黄昏にはまだ早い時間だ。携帯端末で素早く時間を確認して、私はカワセ大佐と(なぜか)手をつないでいた。レオンが複雑な表情をしているのが見えたが、成り行きでそうなってしまったのだから仕方ない。まさか大佐の手を振り払うわけにもいかないし。
時間はともかく、外は暗い。黒雲が私たちの頭上を完全に覆っていたし、雨もまだ降り続いていた。今、私たちの目の前には無数の墓碑が並んでいる。墓地の芝生の上を音もなくコロコロと回っているのは、AI制御の芝刈り機だ。どこを見ても、一体や二体の芝刈り機が目に入る。ちょっとかわいい。
私の手を引きながら、カワセ大佐が緩やかな上り坂を上がっていく。カワセ大佐の黒い軍服はしっかり水を弾いているが、私たちの制服にはそんなに撥水性はない。普通に髪は濡れるし……。
「散歩にはあまり良くない日だったわね」
カワセ大佐は私の手を離してくれない。レオンと繋ぎたい右手だったが、仕方ない。あとでしっかりレオン成分を補充させてもらわないと。後ろを振り返ると、アルマとレオンは神妙な面持ちで並んで歩いていた。軍の墓地、真新しい墓碑。それが意味するのは、最近の海戦や島嶼防衛戦で亡くなった軍人がいるということだ――。
「大佐、あの、どなたのお墓に?」
「ここよ」
ひときわ立派な墓碑がそこにあった。プレートには「エディット・ルフェーブル」の名前が刻まれている。カワセ大佐はしばらくそのプレートを見つめ、そしてゆっくりと敬礼した。私たちも慌ててそれに倣う。
カワセ大佐は私を振り返る。
「ルフェーブル少将のことは?」
「逃がし屋と呼ばれていた、参謀部第六課、前統括……」
私より先にアルマが答えた。カワセ大佐は頷いて情報を補う。
「そして、歌姫計画の責任者の一人でもあったし、伝説級の戦略家でもあった」
レオンが口を開く。
「確か、ヴェーラとレベッカが未成年の時は保護者でもありましたね」
「肯定。ついでにいうと、あのカティ・メラルティンもまた、少将の庇護下にあった」
「同じ家に住んでいたというのは本当なのですか?」
「ええ」
カワセ大佐は躊躇なく肯いた。
「ヴェーラが焼いたのは、その思い出の家よ」
「思い出の……」
私たち三人の声が揃った。周波数の違う音が絶妙に混じり、雨の音に消えた。
「ルフェーブル少将が暗殺されてからも、ヴェーラとレベッカはその家に住み続けた。カティもまた、時々帰ってきては……」
カワセ大佐は声を詰まらせた。その瞬間、私は感じる。カワセ大佐の記憶の重みを。怒りとか悲しみとか、そういった単語では到底表現できないほどの重さが、そこにはあった。心を読んだわけじゃない。読めたわけでもないと思う。けど、カワセ大佐にとっても大切な場所だったんじゃないか――そんな気がする。
「そうよ、マリー。私の思い出もたくさんあったわ。それをヴェーラは一つ残らず焼いてしまった。何一つ残らなかった」
カワセ大佐の目尻から涙が伝い落ちる。呼吸が浅くなっていた。繋いだ手からかすかな震えが伝わってきた。
「ヴェーラは……ルフェーブル少将の暗殺から変わってしまった。いえ、違うわね。気付いてしまったのよ。ヴェーラはこの世界の正しさに気付いてしまった。ルフェーブル少将が必死に押し留めていたものが、彼女の暗殺と同時に一息にヴェーラたちに流れ込んでしまった。それによってヴェーラは心に回復不可能なダメージを負った。
……いえ、これも、違うわね。社会が、国が、人々が、ヴェーラを追い込んだのよ。大切な初恋の人を失い、大切なルフェーブル少将を失い――。でも、その全ては、社会というシステムの生み出した最適解だった」
「そんな!」
私は思わずカワセ大佐に身体を向けた。ようやく右手が解放される。遠くで雷が鳴った。
「そんな残酷なことを、そうやって受け容れてしまっていいんですか」
