十九時ちょうどに始まった特別講座には、案の定メラルティン大佐は現れなかった。会場のセイレネス・シミュレータルームに姿を見せたのは、エウロス一の優男と呼ばれる――と、アルマが教えてくれた――エリオット中佐だった。ナルキッソス1ことエリオット中佐は、ジギタリス1ことマクラレン中佐と並ぶ、エウロスの超エースだった。確か、鬼神エリオットと呼ばれていたはずだ。
なるほど優男だ、と、私は思った。年齢は四十代前半ということだが、とてもそうは見えない。金髪碧眼に甘いマスク。長身にしてスレンダー。しかも独身。浮いた話もそこら中にあるということだったが、それも納得だ。本人もいちいち否定しないらしい。
私がフリーだったら、もしかしたらエリオット中佐にクラっときた……いや、ないかな? ちょっとよくわからない。そもそも人を好きになったのはレオンが初めてで、今は彼女以外には考えられない。
「さて! さっそく、各自シミュレータに乗ってくれ。戦場設定は単純。ブルクハルト中佐、頼んます」
開口一番そんな事を言うものだから、私たちは一様にざわめいた。エリオット中佐は「遠慮すんな、早く乗れ」と私たちを追い立てる。ちなみにブルクハルト中佐は国内で最もセイレネスに通じた技術将校だって言われている。ヴェーラ、レベッカが士官学校にやって来た時からずっとセイレネス一本でやってきていることもあり、私たち歌姫たちが最も信頼する人物の一人でもあった。
「S級のお嬢ちゃんたちも早く」
セイレネス・シミュレータは黒い匣だ。私とアルマのはかなり巨大で、縦横がダブルベッドぐらい、高さが部屋の天井までだから、三メートル以上はあった。V級であるレオンのはそれよりやや小ぶりで、全体的に私たちのものの七割くらいのサイズ感だった。C級たちのものは簡易ベッドに薄い壁がついたくらいのサイズだ。高さも私の背丈くらいしかない。
「お前たちがまだシミュレーション初心者ってことは聞いてる。だけどな、敵も味方ものんびり待ってちゃぁ、くれないぜ」
早口なのに早く聞こえないという不思議な喋り方だった。なるほど、この勢いで世の女性は陥落させられるのか。
そんな事を思いながら、匣の扉をくぐってシミュレータに乗り込む。エリオット中佐は私が乗り込むや否や、マイクを使って説明を開始する。
『状況設定は単純。お前たち選抜三十人の艦隊に、エウロス飛行隊が攻撃を仕掛ける。生き延びてみせろ』
「えっ……?」
匣の中にある椅子に座りつつ、絶句する私だ。匣の中の照明が落ち、低い唸りとともに、システムが起動する。
「セ、セイレネス、発動……!」
起動したシステムが私の言葉を受け取り、勝手にコマンドを並べ始める。
『セイレネス・論理ゲート・オープン。全システム、活性。戦艦・セイレーンEM-AZ、全モジュール、読み込み完了。全武装、制限解除』
基本的にはシステムが面倒な手続きをほぼ全てやってくれる。それもこれもヴェーラとレベッカのおかげらしい。あの二人の実戦をフィードバックして、ブルクハルト教官がこんなふうなシステム改良を行ってきたそうだ。
ってちょっと待って? 今、戦艦って言った? セイレーンEM-AZって言った?
