またか。
あの夢――いや、現実。夢だったと思いたい。しかし現実に家族はもういない。生まれ育った村は地図から消えた。最初から何もなかったかのように。
アイギス村襲撃事件――その名前はそれから十年が経過した今でも有名だったが、聞きたくもなかった。
「うんざりする」
少女は観念したように目を開ける。夜空のような紺色の瞳が、見慣れぬ天井をしばし観察する。見慣れない――それもそのはず、この部屋に越してきたのは昨夜だ。引越し前に発送した荷物も届いていない。おかげでベッドサイドの小さな本棚は空っぽだった。少女はベッドに腰掛けて、キッチンに鎮座している湯沸かしポットを見る。お湯は満杯だ。
伸びをしながら立ち上がり、昨夜調達しておいたインスタントコーヒーを作る。部屋に備え付けられていた鏡を見ると、嫌でも目立つ赤い髪の毛が、あちこち跳ねていた。少女は小さく息を吐くと、コーヒーと一緒に調達してきた菓子パンを一つ取り出した。
「転校って言われてもなぁ」
少女は唯一の好物と言ってもいい菓子パン――いわゆる豆パンだ――を頬張りながら、難しい顔をする。少女はユーメラの士官学校にいたのだが、一週間ほど前に突然、ヤーグベルテ統合首都校への転校を言い渡されていた。高等部での成績は優秀だったし、問題を起こしたこともない。だから少女には、一体何が起きたのかさっぱり理解できなかった。
「友達がいたわけでもないし」
そう呟いて最後の一口を飲み込むと、髪の毛を義務的に整える。少女は携帯端末で時間を確認し、シャワーを浴びることにする。浴場はこの士官学校の寮に共用のものがあるが、小さなシャワー室は各部屋に備え付けられているようだった。
「気合を入れろ、カティ」
少女――カティは脱衣所の鏡越しに自分の顔を睨みつけた。高すぎる身長はともかく、引き締まったこの身体は日々の鍛錬の賜物だ。どんな敵を相手にしても劣ることのない肉体は、あの日のアタシにはなかったものだ――カティはそんなことを考えてから、首を振った。
シャワーを浴びながらも、カティの気分は落ち着かなかった。新しい環境というのが苦手だ。見知らぬ人間が苦手だし、会話するのはもっと不得手だ。教官だろうと同期だろうと、とにかく他人が苦手だった。そもそも軍に入ればそんなことを言ってはいられないのは承知しているし、自分は近い将来軍人になるのだということも理解していた。だが、それでも苦手なものは苦手だった。
お湯を止め、タオルで身体を拭いていると、ようやく携帯端末の目覚ましアラームが鳴り始めた。奏でられているのは数十年前のラヴソングだ。
「はいはい」
カティはそれを流れるような動作で止めてから、素早く士官学校の制服を着た。統合首都校の制服もスカートとパンツの選択式だったから、カティは迷わずパンツタイプを選んだ。スカートなんて、あの事件以来身に着けた記憶がない。
「髪、よし。肌、悪くはない。表情、仏頂面、よし」
カティは鏡に向かって呟いてから部屋を出て、誰ともすれ違わずに寮を出た。食堂もまだ空いてない頃合いだ。カティは朝は菓子パンと決めていたから、少なくとも朝は食堂の世話になることはないだろうと思っている。
風が吹き、カティの髪を揺らす。
「まだ十月だろ……。こんなに寒いのかよ……」
ヤーグベルテは広い。カティはその事を実感する。高緯度帯にある統合首都は、カティの育ったアイギス村やユーメラと比べるとはるかに寒い。知識はあったが、油断した――カティは肩を抱きながら後悔する。防寒具の一つくらい調達しておかなければならなかった。
カティは「コート、注文しよう」と呟きながら、足早に寮から離れていった。
その赤毛の少女を見ている、二組の視線があった。
『彼女が、ミスティルテイン?』
中性的な声が空間に溶ける。
『今回のあなたの選択は正しいのかしら?』
『ふふ……』
艶のある女声が降ってくる。
『私の行為の正誤に関心はないわ。彼がどう動くか、私はそれそのものに興味があるのよ』
『そう』
中性的な声の主は、ひどく退屈そうにそう吐き出した。