暦が二〇八三年に変わる。カティは壁に投影されているカレンダーをぼんやりと眺めながら、年末年始休暇の後半戦をどのようにして凌いだら良いものかと思案していた。寮に住むほとんどの候補生は帰郷してしまっており、共用部のどこもかしこもほぼ貸切状態となっていた。
帰る場所などないカティにしてみれば、この一週間以上に渡る施設の全面休暇期間というのは、暇で暇で仕方ない。ヴェーラたちに連絡をとってみるものの、ヴェーラもレベッカも年末年始は何やら守秘義務に絡む事情で身動きがとれないとのことだった。
「つまんないな」
何度も読んだ紙媒体の恋愛小説を読み返しながら、カティは溜息をついた。年末年始の休暇に備えて入手した書籍は、前半の時点ですべて読みきってしまっていた。トレーニングルームだけは一部開放されていたので、ランニングマシーンで汗を流してみたりはしたが、誰もいない薄暗いトレーニングルームで走り続けるのにも、そこはかとなく虚しくなり二時間程度でやめてしまった。代わりに自室で延々と腕立て伏せをしていたりもする。
「ま、平和なのはいいことだ」
カティは書籍を本棚にしまい、大きく伸びをした。休暇に入ってからは、いまのところアーシュオンとの小競り合いの情報もない。
その時、ベッドの上に放置されていた携帯端末が着信を告げる。カティは瞬間的に「繋げろ」と告げる。着信音で発信者を特定できたからだ。
『やっほぅ、カティ！ ヴェーラだよ！』
「知ってる、一週間ぶり――」
『ねぇねぇ、カティ。今どこにいるの？』
カティは携帯端末をデスクの上に移動させる。音声通話だから別にどこでも良かったのだが、なんとなくだ。
「アタシの部屋にいる」
『忙しい？』
「まさか。暇すぎて死にそうだ。暇がどんどん筋肉に変わっていくな」
『カティがますます強くなっちゃうね！ あ、そうそう、マッスルバディの話じゃなくて。もし時間あって暇を持て余してて体脂肪率が下がり過ぎているっていうなら、ぜひともシミュレータルームに来てほしいんだよ』
「うん？ 空軍の？」
『うんうん。空軍の。というか、シミュレータルームったらあそこしかないよ』
何でまたヴェーラたちがあんな部屋に？
カティは首を傾げる。
『クロフォード中佐から許可もらってるし、うん。ブルクハルト教官ももうスタンバってるよ』
「え、なんだそれ。機密事項とかじゃないのか」
『めっちゃ機密！ すっごい機密。国家を揺るがすくらいの機密！ そういうわけだからすぐ来られる？』
「わかった。三十分以内には行く」
『わかった、ありがと、カティ。ベッキー転がしながら待ってるね』
『転がすって何！』
それまで黙っていたレベッカのツッコミが聞こえる。
『じゃ、後でね！』
『ちょっとヴェ――』
突然無音になる自室の空気に、カティは知らず苦笑する。そして素早く制服に着替えて、そのまま寮を飛び出した。夕方に差し掛かろうとする頃合いの空気は文字通り凍てついていて、カティは思わず肩を抱いた。白い息を吐いて、カティは意を決して走り出す。シミュレータルームは、どういう因果なのか極めてたどり着きにくい場所にある。とにかく士官学校内を大きく歩かされるのだ。数年前まではもう少しまともな場所にあったらしいが。今でも道に迷う同期生が度々発生している。
「やれやれだ」
カティは校舎内を早足で突き進みながら手に息を吹きかける。未だに冬の寒さには慣れない。一生慣れないんじゃないか――カティはそんなことも思う。
「って……」
シミュレータルームに入るなり、カティは立ち止まった。見慣れたはずの景色が、そこにはなかった。多くの筐体が並んでいた部屋の中央部分には、巨大過ぎる黒い匣が二つ。乗用車よりも大きい縦横に、天井まで届くほどの高さがある。床面積だけ見ても、カティたちの使う筐体の四倍近くを使っている。その匣からは数多くのケーブルが伸びている。冷却システムの駆動音で頭がどうにかなりそうなほどだった。
その異様な景色を前にして立ち竦んでいると、奥にある方の匣の影からヴェーラがひょっこりと顔を覗かせた。
「カティ！」
「お、おう」
ヴェーラの後について、レベッカも出てくる。レベッカは後ろを振り返って何事か呟いていたが、冷却システムの音でカティには聞こえない。
「うるっさいよね、これ！」
カティのそばに駆け寄ってきたヴェーラが顔を顰めながら言う。カティは「そうだな」と言いかけて硬直した。レベッカの後ろから、三名の将校が姿を現したからだ。クロフォード中佐とパウエル少佐、そしてもう一人は知らない顔だった。
