06-2-3:清澄なる空の下

本文-ヴェーラ編1

↑previous

 タイヤが静かに地面を転がり、ほんの僅かに搭乗者たちに振動を伝えてくる。サスペンションがいい仕事をしているおかげで、二人の空気は穏やかに揺蕩たゆたっていた。ボリュームを絞られた音楽は、沈黙よりも心地よい静寂を二人の鼓膜に与えている。

 道路には何もいなかった。車も、人も、何も。こんな夜だ。誰もが報道番組にかじりついているに違いなかった。そもそも、セプテントリオのような内陸基地すら一瞬で消し飛んだのだ。この統合首都が今まさに消えてなくなったっておかしい話ではなかった。だから、今夜外出するなんていうのは、正気の沙汰とは言えなかった。カティたちだってエレナに促されなければおとなしく帰宅していたに違いない。

 しかしそんな時でも、信号機は義務的に色を変え、街頭は道路を照らし、コンビニの無人店舗は視覚にうるさく輝いていた。その一方、空に目をやると空は透き通った紺色をまとっていた。二人の進む先にある月は、いつもよりもまぶしく感じられた。しかし明るい空であるにも関わらず、星々は鮮烈に煌々たる明かりをこの地球に投げかけていた。

「さっきはヴェーラにあんなこと言ったけどさ。僕にも罪悪感みたいなものはある」

 ヨーンがゆっくりとした口調でそう言った。社内の程よい熱気と、キスの余韻に浸っていたカティは、ハッとしたようにヨーンの横顔を見た。

「多くの人が悲しんでいるのに、僕は何やってんだって。確かに思わなくはないんだ」
「アタシも。だけど、アタシは今から帰れって言われて帰れるほど素直な人間じゃない」
「言わないよ」

 ヨーンは前を見たまま苦笑する。カティは少しホッとする。

「ヨーン、アタシ……薄情なのかもしれない」
「薄情?」
「そう、薄情」

 カティは何度か頭の中で言葉を転がした。そして小さく頷いてヨーンに顔を向ける。

「アタシは家族も友だちもみんなアーシュオンに殺された。そして今夜、ものすごい数のヤーグベルテの人々が虐殺された。だけど、だけどね? アーシュオンに対する憎しみが湧かないんだ」
「憎くない?」
「憎くないわけじゃない、っていう理由を一生懸命作って納得してる。憎いって思っていることにしてる。そんな気がする。みんな、家族みんな、あいつらに殺されたのに。どうしてアーシュオンを滅ぼしてしまえ、とか思えないんだろうって」
「そうか」

 ヨーンはハンドルから手を離す。いつの間にか自動運転オートマに切り替えていた。ヨーンは左手でカティの右手を包む。

「憎む必要なんてない」
「憎みたいのに」
「憎んでないんだ、君は。アーシュオンっていう馬鹿みたいに大きな括りでは人を憎めないってことだよ」

 ヨーンの静かな言葉に、カティは沈黙する。

「カティ、君がそうであることにはすごく意味があるよ。君は未来の超エースだ。国の趨勢さえ変えてしまうかもしれない。シベリウス大佐やイスランシオ大佐がそうであるように、命運を担うくらいの人になるかもしれないよ」
「……買い被り過ぎだ」
「いや、僕は君がになると信じてる。人類史上最強の戦闘機乗りファイターになる。僕は知っている」
「だから――」

 カティは言い返そうとして、何を言ったら良いものかわからなくなって黙ってしまう。ヨーンはまたあの困ったような微笑を見せて、カティの手を軽く叩いた。カティは掌を上に向けて、ヨーンと手を握りあう。

「憎しみで戦争をするべきじゃない。憎しみは憎しみを生むし、憎しみは決して消えない。十年や二十年程度の時間で解決できる、なんてことは絶対にない。憎しみを生んだ人が死に絶えて、ようやく半減期だ」
「哀しいな」

 カティはこれまで読んできた物語を思い返しながら呟く。戦争の行き着く先は、いつだって悲劇だ。悲劇しかない。多くの人が傷つき苦しみ失ってしまう。

「アタシは……傷付いてほしくないんだ。誰にも。アタシみたいな思いを、誰にもさせたくない」
「カティ」

 ヨーンは静かに呼びかける。そのあまりにも深く優しい声音に、カティの目から一筋涙が落ちる。

背負しょい込み過ぎたら、だめだよ。僕だってジュバイルだって、ヴェーラやベッキーだっているんだ。一人で戦う必要はないし、僕たちはそうさせるつもりもないからね」
「でも、アタシは――」
「愛してる」
「えっ……」

 不意に告げられた言葉に、カティは露骨に挙動不審になる。

「喜びも悲しみも分け合う。そういう関係でいたいんだよ、僕は」
「アタシは、だって、ほら」
「君の過去をあれこれ掘り起こすつもりはないよ。これからの話。君の過去は君が折り合いをつけるべきものだ。その時に僕が必要ならどんどん使って欲しいけど」

 ヨーンはカティの手を強く握る。カティも負けずに握り返す。カティよりもずっと大きな手は、それでも全く動じなかった。意地になって握ってみても、ヨーンは痛がるそぶりも見せない。

「ヨーンってさ、まるで主人公じゃないか」
「主人公?」
「何の非の打ち所もない。アタシはものすごく……その、完全に惚れてる。あ、あ、アタシはヒロインなんかじゃないと思うけど、でも、お前は本当に良いやつで」
「冗談じゃないよ、カティ」

