リチャード・クロフォード――。
ヴェーラは脳内の人物名鑑からその名前を大急ぎで検索した。そしてすぐにその名前を発見する。
「潜水艦キラー! 第七艦隊所属戦術機動分艦隊トライデントの指揮官!」
「そう、そのとおり。いかにも、俺がその潜水艦キラー・クロフォードだ。なのに、今日付でここの教練代表主任なんぞに異動させられてしまった」
「士官学校……のですか?」
目を丸くするレベッカに、クロフォードは顰め面で頷く。レベッカは記憶の中にある直近のニュースを呼び起こす。
「確か先々月、アーシュオンの潜水艦艦隊によるSLBM発射を阻止した上で、当該艦隊を殲滅したとか」
「で、その功績で第七艦隊の軽空母遊撃部隊に異動……じゃなかったっけ」
ヴェーラはそう呟いてクロフォードを見た。クロフォードはバツが悪そうに髪をかきあげ、演技じみた溜息を吐いた。
「その予定だったんだが、上官を三発ばかり殴ってしまってね。全部パーになった上に懲罰人事で士官学校の教官のまとめ役なんていう、クッソつまらない大役を仰せつかってしまったというわけさ」
「じょ、上官を殴った!?」
ヴェーラが思わず声を上げる。クロフォードは「たしか三発」と的外れな答えをする。
「そもそも、この穏和が服を着て歩いているような俺を怒らせる奴が悪いに決まっている。俺はこの穏和な俺が怒りを覚えたという事を根拠に、俺の怒りは正しいと判断した。そして、襟首を掴んで一発、ついでにもう一発、吹っ飛んだのを掴み上げてもう一発と」
「止められなかったら四発だったというわけですね、中佐」
ヴェーラが剣呑に目を細める。レベッカは思い出したように眼鏡のレンズを拭き始める。
「ははは、そうだな。半殺しにしてたかもしれんなぁ!」
「将官に手を上げるとか、大丈夫なんですか」
「大丈夫じゃないから、こんなけったいな仕事をするハメになった。だがなぁ、俺なしに第七艦隊はどうやって功績を挙げるんだろうなぁ。潜水艦部隊に奇襲でもされたらどうするつもりなんだろうなぁ」
少し愉快さすら感じさせる口調で言うクロフォードに、レベッカは怖気のようなものを覚えた。得体のしれない何か、とにかく掴みきれない不気味さを感じざるを得なかった。レベッカは思わずヴェーラの左手を握る。ヴェーラは軽く二回握り返してくる。
「さてさて、でも、あの計画の中心人物と対面できたのは僥倖。将来的には俺と仕事をする機会も出てくるだろう。その時までには第七艦隊を掌握しておくくらいはしておかないとな」
「上官殴ってたらいつまでも昇進できませんよ」
ヴェーラが半眼で言う。クロフォードは「うむ、気をつける!」と言いながらスタスタとアケルマン軍曹の方へと歩いていってしまった。
「噂に違わぬ、変な人だったね」
「ヴェーラ、口の利き方」
「きみしか聞いてないじゃない。だからいいの。クロフォード中佐みたいに全てが自分の駒――くらいに考えられたら良いのかもしれないね」
「そんなこと思ってるのかな」
レベッカはそう言ったが、彼女もまたヴェーラと同じようなことを感じていた。警戒すべき人物――という気がしなくもない。レベッカは眼鏡の位置を直しながら、影の濃い雲々を見上げた。まだ夕刻には遠いのに、辺りはすっかり暗い。
ヴェーラは手に息を吹きかけながら、更衣室へと向かって歩き始める。ちょうどアケルマン軍曹によるトレーニングの終了時間だった。ヴェーラは言う。
「指揮官としては、クロフォード中佐くらいドライになれたらいいのかもしれないね」
「私には無理」
レベッカは言う。
「私がああなろうと思ったら、たぶんすごく冷たい人だって思われる。味方をどの程度犠牲にしたらこの戦いに勝てるか――考えなきゃならないのはわかってる。或いはどの程度の犠牲を出せば局面を乗り越えられるか、とか。参謀部だけに任せておける仕事じゃないし」
「きみは不器用。そのくせすぐに妥協する」
ヴェーラの鋭い指摘に、レベッカは思わず立ち止まった。
「わたしは妥協なんてしないよ。わたしも大概に不器用だけど、妥協はしない。結果が出る前に諦めたりしない。さっきわたし、言ったよね。部下となる人たちには、わたしのために死んで欲しいって。それは別に格好をつけたいわけじゃなくて、ただの保険なんだ。わたしにとっての、わたしの、わがままなんだ。わたしは誰も死なせない。わたし以外の誰にも誰も殺させない。きみはきっと、そんなの不可能だって言うだろう」
ヴェーラの深遠な瞳がレベッカを突き刺す。
「でも、わたしたちの共通の願いってなんだっけ。この戦争を終わらせるってことじゃなかった?」
「そうだけど、でも、そのためには」
「犠牲が必要だ――わかるよ、ベッキー」
ヴェーラはレベッカの右手を掴む。そしてその勢いのままに腕を絡めた。
「失う覚悟なしに、何かを得ることはできない。わかってるよ。だけどわたしは絶対に忘れない。その犠牲は、わたしたちの命じゃない。わたしたちに付き従ってくれる多くの人たちの命。その人を大切に思う人たちの心、彼らの未来。わたしたちはそんなものを預かることになるんだ」
「あなたの言うことは、でも、うん、そうかもしれない。あなたの言うことはとても正しいと思う。でも、今、私たちがアーシュオンとしているのは、まぎれもない戦争なのよ。誰が誰を殺すか、次に誰が死ぬかなんて誰にもわからないじゃない。だから――」
「冷静明晰なる計算の末に、効率の良い生贄算出をして、効率の良い狩りをする必要があるというわけだね、ベッキー。わかるよ、きみは実に良い指揮官だ。理想の指揮官タイプと言っても良い」
ヴェーラはレベッカと腕を組んでトボトボと進む。
「きみはそうであり続けて欲しいと、わたしは思ってる」
「ヴェーラ――」
「でもね、ベッキー」
ヴェーラはまた足を止める。そして右手でレベッカの頬に触れた。
「きみは、傲慢だよ」