非常用電源で稼働している照明は薄暗い。幸いにして、セイレネス・シミュレータの電源は全く別系統だったので、今回の電源遮断の影響は受けていない。その経路情報は技術責任者であるブルクハルトすら知らない。
ヴェーラとレベッカが収容された筐体から送られてくる情報に異常は見られない。しかし今、何がどうなっているべきなのかを、ブルクハルトは知らない。ただ、フェーンに言われていた通り、二人の歌姫をシミュレータ筐体に乗せて起動しただけだ。
「中尉、何が起きるのですか」
部屋の入口で警戒にあたっているジョンソンが尋ねる。ブルクハルトは「知らない」と無愛想に応え、端末に幾らかの情報を追加で打ち込んだ。
「だけど、何かは起きる」
ブルクハルトは冷静だったが、それでも焦っていないわけではなかった。恐怖もあれば不安もある。しかし今はそれ以上に、何が起きるのか、どういうメカニズムでそれが発生するのか――そういう方向に向けた知的好奇心の方が強かった。このシミュレータはただのシミュレータなどではない。その事実が彼を興奮させてもいた。
「うん?」
端末のモニタ一面に広がったアラートメッセージの中に、ブルクハルトは見慣れない言葉を見出す。
「リミッター解除……?」
フム、とブルクハルトは一瞬腕を組んでから、猛然とコマンドの入力を始めた。手順を誤ったらやり直し。誤作動防止ギミックとしては安っぽいが、操作者を冷静にさせるという意味では良い選択だ。ブルクハルトはそう評価しながら手順を進めていく。
「ジョンソン兵長、足音!」
ドアに耳を当てていたタガートが鋭く発する。たちまち室内の空気が緊張を孕む。
「数は」
「一、じゃないな、二だ」
あの化け物が二匹か。ジョンソンとタガートは顔を見合わせ、ニヤリと笑う。
「こいつぁ不味いですねぇ、兵長」
「だなぁ、タガート」
二人はアサルトライフルと拳銃を確認し、ブルクハルトを見た。
「中尉は隠れていて」
「そう言われても、あんまり意味はないよね」
ブルクハルトは最後のコマンドを入力する。リミッターの解除が実施されている――ようだ。端末内に次々状況が進んでいく様子は示されているが、物理的には何も起きていない。
「なるがまま、さ」
ブルクハルトは筐体の前にあぐらをかいて座り、二つの筐体から送られてくる各種パラメータの点検を始める。その様子を見て、ジョンソンが肩を竦める。
「なかなか豪胆な技術屋さんだ」
「なに、実装当日にプログラムの仕様変更が入った時の方が、よほど青くなるってものさ」
「そんなものですかね?」
「ま、単体試験すら済んでないシステムを起動するという意味では、いずれにせよ正気の沙汰じゃないけどね」
ブルクハルトは真剣な表情で端末を睨み、「よし」と満足げに頷く。ジョンソンとタガートは顔を見合わせて、アサルトライフルを構え直した。
「流れ弾までは責任負えませんよ、中尉」
「ジョンソン兵長、僕のことは気にせずやってくれ」
「そう言われましても」
「僕だってむざむざ死なないさ。このシステムがどう動くのか見届けたいしね」
そこでブルクハルトは「ん?」と声を発する。二つの筐体から送られてくる信号が重なり始めていた。二人の脳波は完全に一致していた。二つの筐体のシステムも、互いに論理接続を開始し始めていて、それにともなってセイレネスの出力が大幅に増加してきていた。セイレネスの出力――それがどんなエネルギーなのかはブルクハルトにも解析できていない。だがしかし、それは論理的な演算結果を超えて、物理に影響を与えるものだ。幻想が具象化する。そのための破壊的エネルギーの一種だ。数式によるエネルギーの観測――言うならばその手のファンタジックな原理だった。
「ん?」
タガートが声を上げる。
「なんだこれ、歌?」
「歌ぁ?」
ジョンソンが怪訝な声を発する。ブルクハルトは「歌だね」と何かに納得したかのように頷いた。
