死ぬかな――それは一種の淡い期待だったのかもしれない。
そう感じたその瞬間、それまでずっとヴェーラの心を侵していた鋭い漣の群れは、完全に動きを止めた。明鏡止水、風も波紋もない。ただ静かに空を映す水面。一秒の何分の一かの間に過ぎなかったが、ヴェーラは何年ぶりかというほどの安寧を覚えたのだ。確かに。
こんな終わり方もまぁ、いいかな?
ヴェーラはレベッカの手を握っていた。レベッカは強く、痛いほどの力で握り返してくる。視界の端のマリアは、恐怖も何も見せていない。ただ静かにヴェーラを見つめている。その視線は少し痛いとヴェーラは感じた。ハーディは果敢にもその狙撃銃を撃ち続けている。一体何に向かって射撃しているのかとヴェーラは訝しんだが、ハーディの横顔に迷いは見られなかった。
「よし」
ハーディは最後の一発を撃つと同時に、満足げに頷いた。無意識にマガジンを外し、新たなものに付け替え、コッキングレバーを引くところまでは一つの連続動作だ。
ミサイルとヘリとの距離はたったの十数メートルだった。そこで対空ミサイルは炸裂した。ヘリは爆風に大きく煽られはしたものの、幸いにして物理的ダメージはほとんど負わなかった。すぐに体勢を立て直すと、機首を返して基地までの針路を取る。
「おわった?」
ヴェーラは幾分落胆を込めて尋ねる。地上ではまだ騒ぎは続いていたが、その殆どは陸軍や海兵隊によって鎮圧されているようだった。無関係な人に死者が出ないことを祈りたいけど――ヴェーラは唇を噛む。
「ひとまずは」
ハーディは狙撃銃を機内に格納して、機械的に狙撃銃を点検している。マリアは憮然とした表情を浮かべて、煙を上げ始めているステージに視線を飛ばす。
「まったく、これほどの規模での襲撃を許すとは。大至急、被害状況をレポートしてください」
「すでにレーマン少佐が動いています」
「わかりました。それで、襲撃者の身元の検討は? あなたがここまで早く動いたということは、何らか見当がついていたのでは」
マリアの追求に、ハーディはあっさりと頷いた。
「おそらく、ASA、反歌姫連盟と呼ばれる不特定多数の集団によるテロであろうと」
「ASA? 不特定多数?」
ヴェーラとレベッカが同時に聞き返す。二人には聞き覚えのない単語だった。ハーディはまた頷く。
「まだ具体的な情報は収集できていないのですが、ヤーグベルテのみならず、同盟国エル・マークヴェリア。そしてアーシュオンにさえ存在が確認されています。今回の騒ぎを見るに豊富な資金力を持っていると思われますが、後ろ盾は不明。しかもそのうえ、組織として統率された集団ではないようです」
「ど、どういう意味?」
意味が理解できず、ヴェーラは眉根を寄せた。ハーディが答えるより先に、マリアが暗黒の瞳を光らせながら、短く言った。
「個々が勝手に励起する」
「個々が?」
「そうです、ヴェーラ姉様。劇場型犯罪に似ているとも言えます。ですよね、ハーディ中佐」
「はい」
ハーディはようやく戦闘モードを解除して頷いた。
「テロ未遂事件自体は今までも数件起きていました。ですが、取り調べでも証言は明らかに食い違っていて、どうにも辻褄が合わない。ある者は神の啓示だと言い張り、ある者は義憤に駆られた、ある者は歌姫を真に解放する必要がある、ある者はテロを実行すれば来世が保証される――」
どういうことだろう? ヴェーラはレベッカと顔を見合わせる。レベッカは眼鏡の位置を直しつつ、マリアの方に視線を動かした。
「マリアも知っていたの?」
「報告書で断片的には」
「そうなんですね。彼らの間に共通点はないんですか?」
「報告書を見る限りでは、ありませんね」
マリアは鋭い声音で応じる。