「クロフォード中佐」
カティは一番階級の高いクロフォードの名を呼んで敬礼した。クロフォードは「正月早々ご苦労」と投げやりに言って、カティの知らない将校――憲兵隊の服を着ていた――を顎で示した。
「彼は海軍の教練主任。フェーン少佐だ」
「フェーンだ。この二人から君の話は聞いている」
フェーン少佐はヴェーラたちを見ながら言った。カティはいささか緊張した表情で、フェーンなる人物を観察する。身長は百八十五センチあるカティよりもずっと高い。どちらかというとスレンダーなシルエットだったが、その全身には無駄なく筋肉がついている。相当に鍛えられた身体だというのは一目瞭然だった。まるで格闘家だ。その短く刈り込まれた金髪と鷹のように明茶の瞳は、さながら猛禽類だ。誰もが背筋を伸ばしてしまう、そんな雰囲気だ。類にもれずカティの肩にも力が入る。
「怪しい男だろ」
クロフォードはそう言い放ち、後ろにいたパウエルは天井を仰いでいる。言われた当のフェーンはまったく無表情にクロフォードを無視した。
「私はもともと参謀部にいたのだが、わけあって憲兵の立場にいる。そしてわけあって海軍の教練主任を務めている。すべて政治の都合だと理解してもらって構わない」
低い声でそう伝え、フェーンは鋭い視線でカティを見た。カティはぎこちなく頷く。余計なことを喋るなよとフェーンは言ったのだ。
「フェーン少佐は参謀部第六課にいたんだって」
ヴェーラが言う。
「あのエディット・ルフェーブル中佐の同僚だったんだって」
「……その情報は今必要か？」
フェーンは無感情にヴェーラに訊く。ヴェーラはやや憤然とした表情を見せる。
「カティは頭がいいから、必要な情報かそうじゃないかは自分で判断できるよ。機密情報以外は全部教えたほうがいい」
ヴェーラは強い口調でそう言い、カティは肝を冷やしてレベッカを見た。が、レベッカは慌てた風もなく、眼鏡のレンズを拭いていた。それを見て、カティは「いつものことなのか」と理解する。
「……まぁ、君がそう言うならそういうことにしよう。それで、カティ・メラルティン。突然の呼び出し申し訳ないが、ここにいる我々の顔ぶれを見れば、ある程度察しはつくか」
「機密の何か、でしょうか」
「そうだ。今ならやめてもいいが、一度関わってもらったら最後まで付き合ってもらうことになる」
フェーンはそう言って一旦言葉を切る。カティはヴェーラとレベッカを見て、小さく頷いた。
「やります。二人が関係するのですよね」
「詳しく聞かなくていいのか？」
「二人が知ってるなら、それで」
カティは明快にそう言った。ヴェーラとレベッカが「やったね」と声をかけあっている。その反応にフェーンは腕を組んで「ふむ」とつぶやく。そこでパウエルが言った。
「メラルティンは、空軍の候補生の中では上級生を含めて群を抜いて優秀。二つ返事で協力を得られるならまことに結構だと思うが」
「……だな。私も参謀部だ憲兵だのが長いからな。多少疑り深くなっているようだ」
「仕事だからな、それが。仕方ないさ」
パウエルはそう言って、フェーンの肩に手を置いた。フェーンは腕組みを解いて、モニタルームの方に視線を送る。ガラスの向こうには、いつものようにブルクハルト中尉が座っていた。どうやら本でも読んでいるらしく、気付いた様子はなかった。
「あの、フェーン少佐」
カティは意を決して声をかける。フェーンは厳つい顔をカティに向ける。カティをして思わず息を呑むほどの迫力だった。
「この大きすぎる筐体はいったい……？」
「戦艦用のシミュレータだ。システムの都合上、どうしてもこのサイズになってしまった」
「せ、戦艦、ですか？」
戦艦なんて、かれこれ一世紀も昔の遺物だ。まさかこの時代に「戦艦」などという単語を聞くことになるなんて。カティは思わず眉間に縦皺を刻んだ。それを見てクロフォードが笑う。
「その表情もやむなしだ。戦艦、だからな。だが、メラルティン。もうまもなく、新時代の戦艦が生まれるのさ。歌姫が駆るのに相応しい戦艦がね」
「歌姫の戦艦……」
カティはヴェーラとレベッカに視線を送った。二人は神妙な顔でカティを見つめ返してくる。レベッカが幾分硬い声で言った。
「歌姫計画――」
「そうだ」
フェーンは頷き、低い声で宣言した。
「君たちにはこれから、セイレネスの調整プログラムに参加してもらう」
その言葉に、カティは思わず震えた。それは、得体の知れない震えだった。