動揺する私に被せるように、エリオット中佐の声が聞こえてくる。
『マリオンにはセイレーンEM-AZ、アルマにはウラニアを割り当てさせてもらった。レオナには重巡アルデバランだ。というわけで、マリオン、指揮を執れ』
「えええっ!?」
声は出たが、イヤとは言えない。
『敵はエウロスっつーか、俺の部隊だけどな。手強いぞ?』
そうこうしている内に、私の意識はセイレネス・システムの作り出した論理空間に沈む。水の中に沈み込むような、そんな感触だ。息苦しくはないけど、意識と肉体が分離するみたいな、とても不思議な感覚がある。
そして言葉を交わす必要もない。私はアルマとレオン、そして二十七名のC級たちの気配を間違いなく感じていた。
「ぜ、全艦。AA戦闘用意! 輪形陣!」
私の号令。ていうか、いつもはアルマがこの役をやっている。私が指揮棒を振るうのは今回が初めてだった。
『マリー、輪形陣の全体配置送って』
レオンが早口で言ってくる。普段とは違う、キリッとした真剣そのものの口調に、私も気が引き締まる。私は慌ててシステムが弾き出した理想的な輪形陣の配置図を全艦に送信する。
私の視界が不意に明るくなった。意識が戦艦の外に出たのだ。見下ろせば白銀の超巨大戦艦。遠くの空には二十四機の黒い戦闘機。それらが碧空を引き裂いて飛来してくる。眼下では重巡アルデバラン――実際にはエディタの乗艦だ――が輪形陣の先頭に出てきていた。私の戦艦はアルマの戦艦と並んで中央だ。そんな中、レオンがC級のみんなを叱咤する声が聞こえてくる。
『輪形陣、展開急げ! 遅いぞ!』
『アルマよりマリー。敵機二十四。本艦隊に向け、対艦ミサイル接近中! 数、四十八!』
「マリオンよりC級全艦。ミサイル迎撃のため、PTC発動!」
できるかどうかはわからないけど。でもPTCが使えないと、C級では戦力にならない。ましてエウロス相手になんて。
『レオナよりC級! PTC発動急げ!』
海がオーロラグリーンに輝き始める。全部とはいかないが、数単位のPTCは発動できたようだ。
『マリー、あたしたちは!』
「初撃はC級で対応完了したい」
『アルマ了解。レオナは?』
「C級の指揮に全力で!」
『レオナ了解。C級と共にAA戦闘に入る!』
重巡アルデバランから強烈な閃光が放たれる。艦首搭載の拡散PPCだ。再充填に時間はかかるが、AA戦闘には驚異的な威力を発揮する。
『アルマより全艦。ミサイル接近。今のレオナの一撃で半数墜ちたがまだ二十以上健在。警戒!』
「アルマ、および本艦、三式弾装填、順次放て!」
『アルマ了解。三式弾装填完了。主砲口径最大でロック。三式弾、速射開始!』
私とアルマの戦艦が、三連装口径可変主砲を巡らせて、対空砲弾を一斉射する。その威力は私自身が唖然とするほど強力で、飛来してきていたミサイルたちを瞬く間に消滅させた。
「すご!」
『アルマよりマリー。油断するな! エウロスが散開。近接戦闘体勢に入った!』
見えている。オーロラグリーンに染め上げられた海を叩き割るようにして、黒い機体たちが超低空で突っ込んでくる。
「多弾頭ミサイル!?」
まさか!
と思った。艦船相手に多弾頭ミサイルだなんて聞いたことがない。
直後、三隻の駆逐艦が至近距離からもろに多弾頭ミサイルの群れを受けて轟沈させられた。その次に、機銃掃射やロケット砲で六隻が沈む。
『レオナよりマリー。敵機を捉えきれない! 速すぎる!』
レオンですら一撃も命中弾を送り込めていない。逆にロケット砲を被弾している。シミュレータで良かった――などを胸を撫で下ろせるような状況でもない。
「マリオンよりアルマ。セイレネスで敵機を一網打尽にする」
『アルマ了解。セイレネス再起動!」
「セイレネス、再起動! 安全装置解除!」
その時システムが私の意識の中に直接「対空戦闘モード」の提案を送り込んできた。私は瞬間的にそれを承認する。
「空域掃討モード・展開!」
海域がオーロラグリーンからプラチナシルバーに変わる。瞬間、二隻の戦艦による不可視の攻撃がエウロスに――襲いかからなかった。
「なんでっ!?」
主砲も機銃も当たらない。どころか、電磁投射砲すら当たらない。それだけでも意味がわからないのに、セイレネスによる圧倒的なはずの攻撃が、回避不能とも言われる攻撃が、かすりもしない。
そうこうしている内に、C級艦艇は全滅。レオンの重巡アルデバランも深手を負った。
『レオナよりマリー。本艦は戦闘能力を喪失。もはや機銃のコントロールも不能!』
『アルマよりマリー。戦艦ウラニア、被害甚大。ダメコンも限界』
無事なのは……誰もない。私の戦艦ももはやボロボロだ。もはやただの浮かぶ城だ。
敵機は二十四。何度数えても二十四だ。つまり、一機も撃墜できていない。悪夢だった。今までのシミュレーション訓練では、アーシュオンの戦闘機や艦隊相手には圧勝していたのだ、これでも。
悔しいな……!
