カティたちの警戒心が氷解するのには、三日とかからなかった。カティに至っては、兄をさしおいて一人で様子を見に行くことさえあった。その頃には、ヴァシリーはカティにとっては「いい人」であり、敵国人であるということすら忘れていた。ヴァシリーの語る異国の情報は物珍しく、ネットなどでは知り得ないようなことも多かった。そしてヴァシリーは話術が巧みだった。未だ八歳の少女が好奇心に完全に敗北したとしても、誰にも責められたことではなかった。
ヴァシリーによれば、あと一週間もすれば救出部隊がやってくるということだった。通信手段の一つも持たないヴァシリーが、なぜそんな事を知っているのか――という疑問は、カティには抱けなかった。
出会ってから五日目の夕方、太陽がほとんど西の山陰に姿を隠してしまった頃合いに、カティは一人、うきうきとした足取りでヴァシリーの隠れ家に向かっていた。つい二時間ばかり前に、アーシュオン製の缶詰を大量に見つけたからだ。そこには見たこともない種類のものもあって、「きっとヴァシリーは喜ぶだろう」という幼い期待を持って、カティは隠れ家のドアを開けた。この時間にこの建物を訪れたのは初めてだった。灯りをつけると村の人に見つかるから、夜は真っ暗だよと聞いていたのを思い出す。
周囲は空き家や物置しか無いから、実際に周囲は真っ暗だった。幸いにして満月が煌々と照っており、足元が見えないようなことはない。しかし、その建物内部の暗さを目の当たりにして、幼いカティは確かに恐怖のようなものを覚えた。どこから何が出てくるか分からない。物陰に何かいるかも知れない。
なんで一人で来ちゃったんだろう――カティは缶詰を満載したカバンを抱えながら、小さく震える。ここで泣いても叫んでも、村の誰にも届かない。涙を引っ込めると、カバンを足元に置いた。
「かえろ……」
ヴァシリーはどこ行っちゃったんだろう?
カティは来た道を引き返しながら、恐る恐る近くの物置や倒壊寸前の空き家に視線を送る。西の空の陽光の残滓はすっかり夜空に駆逐されてしまった。満月がなければこの海岸線を歩くのもままならなかった。カティは慎重に歩を進める。
「カティ」
「ひっ!」
突然後ろから名前を呼ばれて、カティは文字通り跳び上がった。
「ごめんごめん、脅かすつもりはなかったんだよ」
「もう!」
カティは勢いよく振り返り、ヴァシリーを睨みつけた。ヴァシリーは右手をひらひらさせつつ、左手でカティが置いてきたカバンを掲げた。
「さっきまで釣りしててさ。ちょっと遅くなったんだ」
「そ、そうなんだ」
「釣れなかったけどね」
ヴァシリーはおどけたように言い、缶詰の礼を言う。カティは「うん」と微妙な相槌を打つ。
「ところでカティ」
村の方に向かって歩きながら、ヴァシリーは言う。カティはヴァシリーを見上げる。
「村を出たいとは思わないのかい?」
「なんで?」
「君だってこの世界が広いことは知っているだろう? こんな辺鄙な村で一生過ごすわけじゃないだろ」
「みんな一緒ならいいけど、一人はイヤ」
カティは紺色の瞳に満月を反射させながら言った。ヴァシリーは少し困ったような表情をして、「そっかぁ」と頬を引っ掻く。
「さて、これ以上行ったら面倒になりそうだな」
「うん、ありがとう」
潮騒を聞きながら、カティは手を振って数歩進む。
「あ、ヴァシリー」
あれ?
振り返ったところにはもう誰もいない。開けた海岸線だ。隠れるような場所もない。
「ヴァシリー?」
闇が濃くなった。満月が雲に飲まれていく。規則的な波の音がそぞろ大きくなってくる。湿った砂に捕まって、足が上げられない。この海岸は庭のようなものだ。家族で花火をしたこともある。怖いはずのない場所だ。それにも関わらず、カティは胸の奥が冷たくなるほどの恐怖を覚えていた。
「お、お兄ちゃん……」
震える声を絞り出すが、とてもじゃないが村には届かない。
どうしようどうしよう。
カティは奥歯を噛み締めながら、足に力を入れる。ずぶずぶと砂に足が食われていく。
「カティ!」
カティの兄が、懐中電灯を振り回してやってきた。
「お兄ちゃん!」
ようやく足が動くようになる。カティは派手に転びながらも、兄のところへ辿り着く。
「何時だと思ってるんだ! ヴァシリーのこと、バレちゃうぞ!」
「ごめん」
カティは震える声で謝る。兄は驚いたような顔をして、カティの赤毛を撫でた。
「怪我とかないな?」
「うん、さっき転んだ時擦りむいただけ」
「ならよし」
兄はそう言ってカティの手を引いて歩きはじめる。
幼い二人の背中を見ているものがあった。誰にも観測することのできない、銀の視線。名状し難いその視線は、興味深げに二人、いや、カティを見ていた。
幕を上げよ――銀が命じる。
さて、あの子はこの舞台をどう演じるのかしら?
アドリブだらけの大舞台。私の用意したステージで、あの子は、そしてあの子たちは、どう歌い踊るのかしら?
銀は揺らぐ。笑っているかのように。