イスランシオは足を組み、ソファに深く身体を沈める。思っていたよりも疲れているのか、少し眠気を覚えてしまう。それもそうだ。昨日から一睡もしていないのだから。イスランシオは気を紛らわすために立ち上がる。ヘレーネも立とうとしたが、それは手で制した。
「君がここに配属されてから一年か?」
「肯定です。一年と少々になりますね」
「早いものだ。戦闘と事務処理に明け暮れるとあっという間に一年が過ぎる」
イスランシオはそう言ってヘレーネを見下ろした。ヘレーネは少し微笑んでいる。
「大佐が拾ってくださらなければ、私、軍には残れませんでした」
「君ほどの人材を野に放つのはあまりにも惜しい」
イスランシオはそう言いながら、自分の執務デスクへと移動する。定期的に各種のログを確認セずにはいられない性分だった。ヘレーネももちろん、そんなことは承知している。
「あの時の私は士官学校を出たての若造でしたよ、大佐」
「君の成績は十分承知していた。航空戦の模擬訓練の結果もな」
「航空戦、ですかぁ」
ヘレーネはやや気の抜けた声を出す。当時は今のようなシミュレータは存在しておらず、訓練用の実機を実際に飛ばしていたのだ。非常にコストがかかり安全性にも問題が残っていたため、ほとんどの新任パイロットは、まずはちゃんとした飛行訓練から始めなければならなかった。しかし、ヘレーネの実機訓練の成績は非常に優秀で、そのことはイスランシオたちの耳にも入っていた。当時の教官たちは揃って「四風飛行隊入りは間違いない」と評価していたからだ。
「上手くは行かないものですね」
諦めたように言うヘレーネに、イスランシオはやや慌てた様子で言った。
「後遺症の方は落ち着いてきたのか?」
「あ、はい。先週の診察で、一旦薬を抜いてみようって話になってます」
「そうか。そこまで回復できたんだな」
イスランシオは目を細める。ヘレーネは胸のあたりを押さえて、「時々痛みますけどね」と言う。
「日常生活は大丈夫なのか?」
「多分、今までより悪くなることはないと思いますよ。ありがとうございます、大佐」
その言葉に、イスランシオは「よかったな」と短く言って少し力を抜いた。
五年前、士官学校を卒業したヘレーネは、その足で当時の軍司令部に向かったのだが、その途中で大きな事故に遭ってしまった。一部報道ではテロとの味方もあったが、その真実は不明だ。ただ、その現場にはイスランシオがいた。彼の暗殺を狙ったものだとするならば色々と説明もつく。そして当のイスランシオは、あれは間違いなく自分を狙った暗殺計画の一端だったと信じている。
ともかくも自動車事故からの大爆発に巻き込まれたヘレーネは、瀕死の重傷を負った。それを助けたのがイスランシオであり、救命処置を行ったのも彼だった。その甲斐あってヘレーネは一命をとりとめたが、全身の大部分を失った。両腕、両足は半ばから喪失し、皮膚もほとんどが後に手術で再生させたものだ。内臓へのダメージも申告で、特に肺機能のほぼ全てを喪失したのが痛撃だった。戦闘機に乗ることは、この時点でもはや絶望的だった。
「大佐がお見舞いに来てくださった時は、そのまま天国に行っちゃえるんじゃないかってくらいに幸せでした」
「危うく殺すところだったか」
「でも真面目な話、大佐に憧れて訓練に明け暮れた私としましては、たとえ飛行機に乗れなくなったとしても、大佐に親しく声をかけていただけたというのは何よりも嬉しかったんですよ」
ヘレーネは包み隠さずにものを言う。彼女は常に直球勝負で生きてきたからだ。そして謀略だの情報戦だのの先陣を切る羽目になるイスランシオには、彼女のその表裏のない性格と態度がとても心地よいのだ。
「私の目標は、大佐の二番機になることでしたけども、あの怪我を負った時は何もかも終わったと思ったんです。今までの頑張りも何もかも、全く無駄になっちゃうって、すごく不安でした」
「今日はよく喋るな、ヘレン」
「そういう気分の日もあります。だって」
ヘレーネは一瞬だけ躊躇を見せたが、すぐにイスランシオと視線を合わせて続けた。
「だって、シベリウス大佐への国民の扱いを見ていると、ある日突然状況が変わってしまうかもしれない。伝えたい言葉を伝えることすらできなくなるかもしれない――そんな不安に駆られたんです」
「レヴィも役に立つな」
「そういう言い方はどうかと思います、大佐」
ヘレーネは厳しい口調でそう言った。イスランシオは明らかに気圧されて、「すまんすまん」と答えるのが精一杯だった。
「俺とレヴィの関係は知っていると思うが」
「愛人でしたっけ」
「バカを言うな。少なくともレヴィとはごめんこうむりたい」
珍しく軽口を返すイスランシオに、ヘレーネは追い打ちをかける。
「十中八九、大佐のほうが受けですもんね」
「何の話だ?」
「あ、逆もいいわね……」
ヘレーネは一瞬自分の世界に入りかけたが、すぐに我に返る。
「私、大佐が仮にシベリウス大佐と相思相愛だとしても、邪魔しにいきますからね」
「そうじゃない」
イスランシオは苦笑を見せる。ヘレーネは「くくっ」と喉を鳴らした。
「で、だ。ヘレン。今回のシベリウスバッシング。君はどう考える?」
「そうですね」
瞬時に真面目な顔に戻ったヘレーネは一拍置いた。
