痙攣する横隔膜を押さえつけ、カティは操縦桿を握りしめる。奥歯が欠けてしまいそうだった。しかしそうでもしなければ、泣き叫んでしまいそうだった。しかし涙までは止められない。視界が歪む。格納庫内の明かりを反射して、眩しかった。
そんな状態にあっても、カティは半ば自動的にコックピット内のセッティングを行っていた。初めての実機だったが、日常の訓練が功を奏した。難しいことは何もなかった。ヘルメットはない。パイロットスーツもない。激しい機動は命に関わる。だけど、どうすることもできない。やれることをやるしかない。
機体の起動を検知して、格納庫の扉が開く。F102でも、短距離滑走で飛べるはずだ。滑走路の長さは十分ある。
飛び上がりさえすれば、あとはどうにでもなる。いくら化け物であったとしても、F102の20mm機関砲を喰らえばただでは済まされまい。最低限足止めにはなる。隣の基地に逃げ――。
視界の端に赤い海が見えた。その端にヨーンが眠っていた。
「逃げられない」
カティは唇を噛む。逃げない。アタシは、逃げない。
機体が屋外に出る。サーチライトが機体を照らす。機体が加速する。88mm砲弾が襲ってくる。
「舞え!」
カティは操縦桿を限界まで引き絞った。ふわりと機体が浮かぶ。ペダルを踏み込む。加速する。不安定な立ち上がりだった。かすめていく88mm砲弾の暴風に撃たれて荒れた海に浮かぶ小さなボートのように翻弄される。だが、当たらない。当たるわけにはいかない。
翼の保持する夜の大気は、あまりにも頼りない。少しずつ、少しずつ、機体が加速する。上に、上に、舞い上がる。
「まどろっこしい!」
カティはコンソールを呼び出して、ディスプレイを見もせずに何事かを打ち込み始める。
「教習用のリミッターなんて!」
こんなもの!
カティはそれらを次々と解除していく。88mm砲弾の精度が下がってきた。もとよりあれは対空火器ではない。今のカティは安全地帯にいると言えた。高度五千へと駆け上がる。F102は老朽機だが、まだ飛べる。戦える――。
夜風を掴み、蹴り上げる。
「ディスプレイON!」
カティが命じるとキャノピーいっぱいに情報が映し出された。カティはその殆どを消去し、機体基本情報と照準円だけを残す。そして宙返りし、高度を下げる。士官学校めがけて一直線に。
「能動暗視システム展開! 動体目標捕捉開始!」
その声に反応して、すっかり暗黒に落ちた士官学校が薄緑色に照らし出された。屋上に重機関銃三門と人影が見える。あいつらだ。間違いない。寮の屋上には88mm砲があった。寮も制圧されたのか。
カティは急降下しながら、寮の屋上に機関砲を叩き込んだ。応射がキャノピーを掠めたが、カティは怯まなかった。重機関銃が相次いで火を噴いた。12.7mmのHVAPがF102を傷付けていく。だが、距離がある。こんなものでは致命弾にはならない。
「耐弾ジェル展開」
ジェルの搭載量は少ないが、無いよりマシだ。曳光弾が降り注ぐ中で、カティの機体がコーティングされていく。燃料は十分ある。ありがたい。カティは再び上昇し校舎を一端飛び越えて離脱する。逃げるなら今だ。隣の空軍基地に逃げれば、生き残れる。
いや。
逃げない。
絶対に逃げない。
カティは唇を噛みしめると、大きく右に旋回した。低速旋回。期せずしてF102の得意技だ。この機体の低空加速性と安定性は、最新鋭機にも真似できない。重機関銃が無数の弾丸を送り込んでくる。数発が命中したが、まだ致命弾ではない。
「お前が、ヨーンを撃ったんだな!」
カティの紺色の双眸が燃える。キャノピーに投影されている映像をなぞり、三門の重機関銃をロックオンする。右にロール。ナイフエッジ。水平線が垂直位置。右半身に強い重力を感じる。どす黒い煙を吐き出している校舎が、倒れている。ターゲット、有効射程。カティはその瞬間に機体搭載のプログラムを走らせる。敵の電子照準を狂わせる、一種のジャミングだ。
三門の重機関銃を相手に、真正面から突っ込むなど自殺行為だ。だが、カティはだからこそそれを決行する。
カティは機体を倒したまま、20mm機関砲を撃ち放った。そして機首を上げて、弾道で屋上を切り裂いていく。重機関銃はことごとく粉砕された。あの甲冑兵士は死なないかもしれない。だが、機関銃は直るまい。窓から7.62mmの弾丸が飛んでくる。致命弾にはならない。だが、これ以上の被弾は避けたかった。
一度、空に逃げる。視界の端にいやに明るい滑走路が映る。
空は晴れている。嫌味なほど。しかし月はどこにもなかった。星はぼんやりとしていた。白いリゲル。赤いベテルギウス。曖昧な空の中にあって、オリオンのその二つの星は、突き刺さるほどに眩しかった。
対空砲火はもうない。天地逆転で滑走路を見る。
「あれは……!」
ゴマ粒のように見えるその人物。カティの視力でなければ見逃していたかもしれない。だが、カティにはそれが誰なのか、はっきりとわかった。
「ヴァシイリィィィィィィッ!」
カティは叫ぶ。機体をまっすぐに突き落とす。
機関砲弾の雨がヴァシリーを撃つ。滑走路が無数の弾痕で抉られた。
ヴァシリーが近づく。機体が危険を知らせる。カティはトリガーを引き続ける。
ヴァシリーが砕ける。文字通り粉砕される。しかし、次の瞬間には再生していた。
何が起きているかわからない。わからないが、カティは攻撃を続けた。
ヴァシリーが拳銃を放つ。右の翼に穴が空いた。
カティは地面スレスレで機体を立て直して、ベテルギウスを目指した。
突然機体が揺れた。非手の対空砲火が上がってきた。今度は本物の対空砲のようだった。ロックオンアラートが鳴り響く。
「クソッ!」
命中したらおしまいだ。うるさい! うるさい!
カティはロックオンアラートを意識の外に追い出し、飛ぶ。ベテルギウスが燃えている。オリオン座が視界いっぱいに広がった。
不意に、ロックオンアラートが沈黙した。一斉に、黙った。
「ッ!?」
背後を伺ったカティは見る。士官学校を中心に、薄緑色の輝きが放たれたのを。優しくも、強烈な光だった。
それは衝撃波のように同心円状に広がっていく。地上に見えていた動体反応がなくなっていく。消えていく。ヴァシリーの姿も見えなくなっていた。
どういうことだ――?
何が――?
一瞬ぼんやりとしたカティだったが、すぐに我に返る。
接敵警報が、コックピット内に鳴り響いたからだ。