フェーンはそんなカティの様子をしばらく眺め、何かに納得したのか無表情のままで小さく頷いた。
「歌姫計画の名前は誰もが知っているところだと思うが、その実態は限られた者しか知らない。簡単に言えば、アーシュオンに対する切り札を確保するための計画だ」
「切り札、ですか」
「知っての通り、我が国はジリジリとアーシュオンに差をつけられ始めている。遠からず逆転不可能な領域に到達し、我が国はアーシュオンの属国となることとなる。というよりも国際社会は現状すでにそうなっていると判断している」
フェーンは低い声で言う。カティはぎこちなく頷いた。そのことはカティも――そして多くの国民も――肌で感じてはいた。ヤーグベルテの中央政府が未だ外交で強気に出ていることに違和感を覚える国民も少なくはない。
「ここにいるヴェーラ・グリエールとレベッカ・アーメリングこそが、この起死回生のプロジェクトのキーパーソンだ。このプロジェクトのために、二人は今、ここにいる。もっとも、そのことについては二人から聞いているかも知れないが」
フェーンは鋭い目でヴェーラを見たが、ヴェーラはケロッとした顔で「教えちゃダメってところは教えてませーん」などと弁解していた。フェーンの後ろではクロフォードとパウエルが苦笑している。フェーンは咳払いを一つしてからカティを直視した。
「そこで本題だ。我々はセイレネス・システムの起動実験を行いたい。……のだが、このシステムは精神状態の影響をダイレクトに受ける。そして現状、二人の状態は良いとは言えない」
「初めてだし」
ヴェーラはカティの肘のあたりを引っ張りながら言う。
「緊張してるだけ。心配しないで。ね、ベッキー」
「ええ。ちょっと怖いんです、これ」
「……というわけだから、そのノイズを少しでも低減するために君という存在が浮上した」
「なるほど」
カティは頷く。
「わかりました。どこまで役に立てるかはわかりませんが」
「役に立たなくても、それは一つの結果だ。気にする必要はない」
フェーンはそう言って、モニタルームで読書中のブルクハルトに顔を向ける。
「中尉、頼む」
『了解。まず三人をシミュレータに』
ブルクハルトののんびりした声が、張り詰めた空気を少しだけ弛緩させた。
部屋の照明が一段階暗くなる。二つの巨大な黒い匣から、ほんのりとオーロラのような輝きが漏れ出ていた。カティはそれをひとしきり眺めてから、自分が普段使っている航空機用シミュレータに乗り込んだ。ヴェーラとレベッカもそれぞれの筐体に身体を落ち着ける。それを見届けたフェーンたちは、揃ってモニタルームの方へと移動した。
フェーンはブルクハルトの手元に視線を送ってから、起動モニタが点灯している三つの黒い匣を睨む。
「早く実験のデータを寄越せと催促しきりだ」
「ルフェーブル中佐か?」
クロフォードがニヤリとしながら言う。フェーンは横目でクロフォードを睨み、無感情な声で応じた。
「第六課だ」
「同じだろ」
「否」
「真面目様なこって」
クロフォードはそう言ったが、フェーンは表情をまったく変えなかった。
カティは航空母艦から出撃するなり、すぐ前方に展開していた二隻の巨大な艦船を視認する。常識外れの巨大さに思わず計器の表示を確認したが、間違いなく全長六〇〇メートルと表示されている。航空母艦の二倍にも迫るスケールだ。随伴していた駆逐艦たちが、異常に小さく見えた。
味方の戦力はこの二隻の戦艦のみ、という設定が告げられる。それと同時に、戦艦に随伴していた駆逐艦たちは、次々と領域を離脱し始める。航空母艦も前進を止めていた。カティの他の航空戦力は十一機。全部で一ダースの飛行隊だった。
『君のミッションは襲ってくる敵航空戦力から、二隻の戦艦を護衛すること。君の僚機には、君の同期の候補生のデータを使わせてもらっている』
……てことは、エレナとヨーンのデータ以外はあまりアテにできないってことか――カティはドライに考える。
『敵航空戦力は六十。全員がエース級だ。艦船は一個艦隊相当。だが、戦闘艦たちについては君は考慮する必要はない。すべて戦艦が相手する』
「五倍……それに、一個艦隊をこれだけの戦力で?」
『頭のおかしい戦力差に見えるかもしれんが、これは切り札だからな。このくらい派手なパフォーマンスができなければ話にならない』
なるほど。カティは唾を飲み込みつつ納得する。が、シミュレータでなければ到底承服できない戦力差だった。
『我々ヤーグベルテはこのような戦力差で戦わざるを得ないことが間々ある。戦略のミスと言われればそれまでだが、残念ながらそのようなことは珍しくもない。この歌姫計画》は、そのような絶望的な状況から兵士たちを救うための、ある種希望の計画なのだ。その遂行のために力を貸してもらえるとありがたい』
「自分は――」
カティは遥か水平線ギリギリのところに敵機を視認する。やはり、ステルスシステムの前に、レーダーは役に立たない。カティは素早くターゲティングシステムに敵機をマークする。有効射程にはまだ遠い。だが、先制攻撃は可能だ。
「自分は、計画がどうのとか、そういう話はわかりません。ですが、ヴェーラとベッキーが何かをしなければならないというのなら、自分は二人のためにできることをやります。国を守るために戦う――漠然とそう考えていましたが、もし、許されるなら」
カティの左手が目にも留まらぬスピードで仮想キーボードを叩く。僚機たちがそれに同期しているという情報がHUDに投影されてくる。
「二人のために戦えるのなら。自分は何にでもなれる気がします」
カティは接近してくる六十機もの攻撃機に対して先行ロックオンを実施する。この状態はローカルステータスであり、そのために敵機には察知されない。このプログラムの基礎を開発したのは、ボレアス飛行隊の隊長、異次元の手イスランシオ大佐だったが、それをカティがアレンジしたのだ。ロックオンがロックオンを重ねていく。敵機のデータリンクを遡って、関連機体を全て捕捉する。
『こちら、ヴェー……じゃなかった、戦艦メルポメネ。シーケンス1・1・1、クリムゾン1とのデータリンク開始。戦艦エラトー、シーケンス、1・1・2、確認』
『戦艦エラトー、メルポメネのバックアップシーケンス開始。1・1・2、完了。シーケンス、続行。関連API接続、準備完了!』
カティの機体に次々と情報が送り込まれてくる。さながら情報の津波である。機体の演算装置が悲鳴を上げ始めている。カティのプログラムがギリギリ動作しているレベルだ。
「ちょ、待て。情報量が多すぎる。フィルタを仕掛けてくれ。リソースが限界だ」
『うっ、ごめん。今すぐ』
ヴェーラのその反応から数秒で、カティの機体の演算装置に余裕が生まれてくる。この時間で状況判断とフィルタリングを実施したということか。カティは僚機を散開させる。
『カティ、じゃなかった、クリムゾン1。航空戦力、任せていい?』
「やるしかないだろ」
カティは頷いて、目を細める。水平線に浮かび上がる六十ちょうどの照準円。カティは一つの迷いもなく、搭載多弾頭ミサイルを全て発射した。ミサイルが機体から離れたと同時に、カティの機体は急激に加速する。自分がHVAPにでもなったような気分だった。
敵機からの強烈なプレッシャーを感じながらも、カティは確かに高揚感を感じていた。