それからさらに一ヶ月が過ぎようという頃、二〇八四年四月二十日、夕刻。
カティは統合首都にある瀟洒なレストランにて、ルフェーブルと再会していた。ヴェーラ、レベッカも一緒である。規則正しく並べられた丸テーブルの上には蝋燭の幽玄な炎が揺れていたが、カティたちの座るテーブルにはそれはなかった。代わりに少し豪華なテーブルフラワーが飾られていた。ルフェーブルは炎恐怖症だったからだ。
「少し、元気になった?」
ルフェーブルは向かいに座っているカティに声をかけた。壮絶な火傷の痕に乗せられる微笑には、嘘はない――カティはそう感じた。恐縮しつつ頷くカティに、ルフェーブルは目を細める。義眼が無機的に光る。
「この顔、気になる?」
ルフェーブルの問いに、カティは「いえ」と即答する。どちらかといえば、その震え上がってしまいそうなほどの壮絶な容貌にではなく、「大佐」という階級に萎縮していた。そもそもその「顔」自体はニュースで割と見慣れていたというのもある。もっとも、画面越しと対面とでは、その迫力は雲泥の差だったが。
ルフェーブルは少し気を落とす。カティはこの顔を間近で見ても全く怯まなかった。心が麻痺しているのか、それともより酷いものを見てきすぎたのか。
「ヴェーラもレベッカも元気そうね」
「元気……なんでしょうか」
レベッカが眉根を寄せた。ルフェーブルは「そうよね」とため息をつく。
「あれからあなた達は不眠不休だものね」
セイレネスシステムのチューニング作業にかかりきりになっていたのを、歌姫計画の責任者でもあるルフェーブルは当然知っている。それに対して、二人の歌姫が乗り気ではなかったことも。彼女らにはあの襲撃事件の心の傷を癒やす時間すら与えられていなかった。
ルフェーブルはそうと知っていながらも、それ以上の介入が出来ない自分を恥じてもいた。ルフェーブルの重苦しい心中を見抜いたヴェーラが、最上級の牛肉を切る手を休めて問う。
「大佐、今日はどういう趣旨ですか」
「そうね。その話をしましょう。今日はね、重要なお話があるのよ」
ルフェーブルは自分が驚くほど優しい声音で言った。普段の張り詰めた声とは全然違う、彼女本来の柔らかな声だ。その機械の両目が三人をゆっくりと見回した。
「参謀部発・人事部経由。つまり正式な通達で、残念ながら拒否権はないわ」
冗談めかして言いながら、ルフェーブルは携帯端末に文書を表示させる。画面上に浮かび上がった文字を見て、カティは怪訝な表情を見せる。
「アタシたちを大佐の保護下に?」
「そ。つまり、私があなたたちの身元引受人、というより、保護者ね。カティは成人してるけど、色々事情があって、そういうこと」
ルフェーブルの「色々」という表現で諸々の事情を悟ったカティは「そ、そうですか」と言いながらもドキュメントから視線を外さない。一字一句読み込まなければならないという信念を持つ、まっとうな活字中毒者の習慣である。
「それもこれも、お役所のため、国のため、なんだけどね。こういう方針。つまり、ヴェーラとレベッカ、あなたたち二人の状態を万全に、特に精神状態を万全にするために、落ち着ける環境が必要だと。同居までする必要ないと思うけど、どうせ私、ほとんど家にいないし、家も無駄に広いしね」
「それで、アタシ……自分もそこに?」
「そ。あなたの場合は私の希望でもある。政府とか軍とかじゃなくて。アナタの将来にも有利にはたらくことになるわ。間違いなくね」
ルフェーブルはそう言って、テーブルの上に用意されていたワインを手に取った。ルフェーブルほどの地位にある人物でもそうそう飲むことの出来ない、超がつくほどの高級ワインだ。酒に目がないルフェーブルは、それの誘惑にあっさりと負けた。
「もっとも」
ワインの栓をウェイターに開けてもらいながら、ルフェーブルは言う。
「この辺の手続き、全部にあの男が噛んでいるらしいのよね。そこが気に入らないわ」
「あの男?」
ヴェーラがサラダに手を伸ばしかけた姿勢で尋ねる。
「元教練代表主任。潜水艦キラー、リチャード・クロフォード大佐」
「昇進されてたんですね」
レベッカが言うと、ルフェーブルは額に手を当てて首を振った。
「本当は今ごろ准将だったんだけど。ちゃんと根回しもしてあったのに、あの男は……」
「まさか」
ヴェーラがレベッカと顔を見合わせる。
「また上官を殴ったり?」
「肯定」
