ぼんやりと明るい。夜にかかる霧のようにぼんやりと。
アタシ、寝ているのか?
カティは懸命に目を開けようとする。少しだけ視界が晴れた気がするが、それだけだった。今自分が目を開けているのか否か。それすら判然としない。
それにしたって――。
なんて酷い、惨い夢だったんだ。だから、それらが全部夢だったと証明するために、今アタシは起きなければならない。
夢。そう、夢だったんだ。だからこれからまた、どうってことのない普通の日々が。
ヨーンと、エレナと……。
カティは長く息を吐いた。肺の中の澱んだ空気がじわじわと吐き出されていく。そのたびに胸が痛む。それでもカティは息を吐き続ける。
そこでカティは、音がすることに気が付く。複数の人の気配がある。アタシの部屋に、こんなに人は入れないだろう――そのくらいの大勢の気配だ。何か重大な事案でもあったのか。だったとしたら、なおさら早く起きなくては。
カティは力を振り絞って目を開けた。白い天井がまぶしすぎて目を細める。知らない場所だ。仄かに漂っているのは消毒薬の臭いだった。聴こえてくるのは電子音の類だ。規則的で、うるさい音だ。
痺れ、痛み、重さ。今のカティはそういったあらゆるネガティヴな要素に縛られている。まるで何日も眠り続けたみたいに、身体のあらゆるところが鈍く疼いた。
点滴、か?
カティは左手の違和感に向けて視線を走らせる。百年近く進化していない点滴針がそこに刺さっていた。その時ようやく、カティは室内を忙しく動き回る白衣の男女に気付いた。どこからどう見ても医師か看護師である。
「カティ!」
その声に視線を右に移す。そこにはやつれたヴェーラがいた。雨の日の捨て猫のようだとカティは思う。その隣のレベッカは声も出さずに泣いていた。その後ろには二人の佐官、一人はパウエル少佐で、もう一人は顔面にひどい火傷の痕のある女性だった。階級章から大佐だとわかる。
ヨーンとエレナは?
カティは声を出そうとして失敗する。かすれた呼吸音が出ただけだった。ヴェーラがカティの右手を握りながら叫んだ。
「カティ! もう! 二度と目を覚まさないんじゃないかって! 本当に心配したんだよ!」
カティは眉根を寄せる。
二度と? どういうことだ? アタシはどうしてこんな……?
混乱しながら、おそらく事情を知っているであろう大佐の方を見た。
あれ? 見たことがある気がする。
ネットやテレビでは何度も見た顔だし、カティも彼女が逃がし屋エディット・ルフェーブルであることはもう察しがついていた。しかし、それ以上に「知っている」気がしたのだ。その悲しげな表情に、はっきりと見覚えがあった、と言っても良い。
「二度目よ、あなたと直接会うのは」
ルフェーブル大佐は流れるようなアルトで言う。
「十二年ぶり。あなたは覚えていないかもしれないけれど」
十二年。それでカティは明確に思い出した。あの時、救助にきた部隊の女性兵士。抱きしめてくれた人だ。
カティは小さく息を吐いた。
「覚えて、います」
「そう」
ルフェーブルは目を細めた。義眼が金属的に光る。
「落ち着いて聞いて、カティ・メラルティン」
ヴェーラが譲ったベッドサイドの椅子に、ルフェーブルが座った。
「あなたは一ヶ月近く、眠っていたの」
「い、一ヶ月、ですか?」
看護師から貰った水で唇を濡らして、カティは声を上げた。惨めなほどかすれた声だった。
「どういうことですか? なにがあったん――」
「覚えていない?」
「覚えて……?」
カティはヴェーラとレベッカを見て、その表情で状況を悟る。
「夢じゃ……なかったんだ」
「ええ。あの学校はもうないわ。それが事実。現実」
ルフェーブルの容赦のない言葉がカティを襲う。
「で、でも、そんなこと」
「ヨーン・ラーセンは、死んだわ。葬儀も終えた」
「う……そ、だ」
「本当よ。残念だけど」
