ふわりと空間が闇に落ちる。カティたちが去ったロビーの時間が止まる。黒ずくめに金髪、そして美貌――ハルベルト・クライバーがそこに佇んでいた。その金の揺らぎが風もないのに揺れている。
「あんな子たちを小道具扱いとはね」
金髪を細くて白い指で掻き上げる。金の粒子が闇に舞う。
「それが孵化を齎すための重要な要素であることは理解しているわ。でも、あたしが素直に、はいそうですかと従うと思っている?」
ハルベルトの言葉に、何かが応えたようだ。ハルベルトは荒んだ微笑を見せる。
「このあたしの行為もまた、あなたの計算の内と、そういうこと?」
ハルベルトの碧眼がほとんど白色に輝いている。その場に誰かがいたのなら、等しく怖気を感じるほどの爛々たる輝きだった。
「ふふ、だんまり?」
奈落のように深く昏い微笑の奥で、ハルベルトは呟く。それは不気味を通り越して、蠱惑的とさえ言えた。
「記憶を失ったジークフリートは、遂にはブリュンヒルデに害される。極めて原始的な感情によって、ね。知っているでしょ?」
二百年以上も昔の歌劇――ニーベルングの指輪。
歌劇として成立したのは二百余年前。だが、その原点となった「ニーベルングの歌」は、それよりもさらに七百年以上も昔だ。さらにそのモデルとなった出来事、あるいは物語は、更に数百年を遡る。
物語が連綿と語り継がれていく過程で、それはさながら人の遺伝子交配のように少しずつ、だが時には大胆に変化してきた。進化と退化を繰り返しながら。そうして今に至る――。
その時代時代に受け入れられてきたから、物語は変化することを許された。いわば大多数の人間にとって都合よく、耳当たりよく変化させられてきたのだ。
「そしてそれは物語に限らない」
世界そのものも、同じだ。小さな変化の一つ一つが撚り集まって世界を作る。それらの変化はおしなべて多数派――言ってしまえばただの消費者による我儘によって為されているのだ。
「声の大きさで多数決の結果が決まる――つまらない世界ね、相変わらず」
ハルベルトの溜息は、しかし、誰にも届かない。
「この世界はそんなふうにできているのだから、腐してもしかたないのだろうけれどね」
知恵あるもの――即ち少数派は、知恵なきもの――即ち多数派の前に沈黙する他にない世界だ。そして知恵なきものたちは、知恵あるものたちが産み出すものを尽く娯楽として当然のように享受し、その現実に耽溺するのだ。
「ま、そんな間隙物質にも、また価値はある、か」
主役ばかりでは舞台は回らない。山場ばかりでは物語は単調になる。彼らはそのためにも必要だし、そのためだけに必要だ――それは理解る。ハルベルトは首を振る。また金の粒子が舞った。
「今回は、誰がオーディンになるのやら。あたしはそうね、ファフナーでどうかしら? 身を挺して小鳥の言葉を教えてやる役どころ。あたしに相応しいメルヘンじゃない?」
半笑いで尋ねるハルベルトには、何の反応も届かない。ハルベルトはまた奈落の微笑を見せ、腕を組んだ。
「好きにやらせてもらうわ。今回はね。ティルヴィングの束縛を受けてやる必要はかんじないもの、このあたしが」
銀の力は強い。こと今回に関しては、今までにない力を持っているようだった。ハルベルトはそれに脅威を覚えている。ともすれば、銀の齎したティルヴィングに流されてしまいそうだと、ハルベルトは危機感を抱いていた。今まではハルベルト――金と、銀の二柱でこの世界の均衡をとってきた。しかし世界のトラフィックの袋小路では、毎回金と銀が世界の次を巡って争ってきた。そしてその都度、お互いに妥協しあって世界を進めてきたのだ。だが――。
「歌姫計画……か。本当にあの男も無慈悲なものね」
その計画がどう作用するかはわからない。しかし、おそらくそれは、金と銀のバランスを大きく変えるものになるだろう。
あたしはそれを阻止すべきなのか?
ハルベルトは幾度も繰り返してきた問いを再び発し、前兆もなしに闇へと消えた。