肩を怒らせながら食堂を出たカティは、その足で真っ直ぐにガーデンスペースへと移動した。ガーデンスペースは食堂や廊下と比べて室温が低く保たれており、考え事をするのにはうってつけ――と、エレナに聞いたことがあったからだ。二月のこの時分、ヤーグベルテ統合首都に於いては未だ「真冬」と形容するに相応しい寒さであるが、エレナの言葉を信じて、カティは頭を冷やすためにその場所を選んだ。
「……めちゃめちゃ寒い」
頭に上って滞留していた熱い血液が、一気に凍え切って手や足の末端を冷やしていく。携帯端末で確認したところ、室温はわずか十五度。カティにしてみれば酷寒と言っても良い空気だった。だが、あの勢いで出てきてしまった手前、「寒さ」を理由にすごすごと戻るのも格好が悪い。結果として、カティはキンキンに冷えたベンチに腰を下ろし、お尻がとことんまで冷え込むのを感じる羽目になった。
「耐えろ、耐えろ、アタシ……」
これは訓練だ。訓練の一環なんだ。真冬の海にベイルアウトした時に備えての訓練なんだ――そうして自分を騙し続けていくうちに、だんだんと身体が慣れてきた。両手はカチカチに冷え込んでいたから、度々息を吹きかけてはいたが。
「クライバー……」
フッと意識に上ってくる、あの性別不明の容姿、その言葉。追いかけてくる無力感。カティはかじかむ手を握りしめて、その拳を睨みつける。
「無力すぎるんだ、アタシ」
悔しい。今。もし、今。F102に乗って飛ばなければならなくなったら。アタシはきっと誰も守れない。アタシ自身すら守れないだろう、きっと。頑張れば強くなる。諦めなければ強くなれる。そんな呑気な言葉が自分の中に浮かぶ。だが、カティはその度にそれを振り捨ててきた。意味がない、と。カティにとってはそんな将来の事はどうだってよかった。今どうなのか、今なにができるのか。それだけだった。
「敵は待っちゃくれない。アタシの未熟さのせいで味方も死なせたくない。だが」
どうしたらいい。どうしたらいいんだ。
カティは頭を抱えて俯いた。このままじゃ何もできないぞ、アタシ。
忘れるな、アタシ。あの虐殺を。アタシ以外の全員が惨たらしく殺された、あの事件を。たった一人、生き残らされてしまったアタシを。ヴァシリー、あの男によって、なぜか殺されなかったアタシを。その意味は考えても仕方ない。だが、アタシは生き残った。だから、アタシは死ぬわけにはいかない。これ以上、アタシの大事な人間を死なせるわけにもいかない。アタシは贖罪の為に生きている。ヴァシリーという災厄を村に呼び込んでしまった、その贖罪の為に生かされている。だから――。
でも、アタシは。
カティは奥歯を噛みしめる。
ヴェーラとレベッカと出会ってしまった。あの日から、アタシは笑うようになった。笑えるようになってしまった。そんな資格ないと思ってた。そんなことができるはずがないと思ってた。なのに、なんで、アタシは。そんなことができる。のうのうと、おめおめと。
気付けば、カティは両目から大粒の涙をこぼしていた。
ヴェーラとレベッカに出会ったその瞬間に、こんな思いをする日が来ることはわかっていた。だけど、避けられなかった。あの二人とともに生きる意味に色をつけようとしたのは事実だった。そしてなぜかエレナやヨーンがそばにいる。いてくれている。なのに自分ときたら――。
恐れている。この期に及んで、恐れている。
また、自分が置いていかれてしまうことを、恐れている。
どうしたらいい、どうしたらいい、アタシ。
カティはその空間に誰もいないことを良いことに、髪を掻き毟り唇を噛みしめる。切れても構わないと言わんばかりに、噛み締めた。
「……何が覚悟だ」
カティはそう呟く。唇を噛み破ることすら出来ない、そんな自分の弱さを目の当たりにしてカティはまた落涙する。こみ上げるものが止められなくて、カティは何度も横隔膜を痙攣させた。かろうじて声を上げることだけは我慢できたが、全身の震えまでは止められなかった。
「カティ」
「……っ!?」
呼びかけられて反射で顔を上げ、そして自分が今どういう状態にあるのかを認識したカティは、咄嗟に立ち上がって逃げようとした。が、左の手首を掴まれてしまって、逃走に失敗する。声をかけてきたのは、よりによってヨーンだった。
「は、離せよ」
「いやだ」
「……っ!?」
どうやっても抜け出せないほどにがっしりと手首を掴まれていた。カティはややしばらく頑迷に抵抗を続けていたが、ヨーンの手をこじ開ける事はできなかった。
「どんな馬鹿力だよ」
カティは鼻をすすりながらヨーンを睨みつけた。ヨーンは困ったような表情を浮かべながら、カティの右の手首も掴んだ。
「なんで両手捕まえるんだよ」
「そこにおとなしく座ってくれるなら離す」
「……わかったよ」