「カティ・メラルティンが幼少期に遭った虐殺事件にしても、その全てが政府や、あるいはもっと上の何かによる喧伝工作の一環なのだとしたら?」
「アイギス村の虐殺事件ですよね、それ。そんな二十年も昔の段階で、今のメラルティン大佐が想定できたはずもないでしょう?」
「どうかしら?」
カワセ大佐は目を細める。感情が一つも見えない表情だった。
「あなたとアルマに偶然めいた出会いがあったのも、士官学校で再会したことも、マリーとレオナが恋仲になることも、ここにこうして四人で立っているのも、全て社会というシステムが正しいと判断したことの結果。しかし、それを人は運命と呼ぶわ」
「運命……?」
「そうよ。現今のAIは圧倒的に人間よりも正しい。全ての社会システムはそれを前提に動く。AIがAIを創り、さらに自ら成長させていくことができる以上、人間はそれに従うのが最も合理的だと思っている。社会システムを目に見えないところから操っているAIの判断は常に正しい――ゆえに正常だと誰もが信じて疑わない。だから多くの人々は、自ら思考する事をやめた。ありとあらゆる行為の結果を運命と呼び、自らの行為に対する免罪符としたの。だから、私たちの全ての巡り合わせは、何一つ偶然なんかじゃないの。この世界の全ての構造は、ね」
「そんな世界……」
私は拳を握りしめる。私の右手にレオンの左手が重なる。少しだけ力が抜けた。カワセ大佐は微笑んだ。
「セイレネスはね、同調するの。音のように、波が合えば高まるものなの。だから、私たちはあなたたちのような歌姫を集めているの。一定数の歌姫が集まることで、セイレネス活性がより高まることは、ヴェーラとレベッカが証明してくれた。だから、マリーとアルマ、そしてレニーには同じ部屋にいてもらってるの。レオナも考えなくはなかったけど、さすがにあの部屋に四人は厳しいわ」
「入り浸っていますけどね」
レオンは静かな口調で言った。
「それも計略通りってことですか」
「いいえ」
カワセ大佐は微笑んで、私とレオナの肩を同時に叩いた。
「あなたたちが恋仲になるなんて、少なくとも私たちにとっては全く予想外だったわ! 社会システムにとっては必然でも、私たちには嬉しい誤算だったと言えばいいかしら? それに、マリー、レオナ。あなたたち、これが仮に仕組まれていたものだとわかったら、その恋は醒めるの? 二人の間の愛は消える?」
「いいえ」
レオナが首を振る。私も何度も首を振る。アルマは所在投げに地面を爪先でいじっていた。カワセ大佐は口角を上げる。が、次の瞬間、その表情が友好的とは言い難いものに変わった。あからさまな敵意、嫌悪感、憎悪、そういった負の感情をぐちゃぐちゃにまぜこんだような表情になっていた。空が光った。痺れるような雷鳴が届く。
「ハーディ中佐、来たんですね」
「ええ」
私たちは急いでカワセ大佐の背中側に移動した。そこに立っていたのはハーディ中佐だ。その長い黒髪が雨に濡れるのも構わず、カワセ大佐と正対している。右手で眼鏡のフレームを押し上げつつ、ハーディ中佐は私たちを見回す。鋭すぎる灰色の眼光に、私もアルマも、それにレオンまで完全に射竦められていた。身動きができないのだ。
「単刀直入にお伺い致します、大佐」
「なんでしょう、中佐」
温度感のないやり取り。私はカワセ大佐を盾にするようにして顔を覗かせている。ハーディ中佐はカワセ大佐と睨み合っているようだ。私たちなんてもはや眼中にもないようだ。
「あなたは何者ですか、マリア・カワセ大佐」
「質問の意味がわかりかねますが」
「ホメロス社の社員であることは知っています。また、大佐待遇での派遣であることも知っています。その政治的経緯まではわかりかねますが」
「それが?」
