02-3-1:ダス・イッヒ

本文-ヴェーラ編1

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 ハルベルト・クライバーか。なんの変哲もない名前をつけたものだ――ジョルジュ・ベルリオーズはなんとも表現し難い微笑を見せる。なにもない、ただひたすらの闇。そんな空間の中に、ベルリオーズは立っていた。

「どんな定義も、僕を真ん中に置きたがる。から、僕はずっとそうだ」

 始まりもまた、唐突だった。が僕に智慧ちえの実をもたらしたその時から。あの日から僕は導かれるようにジークフリートを構築した。そして瞬く間に世界の頂点に君臨してしまった。

 ベルリオーズは十数年前のその日を克明に思い出す。

「仮に僕自身ダス・イッヒなんてものがあるとしても、僕は僕自身の意志というものに懐疑的さ。君がもたらした智慧の実ティルヴィング。そしてそこから発芽したジークフリート。そこに僕の意志はあったのかなってね」

 語りかける先もまた、闇だ。その声は反響すらせずにただ消費されていく。

「悪魔、天使――そんな連中がこの世に存在すると知られたら、世界はより混迷を極めるだろうさ。そう、だから、君たちには出しゃばって欲しくはないのさ」
『ご心配には及ばないわ、ジョルジュ・ベルリオーズ。人間には私たちを知覚することは不可能。ただ、私たちがそう望んだ時のみ、私たちの意識にアクセスできるようになるだけですから』

 声が降ってくると同時に、ベルリオーズの目前にの揺らぎが現れた。――明らかに輝きの色であるにも関わらず、それはを照らしはしなかった。それを見て、ベルリオーズは薄く笑う。

「実数と虚数の混在するこの空間バルムンクは、そのもの自体が複素数さ。それ故に現実というアスペクトには重力波程度にしか作用しない。しかし――」
『しかし?』
「わずかなから、宇宙も始まるっていうことさ」
『どうかしら?』

 即座に反問がある。

『私が創発うまれたのは、そうね、この銀河が生まれたくらいかしら――意味なんてないけど。あなたたちを実数だと定義するとして、私はそれを観測するためだけに存在する複素数敵な何かだという解釈をすることは可能かもしれないわね』

 は揺らぐ。ベルリオーズは赤く輝く左目をその揺らぎに向ける。

「あくまでも君は上位にいると言い張るわけだ」
『私は。定数にはないもの』
「ふふふ……。定数というのはね、ただ使役されるためだけに存在する値さ。揺らぐこともできない、当然、変化もあたわない。つまり、君というが変化しないのだというのであれば、君という定数それ自体の存在意義は、定数以外の物が存在するという事実を反定立アンチテーゼとすることで初めて成り立つんだよ。つまり、定数たる君は、君以外のなにかの存在を証明するためだけのものに過ぎないのだと僕は考えているのさ」

 ベルリオーズの言葉にも笑う。

『さすがは人間最高の知性の持ち主ね、ベルリオーズ。しかし、私の存在によって、私以外の物が存在するという証明がQ.E.D.に到達し得るというのならば、私という存在はそれら定義上の後発の事象、その全ての起源オリジンとなるのではなくて?』
上位相スーパークラスの概念だね。僕たち人間もその定義は大好きさ。でもそれは単なる定義の順列の関係似すぎないだろ。その定義の呼び出し元がそれらをどう配置デプロイするかなんて、それこその話だろ」

 ベルリオーズはいささか退屈そうに言った。

『その呼び出し元すら、何かの下位にあるかもしれないし、そしてそれは私たちにですら認識はできない。あなたの好きな自己ダス・イッヒ、そしての関係項のように』
「なるほどね。関係項か。確かに言い得て妙だね。かつてかのキェルケゴールが叫んだ三つの関係項を想起させられるよ。でもね、ティルヴィングを得られた僕と、僕の創り出したジークフリート。僕たちは今、この世界を定義している。この世界を導いている。君たちの望むものとは違う方向へと舵を切りながらね」
『どうかしらねぇ』

 揶揄するようにが言う。ベルリオーズは刃のような微笑みを見せる。

「君がメフィストフェレスだとして、だ。君の幻視している悪魔の道は、いったいぜんたい何処いずこへ向かっていると言うんだい? 君たちはこの世界の滅亡を望むのか。それとも混乱を望むのか。あるいは両方か。それとも変化シフト?」
『さぁ?』

 は心底興味がないと言った声音で応じる。

『私の役割ロールは、あなたにティルヴィングをもたらすこと。それ以上でもそれ以下でもなく。古来より、私は多くの人々にこの剣を貸し与えてきたわ。そして、その全てが例外なく自らを滅ぼし、いかなる記憶からも抹消されてきたのよ』
「なるほど。君は、そう喧伝けんでんするわけだ?」
そうねイエスその通りアファーマティヴ

 その答えに、ベルリオーズは目を細める。

「君は歴代のティルヴィングの所持者たちに、そうやってを標榜して囁くわけだ。なるほど、的だねぇ」
『皮肉にもならないわね、ベルリオーズ。それこそがダス・イッヒなのですから』

 なるほどね――ベルリオーズは頷く。

「でも残念だね。僕は悪魔だの神だの、そんな形而上けいじじょうのものには興味がない。在るべき人々の在るべき形での存続。その道を作ることこそが僕の役割ロールさ」
『人々の淘汰を行うと? その在るべき人々――生命の書に名前の無い者はすべからく死すべしと?』

 その問いに、ベルリオーズは「小さな話さ」と応える。

「消費と耽溺たんできで生かされてきたその意味を、彼らはそろそろ認識するべきなんだよ」
『あらあら、怖い』

 は大袈裟に揺らいだ。

「でもね、君たちがかのファウストをモチーフに舞台を始めようとしうのなら、それは無理さ。だって僕は、神に推挙されるような人間ではないからさ。そもそも僕とメフィストフェレスは出会うことはないのさ」
『確かにね。よしんば……さにあらんとしても、それは分の悪い博打になるわね』

 そう言うなり、は前触れもなく消滅した。再びこの空間バルムンクは闇に充填ちる。ベルリオーズの顔は能面のようにくらい。

「ファウスト、か」

 悪魔よ、そなたは美しい――。

 ベルリオーズはそう呟いて、苦い笑みを見せる。

「セイレーンたちは、さて、僕の望む歌を歌うかな」

 その声が聞こえるのと同時に、闇の空間が消滅した。

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