血を滴らせながら、フェーンはやっとのことでヴェーラたちと合流する。幸運にも生き残っていた海兵隊と合流することができたからだ。とはいえ、彼らはフェーンの目的のために一人また一人と犠牲になり、先ごろついに全員が戦死した。そしてそれと時を同じくして、暗い校舎内にこだましていた銃撃音が一つもなくなった。それが意味するのは、つまり、味方部隊の全滅だった。
「レクセル大尉はどうした」
フェーンはヴェーラたちの護衛についていたジョンソン兵長とタガート一等兵に尋ねる。ジョンソンが浅黒い顔を顰めて応じる。
「大尉は、我々を先に」
「……そうか」
事情を理解したフェーンは短くそう応答した。レクセル大尉はフェーンの数少ない戦友の一人だった。信頼の於ける人物だからこそ、歌姫たちの護衛を任せたのだ。そして彼は上手くやった。フェーンとレクセルの目的はまもなく完遂されようとしている。ヴェーラとレベッカがシミュレータルームに辿り着けさえすれば――。
「フェーン少佐、あの」
ヴェーラが青白い顔のフェーンに向かって一歩近づく。
「その手は」
「ああ、やられた。大したことはない」
「そんなはずない、その出血――」
「黙れ。命令に従え。シミュレータルームに辿り着き、セイレネスを起動させろ」
フェーンは可能な限り声を張る。
「人にはな、各々やるべきことがある。そしてこの事態を打開できる可能性を持っているのは、お前たちだけだ」
「しかし少佐」
レベッカがおずおずと尋ねる。
「セイレネスを起動させて、それから一体どうすれば」
「セイレネスに訊け」
フェーンは荒い息を吐きながら、壁に背を預ける。もはや自力で立っているのも至難だった。フェーンは苦い表情を浮かべて「早く行け」と右手の銃を振る。
「少佐も一緒に」
ヴェーラが言うが、それはタガートが首を振って止める。ジョンソンがヴェーラとレベッカを先へと導いていく。フェーンは「良い判断だ、一等兵」と告げる。
「そうだ、一等兵」
フェーンはタガートに呼びかける。
「生きて出られたら、ルフェーブル中佐に伝えてくれ。逃し屋のルフェーブルだ」
「存じております」
タガートが沈鬱に応じる。フェーンは呼吸を整えてから、ゆっくりと言った。
「俺の誕生日はもう忘れてくれて良い。それだけだ」
「しかと」
タガートはそう言い、踵を返してヴェーラたちを追った。
「寂しいものだな」
――この暗い中に一人で最期を迎えるというのは。
いや、一人ではないか。
足音が近付いてきている。三人分だ。そしてそれは決して友好的なものではないと、フェーンは理解している。音の方に目を凝らすと、やはり三人。二人は例の黒い重甲冑を身に着け、一人は軽装――いや、ヤーグベルテ海兵隊の制服を着ていた。
「お前……!」
ヤーグベルテの制服そのものは別に驚くに値しない。しかし、それを着ている人物に見覚えがあった。
「ヴァシリー……!?」
「久しぶりじゃないか、アンディ」
男はニヤリと笑うと、躊躇なくフェーンの右膝を撃った。大口径の銃弾に貫かれた膝は粉砕され、右足は文字通りに千切れた。
「ぐっ……」
意識が朦朧としていたことが幸いしたのか、フェーンはさほど痛みを感じていなかった。しかし、ずるずると壁を滑るようにして床に倒れ込んだフェーンには、もはや起き上がるほどの力すら残っていない。
「お前は、戦死したはずでは」
「戦死ィ?」
ヴァシリーは左手でこめかみを掻く。そしてわざとらしく「ああ!」と声を上げる。
「あれな。先日のあれか。あれで死んだのは俺の一部であって俺じゃない。俺はいくらでも再生するし、そもそも死なないんだぜ」
「何を言っている」
「ははは、そもそも十二年前に死んだのが、多分本当の俺さ。第三次ユーメラ沖海戦。あれで俺は死んで、その直後に起きたのがあれよ、アイギス村の事件ってやつ」
「どういうことだ……」