こんな感情、初めてだった。もしかしたら、初めて真剣にシミュレーションをしたのかもしれない。ここまで完膚なきまでにやられるなんて。
もはや対空戦闘力を残していない私たち三隻は、敵機にしてみればただの的だった。美しい白銀の戦艦がボロボロになっていく。レオンの艦が消滅する。リアルな戦場だったら、この瞬間レオンは死んでいるのだ。そう思うと、ゾッとした。
結果として、その後二分と経たずにアルマと私の戦艦が撃沈された――。
『はいはい、そこまでー。出てきな、お嬢ちゃんたち』
システム終了と共にエリオット中佐の声が聞こえて、私は慌てて匣から出る。
「はいはい、全滅おつかれー」
全員出てきたのを確認して、エリオット中佐は手を叩いた。私たちは周囲を見回す。全員が疲れ切っていた。そして、どこか殺気立っている。いや、殺気立っているのは私もかもしれない。
「しょーがねーよ。俺たちエウロスはヤーグベルテ最強の航空部隊だぜ? ありゃシミュレーション用データに過ぎねぇけど、お嬢ちゃんたちみたいな、まだ尻に殻つけたヒヨコ相手に負けるわけねーだろ」
それにしたって負け過ぎだ。私は唇を噛んでいた。エリオット中佐と目が合う。碧眼が笑っている。
「悔しいか?」
「はい……」
私はがんばって顔を上げ続けた。悔しくてつい、爪先を見てしまいそうになるけど、今、見ているべきなのはエリオット中佐の顔だ。私の右にアルマ、左にレオンが並ぶ。
「結構結構。まことに結構。良い面構えじゃないか」
エリオット中佐は私たちに座るように促す。座ると言っても椅子があるわけでもないので、手近なシミュレータに寄り掛かるような形になる。
「だけどな、知ってるだろ? カティ・メラルティン大佐。空の女帝」
「もちろんです」
私が代表して答える。そもそもカティ・メラルティン大佐のことを知らない人を知らない。
「さっきのデータの中にカティの機体があったら、お前たちはその一機に全滅させられていただろうよ」
「そ、そんなに……?」
部屋全体がどよめいた。でも、メラルティン大佐の戦闘を見てしまうと、それもあながち大袈裟ではないなという気さえしてしまう。
「以前、一回お遊びでさ、俺と相棒の部隊、合計四十八機と、カティの一機だけで戦ってみたことがある」
「まさか……」
「そのまさか。同じ機体だぜ? F108Pっていうんだけどさ。色しか違わねぇのに、四十八機が二十分で全滅だ。あんときゃ、残弾すらあった。天才ってのはあいつのためにある言葉だよ。無敵の女帝さ、カティは。俺たちエウロスの中にひょこっと入ってきたガキがさ、今や隊長だぜ?」
エリオット中佐は「だけどな」と頭を振る。
「レベッカも、ヴェーラも、それ以上だ。カティですら一撃浴びせられるかどうかだった。少なくともカティを除いたエウロスでは、全部隊でぶつかっても、あの戦艦には傷一つ付けられなかった」
ギラリと光るその目に、身が竦む。それはまさに鬼神の目だった。飄々とした態度や口調とは違って、その内側には苛烈な何かが潜んでいる――気がした。そもそもがあの壮絶な戦場で二十年以上戦い続けてきた経歴の持ち主だから、甘い人なはずがなかった。
「まぁ、肩の力を抜いてくれ。俺の話なんてそんな大層なもんじゃねぇ。あと、カティじゃなくてすまんかったな。あいつにはよろしく言っといてくれって頼まれてる。カティの妹分のヴェーラやレベッカの後輩にあたるわけだしな、お嬢ちゃんたちは」
エリオット中佐は部屋に唯一置かれている教官用の椅子を引っ張ってきて、腰を下ろす。組まれた長い足に、思わず目が行ってしまう。
