ミスティルテイン、か。いいね、プロセスは一つ進んだということだね。
自分の指先さえ認識できないほどの完全なる闇の中、そんな言葉が浮かんで消える。その直後に、その天も地もない空間に、暗黒色のスーツを着た青年の姿が浮かび上がる。外見的にはせいぜいが二十代半ば。あるいはもっと若いかもしれなかった。闇の中にあってひときわ輝いて見える銀の髪と、鮮血のように真っ赤な瞳が、この世ならざる何かのようだった。
青年の真正面に、ぼんやりとした銀色の何かが生じる。それは人型のようにも見えたし、炎のようでもあった。その存在形象を一言で言うならば、名状し難い何か、だ。
『全てはあなたの目論見通り』
銀はそう言った。青年は頷く。
「歌姫計画の準備が終わったということさ」
『ふふふ……歌姫計画、ね』
銀は外連味たっぷりにそう嗤う。
『ずいぶんと待ったものね』
「そうだね」
青年はその目を細める。瞳の赤が鋭く光る。
「あとはあの子たちが、どの程度まで良い子でいてくれるか、だね」
『残酷な人ね、あなたは』
「心外だね。僕にティルヴィングを手渡した張本人がそんなことを言うのかい」
青年は冷たい微笑を見せる。彼の左目が強く輝いていた。炎が吹き出してでもいるかのように、青年の周囲の空気が揺れる。その煽りを食らって銀がふわりと広がった。
『今度の所有者は、いったい私に何を見せてくれるつもりなのかしら。楽しみだわ』
「僕は君との賭けに負けるつもりはないけれど」
『あらあら。今まで一度とて、私との賭けに勝てた人間なんていないわよ』
その言葉に、青年は喉の奥で笑う。
「ティルヴィングにまつわる全ての記憶を消し去ってしまう君がそんな事を言ったって、何一つ説得力はないさ。だからこそ、君は悪魔だなんて呼ばれるのだろうけれど」
『それもそうね。確かに、私は悪魔と呼ばれたことの方が多いわ』
「ともかくね」
青年は鋭い視線を銀に送る。
「僕はロキになんかになろうとしているわけじゃない」
『知っているわ、ジョルジュ・ベルリオーズ。あなたの目的は」
「君は――」
青年――ベルリオーズは顎を上げる。
「全てを知っていると思っているようだけど。果たして、その思い込みは正しいのかな?」
『あなたは、そうね、ファウストのようなもの。私にとってこれから起きることが未知であろうが既知であろうが、どうだっていいの。私の目的はどの巡りにあろうと、どの宇宙であろうと、ただ一つ。ティルヴィングの継承者から、あの言葉を聞きたいだけ』
「悪魔よ、そなたは美しい――かい?」
揶揄するようにベルリオーズは問う。銀は愉快そうに揺らぐ。ベルリオーズは目を細める。
「盲目のファウストを後ろから墓穴に蹴り入れるくらい、君たちにはわけもないことだろう? でも残念ながら、僕には万象を見通す目がある。物理的にも、論理的にも、ね」
『あなたがそうと言うのなら、そうなんでしょうね』
挑発的な銀。しかしベルリオーズはそれを一笑に付す。
「事の真偽はともかくとして、僕はね、関心があるのさ」
『関心?』
「そう、関心さ。この複素数の世界に対して、僕は大いに関心があるのさ」
ベルリオーズのその言葉に、銀は一度大きく揺らぎ、掻き消えた。
「さて」
その気配が完全に消えたのを確認してから、ベルリオーズ腕を組んだ。
「ジークフリート」
青年は呟く。世界が一瞬揺れた。
「D.E.M.モジュール、結界展開。論理スフィア生成」
世界が一度完全に闇に落ちる。ベルリオーズがゆっくりとした口調で言った。
「……バルムンク発動」
世界に光が射す。その光条は瞬く間に拡大し、ベルリオーズの認識し得る範囲を尽く白く塗りつぶした。ベルリオーズはその一つの隙間もない光の色に満足気に頷く。ベルリオーズが生み出した超AIジークフリートは、確実に自己増殖を続けている。もはや世界はジークフリートが生み出したAIたちなしには立ち行かなくなっている。そしてその頂点にいるのが、ベルリオーズであった。
「さすがは世界樹、だね」
ベルリオーズは飛び交う数式を視認しては目を細める。彼は今、世界の頂点にいる。彼が望めば、どんな国家もたちまちのうちに崩壊する――とさえ言われている。だが、誰も彼を敵視しないし、誰も彼の目的を暴こうとはしない。
「オーシュ」
その呟きと同時に、ベルリオーズの前に三つの球体が現れる。白、灰色、そして黒。
「響応統合構造体……誰がそう名付けたのだろうね」
ジークフリートが導き出した答え。それがこのオーシュだった。誰が名をつけたわけでもないのに、それは最初からその名前だった。物理層に縛られていた人間の活動領域は、このオーシュたちによって拡張されるだろう。
「君たちの世界を始めよう」
歌姫たちが紡ぐサーガ。地に満ち天を覆う歌は、この世界をより完全なものに近付けるだろう。銀や金の支配を超える世界に。