アイギス村虐殺事件。カティ・メラルティンが全てを奪われた事件だ。
「それ以来、俺は悪魔との契約に従って動いているのさ。悪魔に熱心に勧誘されたからね、断れなくてさ」
とぼけたように言うヴァシリーの顔は、フェーンからはよく見えない。
「悪魔だと? 何を言っている」
「おっと、セイレネスなんていうシステムに関与しておいて、そういった超常の存在を信じないなんてありえねぇよ」
「まさか、ゴーストナイト……」
「とも言われるな。はるか太古から集められてきた死者の魂、格好良く言えばエインヘリャルだ」
「神々の黄昏を戦う戦士、か。実に笑わせる」
フェーンは意識を繋ぎ止めながら吐き捨てる。今は一秒でも時間を稼ぐ必要があった。
しかし、ヴァシリーがその狙いに気付かないはずがない。帯同してきていた二人の兵士に命じて、歌姫を殺せと命じている。
「させるか」
フェーンはありったけの力で拳銃を撃つ。それは兵士の一人の背中に命中したが、それだけだった。ヴァシリーの銃弾がフェーンの右手首を粉砕し、爪先が額を割った。しかしもうほとんど血は流れない。
「お前はなんのために――」
「殺人衝動に身を任せるのは実に楽しいぜ。人としての頸木、馬鹿げた倫理。そんなものから解き放たれた。楽しいぞ、抵抗すら出来ずに泣き叫ぶだけの弱者を一方的に嬲り殺すのは」
「クズが」
「はは、俺もそう思っていたよ。でもな、考えてみろ。口ばかり達者な連中、醜い生存本能に衝動的に動かされる程度の知性。そんな連中がこの俺と同じような姿かたちをしている。傲慢じゃないか。不遜じゃないか。腹立たしいだろう? 真なる人間の俺と、猿の延長でしかない無能ども。そんなの裁くしかないじゃないか。わかりやすく上下関係を教えてやるべきじゃないか? 猿にでもわかるように、わかりやすく。これは慈愛だよ。慈悲だよ」
ヴァシリーの演説。フェーンはそれを聞き流す。もはや集中するのもバカバカしいとフェーンは思っていた。
「人は進化するべきなのだ。俺のように人間という不埒にして下らないフレームワークから解き放たれた存在によって」
「それならお前たちではなく、あの子たちが担う方が未来としては楽しかろう」
「歌姫計画か。なるほど? それもまた、人の進化を担う計画だというのか」
「さぁな」
フェーンはヴァシリーに鋭い視線を送ると、息を吐いた。二度と吸うことは叶うまい。
エディット……。
ヴァシリーの拳銃がフェーンの額に向けられる。
あの子たちを頼む。
君のおかげで、俺は――。
フェーンの視界が光に満ちる。
『まったく、君がこうまでゴリ押ししてくるなんて、思ってもいなかった』
記憶の中のエディット・ルフェーブルが笑う。まだファーストネームでは呼び合っていなかった頃の記憶だ。
『こんな顔の女のどこがそんなに良いんだ』
ルフェーブルは自分の顔の火傷を指差しながら笑う。
『君は大概に不可解な男だが、私をそこまで愛そうとするその姿勢が一番理解不能だ。運命? ははは! 君がそんな単語を口にするとは思わなかったよ。存外、ロマンチストなんだな!』
その後、フェーンとルフェーブルは男女の関係になり、恋人として時を共にする。
楽しかったぞ、エディット――。次は君のその不器用な愛情を、あの子たちに向けてやってくれ。
『心配するな。万事、私に任せておけ』
エディットはフェーンを抱きしめてそう囁いた。
フェーンは――。
彼の頭部はもう原型を留めていなかった。
「ふぅむ」
一人残されたヴァシリーは、血と脳漿で汚れに汚れたブーツをニヤニヤと見下ろして思案する。
「アイギス村、となると、あのガキの生き残りがここにいるんだっけ」
ミスティルテイン、だったか。
せっかくだから顔を見てやろう。
ヴァシリーは愉快そうな表情で頷くと、部下たちが向かった方向に背を向けて歩きだした。
「妹の不始末の責任も取らなきゃなぁ」
その呟きを聞くものは、もはやいない。