カティは再び冷えたベンチに腰を下ろし、お尻に伝わる必要以上の冷たさに、心の中で悪態をついた。ヨーンはこともなげにカティの隣に座って、カティの方に顔を向けた。その屈託のない表情を見せられて、カティは泣き腫らした目を半眼にする。ヨーンは生真面目な表情を見せて、小さく頭を下げた。
「まず最初に謝るよ。見られたくなかったよね」
「あたりまえだ」
「でも君にも過失があるよ。こんなところで泣きじゃくっていたんだから」
「そ、それは……考えてるうちに、堪えきれなくなって、だから」
「君はやっぱり僕の思ってた通りの人なのかもね」
「なんだよ」
カティの剣呑な声を受けて、ヨーンは首筋を掻いた。
「頼ってほしいんだ」
「頼って……?」
「そう。頼ってほしい。僕は君に頼られたい。頼られたいと思ってる。どんな状況でも、何を前にしても、僕とエレナ、とにかく色んな人を頼ってほしい」
「アタシ、そういうの、できない」
「僕たちが頼りないから?」
「違う」
カティは首を振った。
「少なくとも、お前とエレナは違う。頼りないとか頼れないとか思ったことはない。だけど」
「頼り方を知らない」
「……うん」
素直に頷くカティの肩に、ヨーンは軽く触れた。思わず硬直するカティに、逆に驚くヨーン。
「お前、こういうの慣れてるんだろ」
「まさか。十歳過ぎてから女性の肩に触れたのは、誓って人生最初さ」
「そんなことあるわけ――」
「君はあるのかい?」
「……ない」
カティは首を振った。人を遠ざけてきた自分に、そんな経験があるはずもない。
「そんなことどうだっていいじゃないか。アタシは……アタシなんか、別に」
「僕もさ」
ヨーンはカティの言葉を遮るようにして言う。
「死にたくなんてないんだ。絶対に死にたくなんてない。死ぬ覚悟はあるよ。でも、その覚悟なんてものは、きっととってもちっぽけで繊細で、意気地のない奴に違いない」
「ならなんで、さっきは」
「そうとでも言わないとやってられないからだよ、カティ」
ヨーンは苦笑する。
「そうやって口にすることで、ちょっとでも自分を奮い立たせて……というか騙して。死ぬ覚悟はできてる、その時は死ぬつもりだ。それは君に向けた言葉じゃない。僕自身に言い聞かせる言葉なんだ。君だって死にたくないと思ってるでしょ」
「それはそうだけど、でも」
「本当に守りたいものを失うくらいなら?」
「……なんでわかるんだよ」
「わかるさ」
ヨーンはそう言って冷たいベンチの背もたれに身体を預ける。
「僕だってそうだからね。そのためなら、僕は、自分の命を捨てるということも、最後の選択肢からは外さない」
「お前の守りたいものって?」
「世界平和」
「……は?」
明確に声に出された漠然とした言葉に、カティは眉根を寄せる。ヨーンは「あはは」と乾いた笑い声を発する。
「悔しいなぁ」
ヨーンは言う。
「僕が守りたいと思う人は、僕なんかよりずっと強いんだ。僕がいくら頑張ったって、足手まといになっちゃうくらいにね。だからどうしたものかって、そこだけが迷いなんだ」
「お前が守りたいってのは、家族か、なにか?」
「君」
ヨーンが躊躇なく口にしたその言葉に、カティは目を丸くする。
「ア、アタシ?」
「そう、君。カティ・メラルティンその人のこと」
「アタシなんかを守ったって」
「さっきも言ったよね。君を守れば、僕が生き残るよりもずっと多くの人を助けられるって。それがひとつめ」
「ひとつ、め?」
「うん。これは、そうだな、合理的理由ってやつ。みんなを納得させるための言葉だ」
ヨーンはカティの額あたりを見つめていた。カティの瞳からは微妙に視線がずれている。カティはそれに妙な胸騒ぎを覚える。今まで感じたことのない、ぞわぞわした、くすぐったいような、そんな感触だった。しかし、不快ではなかった。
「僕は今まで、僕自身より大事なものに出会わなかった。家族だって、僕にとっては僕の上にはいなかった。さっきジュバイルに言われて、やっと決心がついたんだけど――」
「ちょ、ちょっと、ちょっと待って」
さすがのカティも、この後の展開に気付いた。カティは読書家であり、恋愛小説が一番好きなのだ。こういうシチュエーションは活字の中では経験があった。一種のデジャヴだ。
「あーっと、ヨーン? あの、その話は今しなくてよく――」
「よくない」
ヨーンは首を振る。
「この気持ちを引きずり続けるのは拷問だよ。それなら一発平手打ちでも食らったほうがマシさ」
カティは胸を抑えて唾を飲む。
嘘だろ、そんなことないだろ。アタシなんかに。
こんなの、映画やドラマや小説や漫画や……と、とにかくフィクションだろ。
そんなことを考えているカティの紺色の瞳は、しかし、ヨーンの瞳に吸い込まれている。
と、思ったら、カティの視界が急にぐにゃりと歪んだ。
「カティ?」
ヨーンの声が幾重にも反響している。