「軍のデータベースの何処にも、あなたという人物の情報がない。痕跡すらない。おかしいと思いませんか。あなたが動いた痕が一つもないなんて」
どういうことだろう? 私はレオンとアルマをキョロキョロと見回す。
「それは私の知ったことではありません」
「参謀部のシステムは、あなたという存在を承認しないことで一致した」
「それで?」
私は気付いた。ハーディ中佐のだらりと下げられた右手の意味を。それは腰の拳銃を抜き放つためだ。カワセ大佐は気付いているのだろうか。この距離で撃たれたら、まず避けられない。私は奥歯を噛み締めて震えを止めようと試みる。
「参謀部のシステムが私という存在を否定した。それで、ハーディ中佐、あなたはどうするつもりですか」
「私はあなたの正体を知りたい、大佐」
「私の正体? 私は私ですが。軍の公式記録を照会してください」
「そんなものはとっくに確認済みです」
「その上で、私を排除しようということですか」
カワセ大佐は落ち着き払って腕を組んだ。全く無防備になる。カワセ大佐は全く揺らぎのない声で言った。
「あなたや参謀部の手の届かないところで決まった話。私という存在は、それだけ上位の力によってここに固定されている。たとえば、その拳銃。撃ってごらんなさい。私は逃げも隠れもしませんよ? あなたなら一撃で私の額を撃ち抜けるでしょう?」
その言葉を受けて、ハーディ中佐は躊躇の欠片もなく拳銃を抜いた。護身用とは言い難い、大口径の実弾銃だった。ハーディ中佐は安全装置を外しながら問う。
「大佐、あなたの上位組織によって、軍は利用されていると考えてよろしいか」
「その認識で構いません。私はホメロス社の所属ではありますが、実際にはそのはるか上位の存在によってこの歌姫計画を進めるように命令されています。今、私を排除したところで、第二、第三の私が送り込まれてくるだけ。もちろん、個体は違いますが」
カワセ大佐は一つ息を吸う。
「私はヴェーラ・グリエール、およびレベッカ・アーメリングを完全なものとするために送り込まれました」
「しかしヴェーラは……」
「歌姫計画は、いまなお進行中。中止されることは、最上位層の意志が変わらぬ限りはありえないのです。それに、テラブレイク計画との統合もあり得ます」
「それはない。あれは第三課、アダムスの管轄――」
「くだらない」
カワセ大佐は一息でハーディ中佐の言葉を切り捨てる。しかし、ハーディ中佐も銃をおろさない。また空が光る。遠くから空が割れる音が聞こえる。
「中佐。歌姫計画は、ヤーグベルテだけのものではないのです」
「そんなはずは……」
「全てを含めて。ヤーグベルテとアーシュオンだけではない。べオリアス、キャグネイ、ダールファハス、エル=マークヴェリア、ツヴェルグ……全世界の問題なんですよ、中佐」
まさか――。
私はカワセ大佐に声をかけようとした。が、レオンに止められる。
雷鳴が響き渡る中、先に緊張を解いたのは、ハーディ中佐の方だった。
「わかりました」
拳銃をしまい、右足を引く。
「我々が必死に戦っているのを、歌姫たちが命を賭けて戦っているのを、実験と称して眺めている者がいる。そういう理解でよろしいですね、大佐」
「肯定、と言っておきましょう」
「大佐、あなたも、その一人だと」
「……そう考えて頂いても良いでしょう」
その答えに、ハーディ中佐は無言で身を翻して去っていった。
「大佐、あの」
私はレオンの静止を振り切った。
「実験って、世界規模の実験って……」
「忘れなさい」
カワセ大佐は私を振り返る。雷光と雨のおかげで表情がちっとも見えない。
「世界はね、あなたたちが考えているほど、狭くもなければ単純でもないの」
「大佐、しかし」
「……そう遠くない未来に、あなたたちはその片鱗を見るでしょう」
――それはカワセ大佐からの呪いの言葉だった。