嘘だろッ!
カティは叫ぼうとした。しかし、胸が苦しくて声が出せない。息を吐き出す一切の行為ができなかった。鮮烈に赤い液体がカティの目の前に拡がっていた。刻一刻とその面積が大きくなっていく。
格納庫に飛び込むその直前に、ヨーンが撃たれたのだ。ほとんどちぎれてしまっている右足から、バシャバシャと音を立てるが如くに血液が流れ出していた。カティにもそれが致命傷だということは判別できた。しかし、カティの脳はその情報を受け入れることを拒否していた。壁にもたれかかったまま、ヨーンは呻く。
「しくじったなぁ」
「喋るな!」
カティは自分の制服を肩から破り割いて、そこで手を止める。傷口を縛る行為が今さら無意味なことを、理性が認知したからだ。ヨーンの顔はすでに蒼白で、唇も紫色に変わっていた。
「血を、血を止めないと……血を……」
「カティ」
ヨーンは震える声で呼びかける。
「僕は、助からない」
「嘘言うな! 嘘だ。そんなの嘘だ!」
カティは首を振る。しかしヨーンはゆっくりと首を振る。その目も半分閉じていた。
「まいったなぁ」
ヨーンは譫言のように言う。
「君と、もっと一緒にいたかった。せっかく――」
「ヨーン! 死ぬな! 諦めるな! 死なせないからッ!」
カティはヨーンを抱きしめる。カティの制服が血液に重たく染まる。その重さ、その冷たさが、迫るヨーンの最期を嫌でも知らせてくる。
「キス……していい?」
ヨーンが言うなり、カティは唇を重ねた。体温を分け与えようとするかのように、カティはヨーンと唇を重ね合わせた。しかし、ヨーンの冷たい唇はちっとも温まらない。
「ヨーン……! ヨーンッ!」
嗚咽するカティの肩に、ヨーンは手を置いた。
「イクシオンが待ってる。行って、カティ」
「置いていけない!」
カティは駄々をこねる。ヨーンは困ったような笑みを見せて、ゆっくりと息を吐く。
「この期に及んでね、僕は、時間がほしい――そう願う」
「ヨーン、喋ったら」
命が消えてしまう。どうしたらいい。どうしたらアタシは。もう失いたくないのに。誰にも死んでほしくないのに! どうして!?
こんなのあの時と同じじゃないか。みんなが殺されるのをただ見ていることしか出来なかったアタシと。無力で、何もできないアタシと。何も変わってない。何も成長してない。何も――。
パニックに陥るカティの頬に、ヨーンの手が触れる。カティの頬に血の痕がついた。
「冥王星の話、覚えてる?」
「……忘れるはずがない」
カティは震える声で応じる。両目から涙が溢れて止められない。
「あの星は月よりも小さいんだ。でも、大きな、一方的な力には屈しなかった」
ヨーンは薄暗いはずの格納庫を眩しく感じていた。うっすら見える赤毛の女性が、震えながら泣いている。ヨーンを抱きしめているその手を感じることはもうできなかった。でも、そこから確かに、なにかの力が流れ込んできていた。さもなくばヨーンはとっくに息絶えていただろう。
カティ、君と一緒に生きたかった。
ヨーンはそう思い、また息を吐く。肺の中の酸素がほとんどなくなっていた。吸い込むことすらままならない。
「彼は、ほんのちっぽけな光でしかない太陽を奪われまいとして、脅威だった海王星との間に軌道共鳴の関係を取り付けた。そして彼は、自分の居場所をね――」
――確保したんだ。
もう声が出ない、か。ヨーンは懸命の努力で微笑を作る。カティの顔はもう見えない。赤い髪の毛だけが、視界の中で揺れている。
「ヨーン! ヨーン! 置いていかないで! いやだ! お願いだ!」
カティの声が聞こえる。頬に手を当ててくれている。
ヨーンの顔にほんのわずかに生気が戻る。
「行くんだ」
ヨーンは両目に力を入れる。カティの顔が一瞬だけ見えた。鮮明に。よかった――ヨーンはぼんやりとそう思った。カティの涙に濡れた顔は、ヨーンにはあまりにも眩しく、美しかった。
「僕は、君と一緒だ。いつ、でも」
ヨーンは目を閉じ、ゆっくりと息を吐く。吐息の最後の一欠片が空気に溶けてしまうその直前に、ヨーンは口を動かした。
僕の代わりに、空を飛んで――と。
カティの声がふわふわと頭の中で響く。意味はもう理解できなかった。心残りがないとは到底言えない人生だ。ヨーンの意識の中でカティとの思い出がぐるぐると回り出す。脈絡なく次々と現れる映像や言葉は、ヨーンにとってどれもがかけがえのないものだった。
カティ。君の中に、少しだけ居場所をもらうよ。
そして、ヨーンの意識が、光に溶けた。
「ヨーン!」
カティの絶叫はもう、ヨーンには届かなかった。