 ヨーンは苦笑いを見せる。

「主人公は君だよ。これは、君の、物語だ」

 そうこうしているうちに、車が自動的にだだっ広い広場で停車する。丘の下にある駐車場だった。

「ここは?」
「ここが僕が案内できる唯一のデートスポット。っていうか、僕の隠れ家みたいなもの」

 ヨーンは後部座席からジャケットを取り出して、カティに手渡した。

「お前のは?」
「僕は大丈夫。いざとなったら温めてくれよ」
「ばか」

 カティはありがたくジャケットに袖を通して、車外に出る。二月の夜だ。とても寒い。しかしヨーンは慣れた様子で空を見上げている。

「良い空だ」

 ヨーンの呟きを聞いて、カティもその場で空を見上げる。燦然たる輝きが降り注いでいる。吸い込まれてしまいそうなほど空は高く、月は青く、地平線の彼方までが恒星の輝きで埋め尽くされていた。

「こんなところが統合首都にあるなんて」

 カティの故郷でもここまで美しい星は見えた記憶がない。

 二人はぼんやりしながら傍にあったベンチに腰をおろした。座面が冷たくて、カティは一度座り直した。そして右手でヨーンの左手を握りしめる。体温を手渡そうとするかのように。

「ヨーンてさ、モテたんじゃないのか?」
「冗談」

 ヨーンは右手を振った。

「僕はいつだって独りだったんだ。君やジュバイル……エレナに出会えなかったら、今だって独りさ」
「そんな風には見えないけど」
「僕はコミュ障だからさ」
「嘘だ」
「嘘じゃない」

 ヨーンは右手でカティの頬に触れた。二人の顔は近付いたが、キスはしなかった。お互いに躊躇ったからだ。そんな自分たちに苦笑しつつ、カティは呟いた。

「星が綺麗だね」
「月も綺麗さ」

 ヨーンの言葉に、カティは一瞬つんのめった。月が綺麗ですね――そんなことを言う文学作品があったはずだ。ヨーンが知っているかはわからなかったが、カティの胸には突き刺さっていた。

「あ、アタシさ。こんな風に星を見たのは初めてだと思う。小説とか映画とかで想像したりきれいだなって思ったりはあるよ? でも、こうしてアタシの目で見て感動したのは初めてだ」
「うん?」
「気にしたことがなかったんだ、星とか、さ」
「でも、これからはきっと気になるよ」
「そうだな」

 カティは白い息を吐いた。

「あ、でもさ、ヨーン。今は空は汚れてるって聞いたことがある」
「うん、そうだよ。だから、百年、二百年前の空は、こんなのよりももっとずっと輝いていたはずだよ」

 ヨーンはカティから手を離すと、そっと肩に手を回してくる。

「絶対、コミュ障じゃないだろ、ヨーン」
「君に対してどうしたら良いのかはわかる。それだけ」
「……ったく」

 カティは髪をかき回して、ヨーンの腰に手を回す。仕返しのつもりだったが、ヨーンは全く動じなかった。

「昔は六等星だって普通に肉眼で見えたらしいんだよ。いまはそうだな、せいぜい三等星。僕たちの目だから、まだ五等星がギリギリ見えているんだ」
「その何等星ってのはよくわかんないんだけど、つまり暗い星はほとんど見えてないってことでいい?」
「そう。でも、ずっと上空に上がれば、昔の空が見えるんだ。僕が空軍に入りたい動機。それはね、アーシュオンをどうこうとかそういう話じゃないんだ。空を見たい。星を見たい。宇宙飛行士なんて職業がなくなってしまったのは本当に哀しい。だから僕は、仕方なく飛行士パイロットを目指している」
「そうなんだ……」

 言葉に迷うカティに対し、ヨーンは音を重ねる。

「不純な動機なんだ。だから愛国心とか復讐心じゃないよ。かもしれないけど」
「敵を殺すことになるのに?」
「だとしても、僕は昔の空を見たいんだ」
「それさ、空軍じゃなくてもいいんじゃないのか? 旅客機だってあるし」
「戦闘機じゃなきゃだめなんだ。決められた航路を飛ぶ仕事じゃなくて、僕の意志で飛びたい。戦闘機が自由であるとは思わないけど、取り得る手段の中で一番自由なのが戦闘機なんだ」
「そっか」

 カティは納得する。ヨーンの論理的な頭脳が導き出した答えは、きっと間違えてないだろうと。

「あのね、ヨーン」
「うん?」
「アタシ、知識がなくてごめん」
「カティ。ごめん禁止」
「え、でも」
「君の言葉を全部禁止させるつもり?」
「……ごめん」
「もう」

 ヨーンは苦笑すると、カティの頭に手をやって抱き寄せる。

「見て、カティ。あれは火星だ。あっちのが木星。目立つヤツらね」
「あ、うん」
「それじゃ、カティに質問だよ。この太陽系には惑星はいくつあるっけ?」
「バカにしてる? 八個だろ。そのくらいはさすがに――」
「正解」

 ヨーンはまたカティの頭を撫でた。カティは思わず首をすくめる。

、八個だからね」

 静かに、重々しく、ヨーンは言った。

↓next

タイトルとURLをコピーしました