カティは講義室の前の方で講義のサマライズをしているヴェーラとレベッカに視線を送りつつ、携帯端末で空軍配信の動画を眺めていた。今日更新されたばかりのものだったが、実際のところは五年前に作られた動画の焼き直しだった。
「四風飛行隊、か」
四風飛行隊というのは、ヤーグベルテの誇る最強の機動部隊の総称である。エウロス、ボレアス、ノトス、ゼピュロスの四部隊で構成されている。専守防衛を掲げるヤーグベルテ中央連盟は、敵国――とりわけアーシュオン共和国連合にいつどこを侵略されるかがわからず、そのため超高速に邀撃展開を行える部隊を必要とした。それゆえにヤーグベルテは空軍戦力の拡充を急ぎ、そして最も充実していた。国防費、その中でも特に空軍予算は毎年うなぎのぼりに増加していっている。
敵、か――カティは小さく息を吐く。
数年前にホメロス社という軍事企業がヤーグベルテ中央政府に対し、二ダースもの攻撃型空母を提供することを決め、つい先日、全十三個艦隊への配備が終わったところでもある。それに伴い、現在は全艦隊を空母機動部隊として再編成しているところである。
第七艦隊の新型空母――。カティは少し携帯端末に顔を近付ける。第七艦隊といえば、ヤーグベルテに知らぬ者無しと言われる程の人物、「潜水艦キラー」リチャード・クロフォード中佐の所属する艦隊だ。アーシュオンは潜水艦艦隊による奇襲攻撃を得意としていたが、クロフォード中佐は士官候補生時代からそこに目をつけて徹底的に戦術および対潜兵器を研究した。結果として、アーシュオンにとっては最も恐るべき将校として知られる事となった。クロフォード中佐の分艦隊の指揮によって撃沈されたアーシュオンの潜水艦及び潜水空母は百隻にも上る。
まだ終わらないのかなぁ――カティはまた講義室の前の方に視線を飛ばす。ヴェーラとレベッカが周囲の女子たちにあれこれと言葉を投げかけている。
カティは頬杖をつきながら動画に視線を戻す。
動画は四風飛行隊に配備され始めた新型戦闘機の紹介に移っていた。F108・パエトーン。正確なスペックは未だ公開されていないが、カタログスペックから判断するに、現主力戦闘機であるF106・シルフィードやF107・タイタンを完全に過去のものとするに相応しい戦闘機だった。アーシュオンのF/A201・フェブリスはもちろん、新型機FAF221・カルデアを相手にしても圧倒できるだろう。
本でも読むか。
カティは動画を止めて、借りてきたばかりの書籍をカバンから取り出す。先月発売されたばかりの本で、珍しく紙媒体も同時発売だったので興味があったものだった。
表紙をめくり、目次を通過すると、詩の一節が書かれていた。
――女神よ、怒りを歌いたまえ。
イリアスね。
カティは呟くとゆっくりとページを捲っていく。超古代の叙事詩をベースにした恋愛小説だということは知っていた。
いつしか夢中になって読んでいたカティは、講義室の暖房が切れた音で我に返る。窓の外から差し込む光はすっかり金色になっていた。防弾ガラスの向こうに見える中庭の木々はすっかり葉を落としている。
「カティ、おまたせ、だよ!」
その声に視線を上げると、ヴェーラとレベッカがカティの方へと向かってきていた。女子たちの姿はもうすっかりなくなっていた。
「別に待ってないさ」
カティは本を少し掲げて見せてからカバンにしまう。立ち上がるとすかさずヴェーラとレベッカに両腕をホールドされる。
「おいおい」
カティは苦笑する。ヴェーラもレベッカも同じような、優しい表情をしていた。それがカティの胸に刺さる。十年前のあの日以来、こんな柔らかな表情を向けてもらったことなど記憶になかったからだ。
十年前――思い出したくもない、あの記憶。断片的に残る絶叫、発砲音、肉の裂ける音、血の色、内臓の匂い。気がつけば美しい金髪の女の人――兵士に抱き締められていた。でも、そこから先の記憶は殆どない。何年も言葉も失っていた。そこから立ち直れたのは――なぜだろう。わからない。
カティは首を振る。
「カティ、楽しいこと考えようよ」
ヴェーラはそう言ってカティの右腕を抱きしめる。カティを見上げるその表情は……今にも泣き出しそうだった。
「お前たちは、どうしてアタシなんかに」
「カティなんかじゃないよ。カティだからだよ」
ヴェーラはそう言って目を伏せる。カティはその頭頂部を見下ろして戸惑う。レベッカが左から言う。
「カティさんはたぶん、特別なんです」
「特別?」
「運命的な出会いというものを信じるかどうかはわからないですけど、ヴェーラと私は、カティさんにそれを感じました」
「運命――か」
昨日、一目惚れって言ってたっけ――とカティは思い出す。
「でも、アタシには何もない」
「それはね、カティ」
ヴェーラがひらりと前に出る。
「わたしたちが決めることだよ」
「でも」
「カティさんの価値を決めるのは……少なくともカティさんじゃない」
レベッカも前に出て、ヴェーラとともにカティの進路を塞ぐような形になる。
「アタシは、でも」
「始めようよ、カティ。わたしたちの物語」
「アタシたちの?」
カティは面食らったように目を見開く。ヴェーラとレベッカは顔を見合わせて頷き合う。
「アタシの物語なんて――」
――十年前に終わったんだよ。カティの眉間に知らず力が入る。
「違う、違う、ちーがーうー」
ヴェーラは大袈裟に首を振る。
「わたしたちの物語、だよ」
「カティさん、ヴェーラちょっと距離感おかしいから、嫌ならそう――」
「そんなことはないが、慣れてなくて」
カティはそう言ってまた歩き始める。ヴェーラとレベッカがまたカティの両腕に取り付いた。
「アタシは……」
カティは十年前の事を喋ろうかと思った。しかし、言葉が出てこない。言葉を忘れてしまったかのように、何の単語も出てこない。
「カティ」
ヴェーラがそっと囁きかける。
「わたしたちの前では、頑張らなくていいんだよ」
「……ばか」
カティは唇を噛んで首を振った。