ちょうどその頃、クロフォードは執務室にて険しい顔をして壁掛けのディスプレイを睨んでいた。そこにはヤーグベルテの支配域と戦闘域、被害状況が表示されている。今は戦闘は発生していないようだったが、アーシュオンの潜水艦艦隊はどこに隠れているかわからない。潜水艦による大規模作戦が発生したら、今は本当になすすべがない。潜水艦キラーとも呼ばれるクロフォードにしても、最前線にいてこその能力だ。出現位置の予測ができたとしても、実働部隊がクロフォードの意図したとおりに動いてくれる可能性は低い。クロフォードは海軍の中にあっては最も戦術戦略に優れた将校ではあったが、いかんせん「中佐」である。海軍本部と丁々発止をやりあうには、その地位では不足だ。
その時、クロフォードの携帯端末に着信があり、クロフォードは「肯定」を三連発して切った。アケルマン軍曹を現場から外そうと画策したのだが、参謀本部にまで話が行ってしまったらしく、参謀本部および陸軍からの大クレームが発生する事態となったのだ。アケルマン軍曹は、この士官学校を卒業した数多くの将校たち、場合によっては将官に至るまで、非常に支持されている男だった。クロフォードはその支持率を少々見誤った。クロフォードとしては前時代的な指導をするアケルマンにはそろそろ現役を退いてもらって悠々自適に暮らしてほしいという思いもあったのだが、どうやらその意図は通じなかったようだった。
「まぁ、いいか。教官も不足しているしな」
実際のところ、アケルマン軍曹は有能だった。もちろん最前線で戦った経験もあり、それ故に現場の知識は豊富だった。そのうえ卒業生たちと頻繁に交流を持っていることもあり、情報のアップデートにも余念がなかった。教練時は文字通りに鬼軍曹であったが、それ以外ではただの気さくな初老の男だった。クロフォードも幾度か話をしたが、確かに否定的な印象は持てなかった。
「何にしても、軍には腑抜けになってもらうくらいの時代がちょうどいいのだが」
セイレネスが実用化された暁には、陸海空を問わず、全ての兵士、そして全ての兵器が、歌姫の従属物となる。ましてあのヴェーラ・グリエールとレベッカ・アーメリングだ。歌姫が何たるかはいまだよくわからないところはあったが、二人の戦闘能力および指揮能力は本物だった。クロフォードとしても、二人が最前線に出るその日には、完全に黒子に徹する覚悟ができていた。それほどまでにシミュレータで見たセイレネスの威力は圧倒的だった。戦艦メルポメネ、そしてエラトー。この二隻が登場した時こそ、戦争のパラダイムが変わる時だ。
もっとも、二隻の戦艦で戦争の趨勢が変わるなんてことはないだろう。俺の隠居生活はまだ先だな。
クロフォードはそう思った。その時だ。
「あら、あなた、隠居したかったの?」
いつの間にか、応接用のソファに金髪碧眼に黒尽くめの男――ハルベルト・クライバーが座っていた。美しい容姿ではあったが、クロフォードはそこに関心を払わない。驚きもしない。
「野暮な質問をするつもりはないが、貴様は何者なんだ、いったい」
「あたしの経歴くらいチェック済みではなくて?」
「あんなクリーンな情報を信じるほど、俺は大人じゃぁないんでね」
「あらあら。あたしは究極的にクリーンよ。あなたたちの語彙力では到底表現ができないほどにね。それにそもそも、あたしがあたしについての正しい情報を主張したとして、あなたはそれを素直に受け止められるかしら?」
「貴様が超常現象ではないということを認めるよりは百倍容易いと思うがね」
クロフォードはハルベルトに冷たい視線を送ると、デスクチェアに腰を下ろした。
「我が国の誇る電脳の天才、異次元の手イスランシオ大佐の力をもってしても、貴様の正体が正確に掴めていない。ある意味では、それが貴様という存在の証明だ」
「ふふ、そうと言うのなら、そうでしょうね」
ハルベルトはお道化て言った。クロフォードはわずかに目を細め、ハルベルトを睨む。ハルベルトは「ふふふ」と妖しく笑い、あっさりとした口調で言う。
「あなたは薄々勘付いているようだけれど、セイレネスはただの戦闘システムなんかじゃないわ」
「……ならば何だと言うのか。あれは我がヤーグベルテの超大規模国家プロジェクトのコアだぞ」
「セイレネスは、ジークフリートとこの世界を繋ぐためのシステム。本来、あなたたちには過ぎたテクノロジー。いわばセイレネスは方法論」
「方法論?」
「イエス。秩序に混沌を、混沌に秩序を。全ての事象のヴェクタを反転させるためのメソッド。あなたたちが好きそうな表現を使うなら、そうね、さしずめ異世界への門といったところかしら?」
「常識の範疇を逸脱した話に聞こえたが」
「そう。あなたたちの常識なんてあっさり飛び越えた話よ、クロフォード中佐」
ハルベルトはまた艶然と微笑んだ。
「ヴァラスキャルヴが産み出した、ラグナロクの呼び水となる要素。それがセイレネス。そして、歌姫」
「神々の黄昏は何百年も昔の神話の話だ」
「歴史は繰り返すのよ」
ハルベルトは右手の人差し指を立ててみせる。
