02-2-5:ニーベルングの指輪

本文-ヴェーラ編1

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 ふわりと空間が闇に落ちる。カティたちが去ったロビーの時間が止まる。黒ずくめに金髪、そして美貌――ハルベルト・クライバーがそこに佇んでいた。そのの揺らぎが風もないのに揺れている。

「あんな子たちを小道具扱いとはね」

 金髪を細くて白い指で掻き上げる。金の粒子が闇に舞う。

「それがもたらすための重要な要素であることは理解しているわ。でも、あたしが素直に、はいそうですかと従うと思っている?」

 ハルベルトの言葉に、が応えたようだ。ハルベルトはすさんだ微笑を見せる。

「このあたしの行為おこないもまた、あなたの計算の内と、そういうこと?」

 ハルベルトの碧眼がほとんど白色に輝いている。その場に誰かがいたのなら、等しく怖気おぞけを感じるほどの爛々たる輝きだった。

「ふふ、だんまり?」

 奈落のように深くくらい微笑の奥で、ハルベルトは呟く。それは不気味を通り越して、蠱惑こわく的とさえ言えた。

「記憶を失ったジークフリートは、遂にはブリュンヒルデに害される。極めて原始的な感情によって、ね。知っているでしょ?」

 二百年以上も昔の歌劇オペラ――ニーベルングの指輪。

 歌劇として成立したのは二百余年前。だが、その原点となった「ニーベルングの歌」は、それよりもさらに七百年以上も昔だ。さらにそのモデルとなった出来事、あるいは物語は、更に数百年をさかのぼる。

 物語が連綿と語り継がれていく過程で、それはさながら人の遺伝子交配のように少しずつ、だが時には大胆に変化してきた。進化と退化を繰り返しながら。そうして今に至る――。

 その時代時代に受け入れられてきたから、物語は変化することを許された。いわば大多数の人間マジョリティにとって都合よく、耳当たりよく変化させられてきたのだ。

「そしてそれは物語に限らない」

 世界そのものも、同じだ。小さな変化の一つ一つがり集まって世界を作る。それらの変化はおしなべて多数派――言ってしまえばただの消費者コンシューマによる我儘わがままによってされているのだ。

「声の大きさで多数決の結果が決まる――つまらない世界ね、

 ハルベルトの溜息は、しかし、誰にも届かない。

「この世界はそんなふうにできているのだから、くさしてもしかたないのだろうけれどね」

 知恵あるもの――即ち少数派マイノリティは、知恵なきもの――即ち多数派マジョリティの前に沈黙する他にない世界だ。そして知恵なきものたちは、知恵あるものたちが産み出すものをことごと娯楽サーカスとして当然のように享受し、その現実に耽溺するのだ。

「ま、そんな間隙物質ゼロフィラーにも、また価値はある、か」

 主役ばかりでは舞台は回らない。山場ばかりでは物語は単調になる。彼らはそのためにも必要だし、そのためだけに必要だ――それは理解わかる。ハルベルトは首を振る。またの粒子が舞った。

、誰がオーディンになるのやら。あたしはそうね、ファフナーでどうかしら? 身を挺して小鳥の言葉を教えてやる役どころ。あたしに相応ふさわしいメルヘンじゃない?」

 半笑いで尋ねるハルベルトには、何の反応も届かない。ハルベルトはまた奈落の微笑を見せ、腕を組んだ。

「好きにやらせてもらうわ。ね。ティルヴィングの束縛を受けてやる必要はかんじないもの、このあたしが」

 の力は強い。こと今回に関しては、今までにない力を持っているようだった。ハルベルトはそれに脅威を覚えている。ともすれば、もたらしたティルヴィングに流されてしまいそうだと、ハルベルトは危機感を抱いていた。今まではハルベルト――と、の二柱でこの世界の均衡をとってきた。しかし世界のトラフィックの袋小路では、毎回が世界の次を巡って争ってきた。そしてその都度、お互いに妥協しあってのだ。だが――。

歌姫計画セイレネス・シーケンス……か。本当にあの男も無慈悲なものね」

 その計画がどう作用するかはわからない。しかし、おそらくそれは、のバランスを大きく変えるものになるだろう。

 あたしはそれを阻止すべきなのか?

 ハルベルトは幾度も繰り返してきた問いを再び発し、前兆もなしに闇へと消えた。

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