「今はシベリウス大佐個人を必死に叩いているフェーズですが、それはやがてエウロス、四風飛行隊、空軍全体への指弾という流れになるでしょうね」
「根拠は?」
「一度人々の間で燃え上がった話題は、簡単には鎮火しない。ともすれば何年も燃え上がる。鎮火したと見えてもある日突然燃え上がる。ターゲットにされた人は、この先一生その火種に怯えて生きなければならない。軍も政府も、シベリウス大佐を捨て石にした、と考えるのが妥当です」
流れるような断定に、イスランシオも同意する。彼は誰よりも、ネットを流れる情報に敏感だった。ヘレーネは一秒と少し思考してからまた口を開く。
「そしてそれを提案し、実行に移したのは、間違いなく参謀部第三課。アダムス少佐によるものと考えられます」
「その推測が真実であるとして、ならば君は、そのメリットは何だと考える?」
イスランシオはヘレーネの藍色の瞳を直視する。ヘレーネは目を逸らさず、世間話でもするかのように流れるような口調で告げる。
「テラブレイク計画を推し進めるためです」
「ほう。しかし、このままでは海軍だけがいい目を見るように思えるが?」
「まったく。大佐は答えを持っていながら、そうやって私を試す。しっかり査定に反映してくださいよ?」
「合っていればな」
イスランシオはコーヒーをまた一口飲む。もうだいぶ冷めてしまっているが、香りはよかった。
「エウロス飛行隊は、我らがボレアス飛行隊と並ぶ国家最強の部隊にして、守護の双璧。その発言力ももはや絶大。もちろん、予算も。国民からの支持も非常に。この現状は、新しい物事を始めるのにあたって、大変な障害になると感じている関係者は大勢います、実際の所。上層部や政治の世界は類に漏れず伏魔殿ですし」
「なるほどね。海軍および空軍の一部の部隊の発言力が落ちたところに、テラブレイク計画を捩じ込むと。そういうことだな?」
「肯定です、大佐」
ヘレーネの藍色の瞳が物騒に輝いた。
「本来の筋道であれば、参謀部第三課が直接的に協力を要請してくるところでしょうが、アダムス少佐はきっと、主導権が欲しいのでしょう。自分より力のある勢力には残っていてほしくないと」
「くだらん話だが、あいつならそう考えてもおかしくないな」
「このままだと、テラブレイク計画の実務担当もエウロスかボレアスになるでしょうし。そうなると支障があるのでしょうね、テラブレイク計画は」
慧眼恐れ入る――イスランシオは鋭い視線でヘレーネを見るが、ヘレーネはその確信を揺らがせることはなかった。
「歌姫計画も得体の知れなさでは大概だが、アレは基本的には国防政策の一つだ。テラブレイク計画に関しては、今の俺の立場からは何も話せんが」
イスランシオは含みを持たせて言う。ヘレーネは「了解です」と短く応じた。そして数秒間の躊躇のような間を持たせてから、またイスランシオを直視した。ヘレーネの視線はイスランシオにはよく刺さる。
「歌姫計画が先にあって、後から出てきたのがテラブレイク計画なんでしょうね。参謀部第六課の仕切っている歌姫計画一強をよしとしなかったどこかの偉い人が、それに拮抗する勢力を作ろうと画策した結果生まれたのがテラブレイク計画」
「そのパワーゲームに本気で乗っかって、あわよくばライバルである第六課統括ルフェーブル中佐を出し抜きたい。……アダムスの野郎の考えそうなことだ」
面白くなさそうに、イスランシオは呟いた。ヘレーネは「ですね」と同意するが「しかし」と続けた。
「こんなに分かりやすい構図でいいのか、という疑問はあります」
「事実というのは得てして単純なものだと思うがね」
「そもそもルフェーブル中佐ほどの方が、アダムス少佐に簡単に利用されるでしょうか?」
おっと……?
イスランシオはそのことを考慮していなかったことに気が付く。二人の統括が犬猿の仲であることは、将校ならば誰でも知っている話だ。ルフェーブルがこんな構造に気付いていないはずがないし、だとすれば簡単に踏み台になどなるはずもない。
「となれば、逃がし屋ルフェーブルにも何か考えがあるのか、あるいは、彼女ですら抗えない何かの力がはたらいているのか、か」
「怖い怖い」
ヘレーネはわざとらしく肩を竦めてみせる。イスランシオは腕を組んで息を吐く。
「セイレネス・システムというのは、ホメロス社から提供されたものらしいのだが、ブルクハルト中尉によれば、そのほとんどがブラックボックスらしい。ホメロス社といえば、かのヴァラスキャルヴに所属している巨大軍産企業複合体の一つ」
「となればまさか、ジークフリートの、ジョルジュ・ベルリオーズが噛んでいるなんてことも?」
「ない話じゃない」
イスランシオはその点を最も懸念していた。というのは、イスランシオの情報収集能力をもってしても、世界を覆う企業体であるところのヴァラスキャルヴの実態が掴めないからだ。歌姫計画にも、あるいはテラブレイク計画にも、ホメロス社を始めとする企業がただの技術提供以上に絡んでいる。つまり、戦争のための戦争――。
イスランシオは首を振った。確証の得られないもの、答えに論理的にたどり着けないものについて、あれこれ思考を巡らせるのは無駄だと気が付いたからだ。
そんなイスランシオを見つめたまま、ヘレーネはぽつりと呟いた。
「私たち、何のために戦っているんでしょうね」
――と。