」
ARMIAの暗黒の瞳がベルリオーズを睨む。
「無価値とは! であるならば、なぜ、私に姉様方をサポートさせたのですか」
「なぜ?」
ベルリオーズの左目の輝きが、絢爛たる炎のように揺れる。
「そうだな、そう、うん。マリアは別にどこで投入したってよかったんだ。新世代のディーヴァたちを統率できる立場に収まってくれさえすれば、ね」
「ならば!」
ARMIAの両目から涙が流れ落ちる。
「ならばなぜ! 私に姉様方への思慕を植え付けたのですか! それならば、そんな感情は要らなかった!」
「その方が僕にとって都合が良かったからだよ、マリア。それとも今からでもその想いを消し去ろうか」
「それは……」
ARMIAは拳を握りしめる。その両手がぶるぶると震えていた。
「それは、イヤです」
「なら僕に感謝するといい」
ベルリオーズの傲然とした言葉に、ARMIAは項垂れる。
「あらあら」
アトラク=ナクアの姿がいつの間にかARMIAの隣に移動していた。
「こんな仕打ちを受けながらも、創造主への忠誠を捨て去ることはできない。絶対的な被支配者。哀れな人形。そして全ての歌姫の鋳型。哀しいというのはこういうことかしら」
アトラク=ナクアの唇がARMIAの耳に近付く。ARMIAは硬直して動けない。アトラク=ナクアは愉快そうに唇を笑みの形に変え、そしてベルリオーズに顔を向けた。
「絶対的な支配者、その椅子の座り心地はどうかしら?」
「そんなことはどうだっていいことさ」
ベルリオーズは冷たく笑う。
「僕はただ、この世界の様態を変えたいだけなんだよ、アトラク=ナクア」
「うふふふ、様態、ね」
銀の悪魔はその髪を揺らして笑った。
「斯く在るべし、斯く在るべき、而して斯様になりぬ――」
「そのさますら、君は君の予想通りだと言うわけだ。なるほど、悪魔的だね」
ベルリオーズは笑いながら言う。ツァトゥグァが腕を組む。
「でもね、あなたたちのその行為そのものすら、あたしの埒内のことと言えるのよ」
「なるほど、君たちは悪魔だ」
ベルリオーズはわざとらしい所作で手を叩いた。
「ならば僕を後ろから墓穴に放り込むことくらい、簡単なことだろうさ」
「そんなことは、私がさせません」
ARMIAが暗黒の瞳をぎらつかせる。そんなARMIAを見て、アトラク=ナクアは穏やかな表情にことさら分かりやすく侮蔑を貼り付けて見せる。
「哀れな人形ね。あなたの想いとは無関係に、あなたはこの男を守り続ける……。もっとも、人形風情に私たちが止められるとは到底思えないけれど」
「なに……!」
「やめておきなよ、ARMIA」
ベルリオーズがさほど感情のこもっていない声で呼びかける。
「この二柱はね、僕らが戦えるような手合じゃないんだ」
「わかっています、しかし――」
「無駄な戦いに、意味なんてないのさ。たとえどんな信念理念があろうともね」
無駄な――ARMIAの表情が強張る。
「そう、無駄な、さ。世界が揚棄されると信じて、己の行動に義を見ようとする。信念を確信して、剣を抜き放つ。いずれも愚かなことなんだよ、ARMIA」
「それは、姉様方の……ッ!」
「君はどう考えているんだい、マリア」
「私は……」
マリアは言葉に詰まる。
「君もまた、あの子たちの行動は結果として人々を変えるのだと考えているのかい?」
「そうなる人もいると信じています」
「ははっ!」
ベルリオーズは短く笑う。
「そうなる人はそうなる前からそうなのさ。そして人々は変わらない。一部が変わろうとも、それは人類というスケールでみれば大河の一滴。それがどれほどまでに美しかろうが、何の意味もない」
「そんなふうに言わないでください」
「僕は現実を述べているに過ぎない。人々はこれからも争い続ける。歌姫を生み、代理戦争を担わせ、死なせていくだろう」
「それは、歌姫計画の……あなたの生み出した計画だからでは!」
「ちがうよ」
ベルリオーズは消えていく白い論理空間を見て目を細める。
周囲は闇に閉ざされていく。
「僕が計画を創ったから人々がそうなったわけじゃない。人々がそうだから、僕は計画を創った」
「それは」
「詭弁ではないさ、現実さ」
ベルリオーズの言葉がマリアを拘束する。
「君は、これからどう生きるつもりなのかな、マリア?」
詰問の口調に、マリアは唾を飲む。
「わ、私は……姉様方の想いを、マリオンたちに伝え続けます」
「ふぅん」
ベルリオーズは笑みを見せる。
「君が彼女らに貢献し続ける限り、君もまた進み続ける。君の想いを踏みにじるように。それが君へのアンチテーゼ、それが君だからね。君が諦めない限り、世界はますます残酷になるだろう」
その宣告に、マリアはよろめく。
「なぜ、そのような……」
「人類を進化させるためだよ」
「あなたにはそれができると」
「ああ」
こともなげに肯定するベルリオーズ。ARMIAは険しい表情を崩さない。
「それは、この悪魔どもがついているから、ですか」
「そうだね、それは否定しない」
「ジークフリートの鍵を握っているから、ですか」
「そうだね、それも否定いしない」
「しかし! 私は!」
「ヴェーラたちの想いは無駄にならないと信じている。かな」
機先を制され、ARMIAは唇を噛む。
「そう思うのなら、そうなるのかもしれないね。君の中では、ね」
闇が全員の姿を塗りつぶした。