「共通の誰かが浮かび上がることもなく、共通の情報源にアクセスしたという痕跡もない。共通しているといえば、被疑者のその全ての証言が無根拠な妄執にしか聞こえないということくらいでしょうか。そして彼らは決して主張を変えない。ハーディ中佐、補足情報はありますか?」
「いえ、今のところは」
ハーディは狙撃銃を分解して格納しながら首を振る。
「そういった思想や理念が定まらず、共通項も有していない。しかし明らかに歌姫というワードに対して異常な敵対的行動を起こす人々を総括して、我々はASAと呼ぶことにしました。もっとも、この事実については我々からは一切公開するつもりはありませんが」
「でも、だとしたら」
レベッカがマリアとハーディを順に見た。レベッカらしからぬ鋭利な目だった。
「さっきのあの組織的行動は何? 思想も理念も、共通項もなければ同じ組織でもない人たちが一斉に? あの武器は? 誰かが手引でもしていなければ、この厳重警備な会場にあんなものを持ち込めるとは思えませんし」
「それもひっくるめてのASAなんじゃない?」
ヴェーラが腕を組みながら言った。
「わたしの勝手な予想なんだけど、彼らの行動のトリガーはたぶん、セイレネスの発動だよ」
「発動? でも……」
「さっきだって、ライヴ開始前からずっと戦闘中の音源を流していたでしょ? 発動中にわたしたちが聞いているアレをさ」
「確かに、私たちの歌はライヴでなくても」
「でしょ。だからあのBGMにしていた音源が、ASAの素質のある人間の脳の一部に作用した。あるいは、作用していた。武器の運搬や隠蔽なんかは、長期間その影響下にあったスタッフがやったんだと思うよ。さっきハーディが一網打尽にスナイプしてた人たちがさ」
「だとしたらやっぱり組織と言えるのではない?」
「そうとも言えるし、そうとは言えないとも言える。わたしの見解的には、実態のない情報の集合体がASAのコアなんじゃないかなって」
「まさか」
どこぞのサイエンス・フィクションじゃあるまいし。レベッカは笑おうとしたが、ヴェーラの真剣な表情を見てやめる。ヴェーラはレベッカの手を握り直して、窓の外に視線を移す。
「情報の集合体、その最たるもの。それはジークフリートだ。世界中に張り巡らされた神経のようなものなんだ、あれは。あれを利用していないシステムもなければ、あれに依存していない人もいない。あらゆる情報は散在しているようで、その実、全てはジークフリートのネットワーク構造によってハード、ソフト、そして人間が統合されている。わたしたち、そしてASAの人たち、それら全てもまた、ジークフリートのモジュールの一つに過ぎないんだよね」
ヴェーラはほとんど一息でそう言い、腕を組み直した。
「そしてわたしたちのセイレネスは、人の脳に作用する力がある。これはもう事実だ。つまりわたしたちのいる此岸側、いわゆる物理層と、ジークフリートの支配している彼岸側、つまり論理層。その二つの層を橋渡しすることができるんだ、セイレネスは」
――多分だけど、セイレネスっていうのは、ジークフリートが私たちにアクセスするためのゲートウェイなんじゃないかなって思うの。プロトコルの違う世界をつなげるための装置というか。
もう十数年も以前の話になるが、レベッカがそんなことを言っていたのを思い出す。ASAの情報の精度が高いものであるとしたなら、その当時のレベッカの予測は、ほとんどドンピシャで当たっていたことになる。
「でも、ちょっと待って、ヴェーラ」
その時、レベッカも同じやり取りを思い出していた。
「でもだとしたら、どうして彼らは私たちを殺そうとなんてするの? アクションの方向性を間違うなんて、それじゃシステムとして重大な欠陥品じゃない」
「そう、だね」
ヴェーラは頬に手をやって、一瞬だけ発話を躊躇した。
「思い当たるフシは、なくもないんだ」
そして、溜息とともにそう言った。