「ディーヴァたちと、一期生。あいつらはすでに常に最前線にいる。常に、だ。第七艦隊はともかく、それ以外の不甲斐ないクソ艦隊どもは足を引っ張るだけでしかない。戦力的にも、政治的にもな。にも関わらず、歌姫計画の予算は自前調達が基本だ。ライヴだのグッズだの、戦闘映像の配信チケットだの音源の販売だの……。一体何の組織かっていうんだ」
軍人としては不謹慎な発言だとは思ったけど、私は黙って何度か頷いた。隣で匣に背中を預けているレオンも小さく頷いたのが見えた。アルマに視線をやると、どちらかというと、ぽかんとしている。気持ちは分かる。
「政治屋の票集め、軍事行動の正当化、民主主義を逆手に取った戦時体制の維持――ヴェーラやレベッカが出てくるまでは、我が国ヤーグベルテは国家存亡の危機に晒されていたが、今はご存知の通り。ヤーグベルテの国民どもは、その多くが政治に関心すら持たず、我が世の春を謳歌している。一部の人間に血を流させて、自分たちは呑気に戦場のライヴ配信で盛り上がってる。今や、戦闘で歌姫が死んだりすれば、断末魔の配信に誰も彼もが群がってくる。異常な状況だぜ。違うか?」
違わない。私は首を振る。またエリオット中佐と目が合った。
「あげくにまだ学生の二年目や三年目さえ、戦闘サポートに使っているじゃねぇか、参謀部は。正式に軍人になったわけでもないのにな。なのに国民はそれに異議を唱えない。反歌姫連盟の連中だけだ、それはおかしいと主張するのはね」
なんとも皮肉な話だと思う。私たちに反発する組織が――その口実に過ぎないとは言え――私たちの境遇を「おかしい」と言っている。
「軍隊なんてな、本来、国家にとってのお荷物であるべきなんだよ」
――残念ながら、あなたたちが国家のお荷物になれる日は、まだまだ来ません。
脳内で、カワセ大佐の言葉が再生される。
エリオット中佐は肩を竦めて首を振る。
「兵隊は穀潰し、無駄飯食らいの連中だ――そんな風にわけのわからねぇ知識人とやらにやいのやいの言われるようになって初めて、国は平和になったと言えるんだ。軍人が日がな訓練に明け暮れて、税金の無駄だと言われて、弾薬の調達にさえ批判や非難を受けて、言い返すネタもないままにひたすら耐えて、そして軍隊全体が腑抜けになっちまうまで、平和が来たんだなんて言えねぇんだよ、本当は。言ってちゃいけねぇんだよ、本当は。
なのに、なんだ? 奴らは軍には常に勝利を求め、歌姫には凱歌を求めやがる。その結果生み出された自身の安全を見て、今は平和だとかなんとか抜かしやがる。作ってもらった平和、味方の血の傘で守られている平和、その事実からは簡単に目を逸らしやがっている」
エリオット中佐は立ち上がると、そのまま私たちの方まで歩いてきた。緊張する私だ。
「あまつさえ、その麻薬みてぇな陶酔効果のある断末魔を生み出すために、歌姫には適度に死ねと、奴らは罪悪感もなしに言い放つ。俺たちが命がけで守り抜いている平和にあぐらをかきながら、実際に戦って血を流す軍人、歌姫、その家族や恋人――平和ボケした連中は、そういう人間を嗤いやがる。軍人の命が消えるその瞬間をスナック菓子をつまみながら、阿呆面晒して眺めてやがるんだ」
長身のレオンよりも更に背が高いエリオット中佐を見上げるのは、なかなか苦労する。
「お嬢ちゃんたちが、ひらひら可愛い服を着て、歌って踊って拍手喝采を浴びて生きていく。そんな世界を作ってやりてぇと思ってる大人は大勢いる。大勢いるんだ。たとえば、俺とかな。だが、世の中ままならねぇ。歌姫でもねぇ俺たち一般人にできることは、あまりにも少ない。俺たちがいくら口を開いても、超兵器には手も足も出ないくせに……そう嗤われて終わりなのさ。だから」
