ひどい夢だ。悪夢だ。
――イスランシオはそう考える。圧倒的な絶望感、例えようのない無力感。苛まれる。夢だというのに、どうしてこうまで胸が苦しい。なぜここまで震えている。
そこでイスランシオは、自分が目を閉じていることに気が付いた。しかし、この暗闇を払拭するだけの力が湧いてこない。まぶたが縫い合わされてでもいるのではないかというほどに、視界が開けない。
大佐、大佐。
誰かが呼びかけている。その声を知覚してようやく、イスランシオは意識の焦点を合わせることが出来た。そして全身の力を込めて目を開ける。天井灯の過剰なまでの明かりが、イスランシオの眼窩を貫き視覚を焼いた。
「大佐、聞こえますか?」
聞き覚えのある、軍医の声だ。イスランシオは「ああ」と短く応答して、今度は身体を起こした。医務室のベッドの上にいることはわかっていた。時計を見ると午前七時ちょうどを示していた。
「俺はどのくらい寝てたんだ」
「昨夜遅くに発見されて以来ですが、半日は経っていませんね」
熊のような体格の軍医が、イスランシオの状態を一通りチェックする。その後「身体に問題なし」と宣言してからデスクの上の安定剤の瓶を手にとった。手渡されたそれを見て、イスランシオは怪訝な表情を見せる。
「そうだ。セプテントリオはどうなった」
険しい表情のまま尋ねると、軍医は表情を消して首を振った。
「文字通り潰滅状態にあります。基地要員はほぼ全滅。現地は混乱していて連絡もままなりません」
「そう、か」
あの爆発では、そうなるか。
イスランシオの中の冷静な部分がそう理解する。しかしその意識の大部分は未だに混乱から抜け出せていない。イスランシオは安定剤の瓶を一瞥し、軍医を見た。軍医は「必要なものです」と短く言ってから、補う。
「大佐は過度なストレスに晒されすぎました。他の隊員たちもです。今は薬ででもなんでも、とにかく誤魔化していくのが最良です。さもなくばまともな判断もできなくなりますよ」
「俺がストレスで、か」
信じ難いとイスランシオは反論しかけたが、飲み込んだ。現に俺は倒れていたではないか、と。イスランシオは着実に普段の冷静さを取り戻しつつあった。
「あれだけのことがあったのです。何もおかしいことはありませんよ」
軍医はそう言って、自分も同じ安定剤を飲んだ。イスランシオは「そうだな」と同意して、さっそく軍医の前で錠剤を飲み込んだ。軍医はどことなく人懐こい顔で微笑むと、ハンガーに掛けられていたイスランシオのジャケットを取り、差し出した。
「ボレアスの主力も、そしてなにより大佐が無事だったのです。どうにでもなります」
「……わかっている」
何か忘れていないか、俺。軍医に背を向けてジャケットを着ながら、イスランシオは眉根を寄せる。セプテントリオの基地が消滅した。それはわかる。理解した。しかし、俺は今、とても大切な何かを忘れている。夢は? あの夢で何を見た。
薄暗い廊下。響く重低音。微細な振動。いつもどおりの感覚なのに、記憶に風穴が開けられたかのようにスッキリしない。
CICに向かって歩きながら、イスランシオははたと思い出す。夢で見た景色を。黒髪の女性がいた。知っているのに思い出せない。顔はイメージできるのに具体化しようとすると消えてしまう。陽炎あるいは、蜃気楼。掴めない。捕まえられない。
あの映像はいったいなんだったんだ。
いや、夢だ。夢に整合性を求めるな。
イスランシオは首を振る。そして後頭部を一度強く叩いた。衝撃とともに少しだけ意識がはっきりする。それとともに黒髪の女性の姿はますます薄れてしまった。
「セプテントリオ……か」
あの街は故郷のようなものだった。帰るべき場所。大切な場所。確かにそうだった。
なのになぜだ。口にしてもまるで空虚な感じがする。映画で目にした架空の街かなにかのような。舞台のセットのような。そんな薄っぺらさを感じてしまう。そもそもが「セプテントリオ」なる街が存在しなかったのではないかというくらいに。
イスランシオの足取りは、さながら酔歩だった。