うんざりとしたその声に、ヴェーラとレベッカが同時に「あはぁ……」と悩ましげなため息を漏らし、そのシンクロ具合にカティは思わず小さく吹き出した。それを見てルフェーブルは微笑む。
「さて、飲ませてもらうわよ」
グラスに注がれたワインを見て、ルフェーブルはカティを伺う。カティは首を振った。
「すみません、車で来ていて」
「あ、そうよね。迎えくらい手配しておくべきだったわ」
さては……ハーディか。ルフェーブルは難しい顔をする。万が一自分が泥酔しても、カティが車であるならどうにかできるという計算だな? 自分は確かに送迎をつけるように依頼したぞ? などと思うが、ハーディの考えることはいちいち正しいのもわかっていた。
ルフェーブルはカティたちにもそれぞれ新しいドリンクをオーダーして、改めて乾杯をした。
「ん、美味しい」
ルフェーブルは満足げに呟き、まっすぐにカティを捉えた。
「カティ・メラルティン。あなたが生きていてくれて良かった」
その言葉の意味がわからず、カティはグラスを持った体勢で硬直する。
「あの村でも、学校でも。どっちも過程は最悪だけど、それがあったからこそ、私はあなたとこうしている。あのときの子どもが、士官学校襲撃事件で死んでいたら。私は本当に――」
ルフェーブルは大きく息を吐いた。そしてレベッカの方へ視線を送る。
「アンディ……フェーンの遺言、酷いと思わない? 誕生日を忘れてくれていいとか、ほんとふざけんなって」
「策士、だったんですね」
レベッカが目を伏せながら言った。ルフェーブルは「そうなのよ、いつもそうだった」と目を細める。その際に、義眼がキラリと光った。
その様子を見ていたヴェーラが、不意に肩を震わせ始める。ヴェーラにはルフェーブルの内側が見えていた。そこにあまりにも重くて深い悲しみがあることを見抜いていた。ヴェーラはぽろぽろと涙をこぼし、何度もしゃくりあげた。
「ごめんなさい」
ヴェーラは訴えるように謝った。周囲の客が驚いて振り返ったが、そこにいるのがあのルフェーブルだと認識すると、すぐに目をそらして各自の食事に戻っていった。
「この顔もたまには役に立つ」
そう言って苦笑しつつ、ヴェーラの左手を握った。
「ありがとう。感謝するわ」
私のために泣いてくれて――ルフェーブルは心の中で言う。そして、ヴェーラにはその声が聞こえていた。
今度は私がこの子たちを守るよ、アンディ。
ヴェーラに引っ張られるようにして、レベッカもまた涙を流し始める。二人の美少女の嗚咽が空間を染めたが、今度は誰も振り返らなかった。カティとルフェーブルは黙ってグラスを空にし、歌姫たちを見つめている。
「大佐、あの」
「ん?」
カティのおずおずとした呼びかけに、ルフェーブルはまた微笑む。
「こ、このあと、その、時間、ありますか?」
「時間? だいじょうぶよ。もう飲んじゃってるし」
「それなら、その、このあと、星でも見に行きませんか」
「星?」
ルフェーブルは少し思案し、カティの目を見つめた。
「あなた、星が好きなの?」
「好きになったんです。星が好きだった人のおかげで」
ああ、彼のことか。
ルフェーブルは合点する。カティを凝視しながら、尋ねる。
「彼のこと、話せる?」
「えっ?」
「なーんでもない。カティ、あなたの車でいいのよね」
「はい。大佐さえよければ……」
「護衛はつくけど、それでもよければ」
もちろん構いません、と、カティは応じる。そこでヴェーラが涙を拭きながら口を開く。
「わたしたちも、行っていい?」
「だめな理由があるか?」
「やった」
ヴェーラは微笑む。その表情は涙で潤んだ瞳にも影響されているのか、この上なく美しく輝いていた。
「じゃ、改めて。いただきます!」
ヴェーラはもう泣いていなかった。レベッカもそれに追従する。二人の猛然たる食べっぷりを見て、カティとルフェーブルは同時に笑った。ヴェーラもまた、休みなくスプーンやフォークを動かすレベッカを見て「あは」とも「うひ」ともつかぬ妙な声を発していた。
「ねぇ、ベッキー。ご飯も星も逃げないと思うよ?」
「え、や、わ、わかってるわよ!」
その言い方、なんだかエレナみたいだな。
カティは夜空の色の目を細める。
エレナ――。
だいじょうぶ、しっかり覚えてる。
ひとつも忘れてなんていない。
絶対に忘れないからな。
絶対に。
カティは天井を見上げ、ゆっくりと息を吐いた。
涙が一筋、頬を伝って消えた。