その日以来、深夜の浴場はカティの貸し切りとは言えなくなった。エレナもカティの入浴時間を見計らって入ってくるからである。二日に一度以上の遭遇率となった二人は、自然と会話も増えていった。CQCの試合の件については、まるで双方が忘れてしまったかのように話題の端にも上らなかった。
「カティ、カティ。この口紅どう思う?」
「どうって……風呂上がりにつけるのか?」
ドライヤーで髪を乾かしながら、カティが尋ねる。エレナは「洗えばいいじゃない?」と言いながら、タオルを巻いただけの姿で嬉々として口紅をつけてみせた。ラメの入った、ややオレンジの入ったピンクの口紅は、どちらかというと童顔のエレナにはよく似合った。
「どう? どう?」
「に、似合うと思う。いつもの濃いやつよりいい」
「そぉ? じゃ、明日からこれにしよっと。カティはお化粧しないよね」
「興味がないし……仕方もよくわからない」
「ふぅん」
エレナはそのまま髪の毛を乾かし始める。カティは少しむずかしい顔をして尋ねる。
「化粧しないのは、変、か?」
「ううん」
エレナは首を振る。
「カティは私の次くらいに美人だし、私の次くらいに肌が綺麗だから、化粧なんてしなくてもいいよ。ナチュラルメイクを言い張れば男連中なんてみんな信じるわよ」
「そもそも、アタシは美人なのか?」
「ははっ」
エレナは声を上げて笑う。二人しかいない脱衣所に声が響く。
「誰もが羨む美女でしょ、あなた。美女レベルは私の次くらいだけど。自覚がないのが嫌味よね」
「いや、そんなつもりじゃ」
「あなたがそこまで器用じゃないのは十分わかってるわよ。ああ、そうそう」
エレナは腕を組んでカティを見た。
「試験勉強はどう? 航空力学の」
「あ、うん。それなり。やっと分かってきた感じがある」
「へぇ」
エレナは目を細める。
「勉強手伝おうか? 私の専門、航空力学だったし」
「ああ、そうだったな。でも、いい」
「なんで? カンニングするわけじゃないわよ?」
「性分なんだよ。自分のペースで自分が納得しながらやりたいんだ。そ、そりゃ、エレナに教えてもらったら、一足飛びで進めるとは思うよ。でも、まだそういうフェイズじゃないと思うんだ、アタシ」
カティの主張に、エレナは足も組む。太もものかなり際どいところまでが露出して、カティは露骨に目を逸らす。
「私があなたを手伝えば、あなたには他のことをする余力が生まれると思うけど」
「エレナ」
カティは立ち上がって、エレナの肩に触れる。
「アタシにはアタシのやり方ってものがある。アタシは頑固なんだ」
「知ってるわよ」
エレナも立ち上がってペタペタと歩き出す。カティもその後をついていく。
「ま、いいわ。あなたの主義にツッコミを入れるのも野暮だし? そういうところ、私、嫌いじゃないし?」
「あ、でもさ、エレナ」
カティは服を着ながら言う。
「アタシ、エレナを都合よく使いたい」
「つ、都合よく? あなたにしては斬新なものいいね。つまりアレでしょ、わからないことがあったら教えて欲しい、でしょ?」
「エスパーか?」
「うん」
エレナは頷いてニッと笑う。着替えを済ませたカティは「なるほどね」と納得する。
「エレナ」
「なぁに?」
廊下に出て、空気の冷たさにひとしきり震えてから、二人は歩き出す。
「……なんでもない」
カティは首を振った。エレナは「そっか」と曖昧な相槌を打った。
エレナと別れて、カティは自室に辿り着く。まるでそのタイミングを見計らっていたかのように、携帯端末に着信があった。ヴェーラからの通話リクエストだ。
カティは携帯端末をベッドの上に置いて、自分はベッドにあぐらをかいた。そして動画通話を開始する。
『わぁ、深夜の湯上がり美人』
三次元映像として映し出されるヴェーラの上半身。その隣にはレベッカもいるようだ。
「どうした? こんな時間に」
『ねぇねぇ、カティ。今日、空軍士官候補生の子から、カティが他の子とすごく仲良くしてるって聞いた!』
「え、あ、うん」
思わずどもるカティである。カティは未だにヴェーラたちにエレナの存在については話していない。なんとなく気恥ずかしさがあったからだ。さっきエレナに言い出しかけたのは、ヴェーラたちの事を話題にしようとしたからだったが、同様の理由で先を続けられなかった。
『カティにお友達ができるなんて、お母さん嬉しいよ』
『ちょっと、誰がお母さんなのよ』
レベッカがさっそくツッコミを入れている。
「えと、そいつ、航空力学の博士号持ってるんだよ」
『わぁ、すごいね! 大卒組だ! カティのお友達ってことはいい人?』
「いい人っていうか、なんか変なやつ」
カティはエレナをどう表現したものか思案する。容赦なく距離を詰めてくるエレナの性格は、もしかしたらヴェーラに通じるものがあるかも知れない、などとと考える。確かにヴェーラも変なやつだとカティは思う。レベッカも常識人に見えて、結構ズレてるし――。
『ははーん。わかるよわかる! カティ、変な人に好かれそうだもん』
『ヴェーラ、それすっごく失礼じゃない?』
『カティとフツーの人が仲良くしてたら不自然でしょ?』
『……いや、だからそれって』
携帯端末の映し出す立体映像の中で、二人が言い合っている。カティは苦笑しながらそのさまを眺め、ぽりぽりと頭を掻いた。
『あ、そうだ。ねぇ、カティ。試験終わったら教えてよ。ご飯食べに行こうよ』
「ケーキ?」
『ケーキもいいけど、ピザもいい』
「ピザ好きなのか?」
『三度の飯よりピザが好き!』
「……?」
カティは思わず難しい表情を見せた。理解が追いつかなかった。
『ピザ食べて、お口直しの甘いケーキ食べて、締めのパフェ!』
「……カロリーを考えたらお腹いっぱいになるな」
『そんなの、ピザの前には小さなことだよ』
ヴェーラはもっともらしく頷いた。カティは腕を組んで天井を見上げた。
「わかったわかった。店だのメニューだのは考えておいてくれ」
『了解であります』
ヴェーラがおどけて言い、隣のレベッカは冷静な表情でヴェーラの頬をつねっていた。
『ねぇ、カティ。真面目な話なんだけどさ』
「お、おう?」
『忙しかったり疲れてたりするなら、無理にわたしたちにつきあ――』
「忙しいし疲れてる。だからこそ、ヴェーラとベッキーと話したいよ」
カティは頬をひっかきながら言う。立体映像のヴェーラが微笑む。吸い込まれるほどに美しい微笑だ。
『わかった。わたしたちはカティの栄養ドリンクなんだね』
「当たらずとも遠からず」
カティは立ち上がって伸びをした。
「というか、ヴェーラたちも忙しいだろ。無理に連絡しなくても」
『カティはわたしの心のピザだからね。摂取しないと凶暴化しちゃうから、連絡しないとだめなの』
「微妙に嬉しくない表現だが、まぁ、うん。それなら」
カティは「心のピザねぇ」と呟きながら、通話を終えた。ガランとした自室が、いつもに増して暗かった。
「……寝るか」
カティはゆっくりと息を吐いた。