「既存の事物の消滅と、新時代の幕開け。既存の神の世界の終端。歌姫計画の目的はね、そのための舞台を設計することなのよ」
何を世迷言を――と言いかけて、クロフォードは言葉を飲み込む。セイレネス・システムにはブラックボックスが多すぎるとブルクハルト技術中尉が言っていた。ホメロス社によって提供されたシステムは、天才の名をほしいままにするブルクハルトから見ても完璧だった。しかし、それゆえにわからないところが多すぎた。ブルクハルトとしても提供されている資料を信じるほかにないところが数多くあると言う。
「そもそもヴェーラやレベッカの出自も明らかではないのではなくて?」
「それは、そうだが」
クロフォードもそれは知っていた。もちろん表向きの経歴はあるし、あの二人に聞き取りしたところでは矛盾はなかった。だが、それゆえにきれいすぎたのだ。情報に不明瞭なところがないというのは、それ自体が不可解だ。クロフォードも独自のネットワークで調査していたし、イスランシオ大佐もまた独自に調査を行っていた。だが、何もない。どこを見ても完璧な情報しか見当たらないのだ。ヤーグベルテの中央政府に問い合わせをしたこともあったが、何ら有効な回答は返ってこなかった。
「神々の黄昏ののち、世界に遺されるのは二人の人間。そして世界樹。そして人は再び神となり、宮殿を創発し、また終焉へと向かう。人はこんな歴史をツァラトゥストラの語りの如く、永劫に繰り返してきた。このラグナロクを中心にした永劫回帰」
「貴様が今言った神というのは、ジョルジュ・ベルリオーズのことで間違いないか」
「ティルヴィングを与えられし者をそうと呼ぶのなら、そういうことでしょうね」
ハルベルトはあっさりと認めた。クロフォードには「ティルヴィング」の何たるかはわからなかった。だが、今のハルベルトの言葉は、超常的なものによる超常的な事象についてのものだということは理解した。ジョルジュ・ベルリオーズは現時点でも事実上の世界の王だ。世界のすべてを覆いつくしたシステム「ジークフリート」の制作者にしてアドミニストレータ。ありとあらゆるシステムはジークフリートに逆らうことはできない。どうしてそうなってしまったのかは、クロフォードにもわからない。彼が気が付いた時には世界はすでにそうだった。
「俺はオカルトなものは信じない主義だったんだが。どうやら考えを改める必要がありそうだな」
クロフォードは腕を組み、ハルベルトを視線で斬り付ける。ハルベルトは悠然と立ち上がり、クロフォードの目の前まで歩いてくる。
「人間は、自らの経験してきた以上のものを真に理解することはできないの。人間の個々の知恵の差なんて、あたしたちからしてみれば悉皆、誤差の範囲」
ハルベルトは冷然とした目でクロフォードを見下ろした。しかし、クロフォードは負けずに睨み返す。ハルベルトは口角を上げてまた人差し指を立てた。
「人間が新たに受容できる情報量は、その個人の持つ情報の総量に等しい。そういう意味では、セイレネスなんていうシステムは、まさに狂気の領域に存在するもの。本来、人間にとっては、存在していてはいけないものなのよ」
「だが、事実こうして存在しているだろうが」
「そう、存在している。だけど、あなたたちには理解することは永遠にできないものなのよ」
柔らかく人類を見下すハルベルトを、人類を代表してクロフォードが睨む。
「一つ教えてあげるわ」
ハルベルトはふわりと微笑する。
「アーシュオンが動く。そして、ヤーグベルテは未曽有の被害を被ることになる」
「防ぐ手立ては」
「ない」
明確な断定。 クロフォードは息を飲む。そこに嘘はない――彼の中で何かがそう告げたからだ。ハルベルトは表情を消して、美しい形の唇で告げた。
「ヤーグベルテが地獄を見ること。それもまた、歌姫計画のためには必要不可欠な要素なのよ。それはね、クロフォード中佐。あなたがたの目論見とも合致するのではなくて?」
「……さぁな」
クロフォードもまた無表情に応じる。ハルベルトは冷たい表情のまま「ふふ」と笑う。
「人間の目論見に乗じて、自分たちの思惑を実現する。彼女らしいやり方よね」
「彼女?」
「そう。いわばメフィストフェレスね。盲目のファウストを後ろから墓穴に蹴り落とす悪魔よ」
ハルベルトは天井を見上げ、一瞬だけ口角を上げた。
「ファウストが盲目なのか否かは、本人にしかわらかないのだけどね」
その時、窓ガラスが音を立てた。突風に叩かれたのか。
クロフォードの意識が一瞬そちらに向く。
その瞬間に、ハルベルトの気配が消えた。
「……俺たちはとんでもないものに関与してしまったのかもしれないな」
クロフォードはハルベルトが立っていたはずの場所を見て、苦笑する。
「歌姫計画……そして歌姫。世界は俺たちに何をさせようと言うのか」
利用していたつもりが、まんまと利用されているというのか?
クロフォードはしばらく沈思する。
「いや――」
もはやこの計画は止められまい。だが、ベルリオーズだろうがメフィストフェレスだろうが、邪魔だてするのであらば、排除するほかにないだろう。
クロフォードは無表情なままに、そう考えた。