「私たち自身がやるしかない」
「そうだ、マリオン・シン・ブラック」
エリオット中佐は私の肩を軽く叩くと、また椅子に戻った。
「そうだ、そこの二人。お前たちが次期艦隊司令官だろうって話をカティから聞いた。何年後になるかはわからねぇが、S級だからな。世界がどうなるのか、アーシュオンがどう出るのか、ヤーグベルテはどうしたいのか、どれもさっぱりわからねぇ。けどな、俺たちエウロスは、参謀部が何と言おうとお前たちの味方だ。三課だろうが六課だろうが関係ねぇ。カティ・メラルティンが健在である限りは、間違いなくな」
そう言って、エリオット中佐は「そんじゃここまで。またな!」とか言い捨ててさっさと部屋を出ていってしまった。私は反射的に中佐の背中を追おうとする。
「マリー……!?」
「ごめん、レオン。後で連絡する!」
「……わかった」
レオンの声を背中で聞きながら、私はシミュレータルームを出て、エリオット中佐を追った。長い廊下のはるか先に中佐はいた。私たちが部屋に帰るのとは真逆の方向に進んでいる。
「エリオット中佐!」
「おう?」
廊下の曲がり角でようやく追いついて、私は中佐に声を掛ける。窓から差し込む月明かりを受けて佇むその姿は柔和な優男――に見えたが、得体の知れないオーラのようなものを纏っている。文字通り、鬼神だった。少し足が竦む。
「マリオン、うん、マリーか」
「はい」
エリオット中佐は窓枠に背中を預け、腕を組んだ。私は中佐の真正面に立つ。窓ガラスに映った私の顔は緊張に強張っている。
「ちゅ、中佐は、レベッカやヴェーラとは親しいのでしょうか」
「ジョークくらいは言い合う仲だったかな」
「メラルティン大佐は、ヴェーラとレベッカとは特に親しいと聞いています」
「そりゃね。もう十何年の付き合いだろ」
腕を組んだまま頷くエリオット中佐。
「ええと、中佐はメラルティン大佐とは?」
「サムみたいな質問の仕方だなぁ」
エリオット中佐は腕組みを解いて頭を掻いた。
「俺は大佐に惚れてる。本気で落としにかかってる。でいいかい?」
「え? えっと……」
「ま、ホントなんだけどな。でも多分おっさんの恋は実らんだろうな。今のカティにとっては、ヴェーラとレベッカが全てだから」
「でもヴェーラは……」
「あいつは死んでねぇよ」
明確に断言するエリオット中佐に、私は言葉を失う。
「カティはヴェーラの姿こそが偶像でしかなかったんだって言ってるし、俺もそう思ってる」
「偶像……」
「ヴェーラは優しさの仮面を脱ぎ捨てた。脱ぎ捨てて、焼いちまったんだ」
「十何年も仮面を?」
「そ。ヴェーラは遂に自分を解き放った。今の仮面を被った自分こそが、本当の自分だって信じている。俺もカティもそう思ってる」
中佐は窓の方を向いた。私と中佐の顔が、窓ガラスにぼんやり浮かび上がる。私は意を決して言った。
「そんなの、そんなのは悲しすぎる!」
「……だな」
中佐は鋭利な視線でガラスを経由して私を見て、首を振る。
「そうさせちまったのは、俺やマリーも含めたヤーグベルテの人間だ」
静かな口調に込められた絶望感とか無力感とか、そういうものを強く感じる。私は唾を飲み込んでから尋ねる。
「私たちには……何ができますか」
「何も」
エリオット中佐はまた私に向き直る。
「何もできやしねぇよ」
「中佐……それは私たちにも、ですか」
「ヴェーラはな」
幾分声を潜める中佐。
「今度こそは、と、俺たちに希望を見出そうとしている。応えられるのは歌姫しかいねぇ。嘘のない世界で、話をしてやれ」
そう言って、中佐は私に背を向け、歩き去ってしまった。