「カティ、大丈夫!?」
視界がグラっと傾いた。ヨーンの顔を飛び越えて、ガラス張りの天井が視界いっぱいに映る。そこにヨーンの心配そうな顔が入り込んでくる。
あ、ヨーンに抱かれてる。
混乱する意識の中で、カティはそれだけを明確に認識していた。
ヨーンは緊張した顔で携帯端末を使ってどこかへ連絡をし、その間にも右手でカティの制服の首元を開けている。それでカティはようやく呼吸を確保できた。寒いのに、全身に汗をかいているようで、ひどく冷たかった。
「カティ、大丈夫。ちょっとこの部屋の空気が、君に合わなかったみたいだ」
ヨーンは携帯端末のフリーハンドモードで誰かと話しながら、カティを横抱きにする。
「は、恥ずかしい……」
「そんなこと言ってる場合?」
少し怒ったようなヨーンの言葉に、カティはしゅんとなる。
「心配ないよ。アレルギー検査が必要かもしれないけど」
ガーデンスペースから出て、食堂前の休憩スペースに戻ると、そこにはエレナと医務室勤務の女性看護師が待っていた。カティは顔を前髪の奥に隠し、小さく震えている。具合が悪かったのもあるが、半ば以上は羞恥からくるものだ。
「ジュバイル、ありがとう、助かった」
「お安い御用」
エレナはそう言いながら、カティを手近な椅子に座らせた。すぐに看護師がカティの様子をチェックして、ひとつ頷いた。
「症状は落ち着いたみたいね。アレルギーみたいなものだと思う。今は? 息苦しさはある?」
「それは、治りました。ただ、頭が重くて」
「でしょうね」
看護師はそういうと、ヨーンの背中を軽く叩く。
「この子をストレッチャーに乗せてもらっていい?」
「あ、はい」
ヨーンはそう言うと、半浮上式ストレッチャーにカティを寝かせる。看護師は礼を言うと、そのままカティを連れて立ち去ってしまった。
「で、ヨーン?」
それを見送ったエレナは、隣で心配そうな表情を見せているヨーンの脇を肘でつつく。
「告白できたの?」
「うーん……」
「え、なに? あの神シチュエーションで告白できなかったの?」
「ぼ、僕だってさ、一世一代の決心をしたさ」
「でもダメだった?」
「倒れられちゃしょうがないだろ」
「まぁねぇ」
エレナは意地悪な笑みを見せる。ヨーンは頭をポリポリと掻いてから、がっくりと項垂れた。
「僕さ、カティの事が本当に好きなんだと思う」
「私に告白してどうすんのよ」
「君のせいだ」
「へっ?」
「君があんなふうに背中を押さなかったら、僕はこの気持をごまかし続けられたんだ」
「ばーか」
エレナはクックックと喉の奥で笑った。
「地獄の釜の蓋じゃあるまいし。誰かを想う気持ちに目を逸らしちゃだめなのよ、ヨーン。誰かを好きだって言う心の声に耳を塞ぐのもだめ」
「そんなこと言ったって、僕にメラル……カティはもったいないよ」
「ばーかばーか!」
エレナはヨーンの背中を強く二度叩く。
「それを決めるのはあなたじゃないわよ。カティが、決めるのよ。心配しないで、カティをいっちばん愛してる私が保証するわ。あなたは、カティの隣に……そうね、私の次に相応しいわ」
「そうかなぁ」
「ちょっとヨーン。でっかい図体でなにナヨってるのよ。まずさ、あなたの心は何て言ってる? カティに触れたい? 抱きしめたい? キスしたい? それとも――」
「ちょちょっちょっと待った」
ヨーンは周囲を見回して息を吐く。昼休みもそろそろ終わる頃合いで、幸いにして誰もいなかった。エレナはニヤニヤと悪い笑みを浮かべている。
「ま、あなたの心ははっきりしているみたいだし……って何しょげてんのよ」
「いやぁ、あのタイミングで倒れられると、そりゃやっぱりショックだよ」
「お見舞いに行く口実ができたじゃない。良かったわね」
「君のそのポジティヴさには敬意を表するよ」
「それ以上無駄口叩くとキスするわよ」
エレナはヨーンを見上げながら右の口角を吊り上げる。ヨーンは露骨に動揺を見せる。
「冗談冗談。私のファーストキスはカティに捧げるって決めてるもの」
「それは、そのちょっと」
「それがイヤなら、もっともっとがんばりなさいな、ヨーン・ラーセン」
エレナは頭の後ろで手を組むと、最近流行りのラヴソングを口ずさみながら午後の教練へと向かってしまった。
ああ、もう! ――ヨーンは心の中で地団駄を踏む。ヨーンにとって、こういった恋愛沙汰はまったくの始めてだった。自分の中に湧き上がる感情や痛みをどうしたらいいのかまるでわからない。フィクションなら幾らでも見てきた。だけど、自分がその当事者になるだなんて、まるで想像したことがなかったのだ。 そんなヨーンの気配を背中で感じながら、エレナは苦笑している。
「まーったく。お似合いよ、あんたたち」
エレナは吹っ切れたようにそう言うと、追いかけてくるヨーンを振り切るように軽やかに走り始めた。