「セイレネスが実際に発動し始めているんだ」
「なるほど、さっぱりわかりませんが」
ジョンソンが幾分早口で言う。
「なるべく急いで頂きたい!」
分厚い扉が蹴破られる。自動開閉装置は再起不能にされただろう。
瞬間、ジョンソンとタガートのアサルトライフルが火を噴いた。重甲冑を身に纏った二人の兵士の動きが止まる。だが致命弾には程遠い。その殆どは弾き返されていた。
「嘘だろ、HVAPだぞ」
タガートが呆然としながらマガジンを付け替える。ブルクハルトはそれを横目で見つつ、自らの拳銃を確認した。黒ずくめの兵士が、ジョンソンとタガートの弾幕を物ともせずに室内に侵入してくる。ブルクハルトは再び端末に目を落とし、「異常なし」と頷いた。そして立ち上がって、慣れた手付きで拳銃のセーフティを外した。
そして筐体に向かってきた兵士の一人の眉間を撃つ。思わぬ一撃に、兵士はよろめいた。その間にもう一人の顔面にも弾を送り込んでいる。
「お見事」
ジョンソンとタガートがそれぞれ兵士の背後から押さえ込みに入る。強靭な体躯を持つ二人に背後を取られ、さすがの敵兵士も大幅に動きを封じられた。ブルクハルトはその間にジョンソンが取り押さえている兵士の方へ走り、その上がった顎の下に銃口を押し付けた。装甲板の薄い、いわば弱点だ。
「アイスキュロス重工製、戦闘用重甲冑ヒルドル。そいつを売れば装甲車が買えるってね」
ブルクハルトは、瞬間的に射撃モードを変えて引き金を引く。三点バーストモードで放たれた銃弾は、兵士の顎から脳天までを破壊した。一瞬力を失った敵兵士の喉元に、ジョンソンがすかさずナイフを突き刺した。
「よし」
ジョンソンは兵士を突き飛ばすなり、タガートの支援に入る。ブルクハルトの拳銃弾が兵士の右の脇を抉る。重甲冑の弱点を知り抜いた、的確な急所攻撃だった。兵士が右腕の力を失った瞬間に、タガートはその脇腹の損傷した装甲にめがけてナイフを突き刺し、腕を肩からへし折った。ジョンソンが顎の下にアサルトライフルを押し当てて、全弾撃ち尽くす勢いで引き金を引いた。
どさりと二人目の兵士が倒れる。だが、その時には倒したはずの一人目の兵士が立ち上がっていた。
「まじかよ」
ジョンソンがげんなりとした声を出す。タガートはアサルトライフルを腰だめに構えて突進しようとする。
「待て。時間を稼げば良い。仕掛ける必要はないよ!」
「そいつぁ助かります」
突撃仕掛けたタガートはそこで踏みとどまって、5.56mm弾を撃ち込み始める。ジョンソンは二人目を油断なく警戒しながら、一人目にアサルトライフルを投げつけた――弾切れだ。
ブルクハルトは端末が無事なことを確認して、「これは」と上ずった声を上げた。
なんて美しい波形なんだ。
そのパラメータはすでに設定上限を振り切っていた。顔を上げれば、室内に薄緑色の輝きが満ちていた。その発生源は、言うまでもなく筐体だ。
「これが、セイレネス……!」
ブルクハルトの意識が肉体から離れる。ブルクハルトには自分の姿が見えていた。まるで他人事のように。視界が揺れる。まるで荒れた海の上にいるかのようだ。
不思議な感覚だった。危機的状況にあるにも関わらず――。幸福感というのだろうか。ブルクハルトは冷静に分析している。感覚が鋭敏になる。校舎の外には戦闘機がいる。手にとるようにわかる。戦闘機が飛んでいる。校舎に巣食う敵を撃っている。乗っているのは――カティ・メラルティンだ。何故かわかった。確信を持ってわかった。
来る――!
胸が痛くなるほどの興奮の津波がやってきた。高揚感、充足感。神経が異常に興奮していた。
室内を満たす薄緑色が、目を開けていられないほどに光度を上げる。
『……!?』
重甲冑の兵士たちがくぐもった声を上げて、消えた。灰が風に飛ばされるが如く、さらさらと消えていく。
「これが、セイレネスの力か……!」
ほとんど何も見えないほどの輝きの中で、ブルクハルトは陶然と呟いた。