その宣告に、カティは震えた。髪をかきむしりたい衝動に駆られるが、それすらできない。力が入らない。唇をかみしめても、痛みを感じられるほど強くはできない。全てが弱っていた。何もできなくなっていた。
まただ。また、アタシは失ってしまった。
またしても、目の前で、失ってしまった。
喉が震える。視界が揺れる。呼吸がつらい。
「エ、エレナは……どうなったんですか?」
カティが問うと、場の空気が微妙なものに変わる。
「エレナ?」
ルフェーブルが携帯端末を取り出して唸る。カティは「エレナ・ジュバイル」とそのフルネームを口にする。
「いないわ」
ルフェーブルが携帯端末の画面を見せながら首を傾げる。カティはそれを凝視して、首を振る。そんなはずはない、と言おうとした。視界に入った美しい白金の髪に導かれるようにして、ヴェーラの顔を見る。彼女もまた、「何を言っているの?」という表情だった。
「ヴェーラ、覚え――」
「エレナって、だれ?」
「なんだって……?」
カティは助けを求めるように、レベッカを見る。しかし彼女も「同級生ですか?」と訊ね返してくる。
「は、はは……どんなジョークだよ、それ」
「いないわ」
ルフェーブルが再び言った。パウエルもまた、黙って頷いた。カティは首を振る。カティは激しく混乱していた。エレナがいないなんて、そんなはずがあるはずもない。こんなにも鮮明に思い出せるのに、彼女との記憶は夢か何かだったとでも言うのか。
「混乱しているのよ、カティ・メラルティン。あんな事件が――」
「自分は正常です、大佐」
その訴えも虚しかった。ルフェーブルは悲しげに眉尻を下げ、パウエルと二言三言言葉を交わし、扉の方へと向かった。
「落ち着いたら参謀部第六課に。急ぐ必要はないわ。カティ・メラルティン、いい?」
「……了解」
カティはそう応じて、目をきつく閉じた。それしかできなかった。
パウエルは医師と共に出ていき、ヴェーラとレベッカ、そしてカティだけとなる。
カティはゆっくりと目を開け、両サイドで手を握っている二人の歌姫を順に見た。
「さっきのは、冗談、だよな?」
「なにが?」
ヴェーラは涙を拭きながら言う。レベッカも怪訝な表情を見せていた。
「エレナのこと知らないはずがないだろ」
「知らない、よ?」
ヴェーラは首を振る。白金の髪が乱雑に揺れる。レベッカがカティの左手をそっと握る。
「混乱しているんです、あんなことが――」
「違う!」
カティは可能な限り大きな声を出す。しかし、それは弱々しかった。
カティは天井を睨みつける。
エレナは言った。あなたの中から消されたくないと。
覚えていてとも言った。
なのに。
アタシは……。
カティは不自由な両手を顔に当てた。そのまま目玉を抉り出してやりたい気分だった。
エレナ! エレナ……! アタシの大事な、エレナ……!
「あっ!?」
ヴェーラが大きな声を上げた。レベッカもだった。二人は顔を見合わせて、かすれた声で言った。
「これって……!」
いつかのように、二人はカティの心の中を、記憶を、覗き見た。二人は唇を戦慄かせて、カティを凝視した。ヴェーラがかすれきった声を発する。
「エレナ、いつも一緒にいた……」
「なんてこと」
レベッカが呆然と呟いた。
「私たち、忘れていたの? エレナを? こんなにも――」
その言葉に、カティはほっと息を吐いた。
よかった。……よかった。
お前にはちゃんと名前があるぞ、エレナ。アタシたちは思い出した。思い出せた。ちゃんと、お前を覚えている。
今はそれだけで。
それだけでいい。
カティは遠ざかっていく意識を呼び止めようともしなかった。ただ眠りたかった。
「なぁ、ヴェーラ、ベッキー……」
「う、うん?」
「なんですか?」
二人の声が遠く、揺れている。ぼやけた視界と、音を拾いきれない聴覚がもどかしい。
「一緒に、星でも見に行こう、か」
カティは息を吐きながら囁いた。
エレナ、大丈夫だ。アタシはきっと、大丈夫。
カティは意識を失う寸前に、穏やかな薄緑色の光を感じた。