06-1-3:十二時間前の真相

本文-ヴェーラ編1

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 セプテントリオの中心部がぜた。

 放出された甚大な量の中性子が、半径十数キロの範囲にいた生物たちにほとんど平等に致命的なダメージを与えた。その数秒後には、高熱の津波が空間をいだ。瞬く間にセプテントリオという都市が消えた。文字通り、何もなくなった。

 落着から消失までのほんの僅かな時間のことだ。

 アトラク=ナクアは、リビングで読書していたヘレーネ・アルゼンライヒの前に姿を現した。それはアトラク=ナクアにしてみれば、ほんの些細な気紛きまぐれからの行動だった。アトラク=ナクアが個人的に注目していた男、エイドゥル・イスランシオの想い人。そしてエイドゥル・イスランシオに憧憬どうけいを抱いていた人間。それがこのヘレーネ・アルゼンライヒだった。

「あなたはもう死ぬけれど」

 驚くヘレーネに向かって開口一番、アトラク=ナクアは言った。銀髪の影に揺れる赤い瞳に捕らわれたヘレーネは、立ち上がることも出来ずに不安げな表情を見せている。彼女はこの状況を全く飲み込めていないのだ。

「理解は追いつかないでしょうね。でも、あなた、死ぬのよ」

 アトラク=ナクアは窓の外を指差した。カーテンは開いていた。遠くに白い光のようなものが見えた。それはほんの少しずつ大きくなっているように見えた。ヘレーネはつけっぱなしになっていたテレビを見て、眉根を寄せる。そして古めかしいアナログの時計を見て、アトラク=ナクアに視線を戻した。

「どういうこと?」

 全てがスローモーションだった。一秒が一分、二分。そこまで引き伸ばされているかのような。

「アーシュオンの新兵器によって、この街は滅ぶの。あなたも死ぬ」
「そんな……」

 ヘレーネは胸の前で右手を握りしめる。

「どうしてそんなことが」
「理由なんて多分ない。あったとしてもあなたに承服できるものではないと思うし、だからといってどうなるものでもないわ」

 窓の外の光はゆっくりと、しかし確実に大きくなってきていた。夜闇を上書きするほどの輝きは、いっそ美しかった。

「あなた、イスランシオのそばにいたい?」
「……あなたは誰」
「訊いているのは私。私の質問に答えなさい」

 アトラク=ナクアは目を細める。ヘレーネは息を呑んで、ただアトラク=ナクアの赤い瞳を見つめている。左手にはさっきまで使っていたタブレット端末がある。それにはもう何も映っていない。

 アトラク=ナクアは小さく首を振る。

「あなたは死ぬけど、私の問いにイエスと答えれば、あなたは永遠にイスランシオのそばにいられる」
「そんなことできるわけない。死んだらおしまい。なにもかも」
「あなたの常識ではそうでしょうけど」

 アトラク=ナクアは顎を上げてヘレーネを見下ろす。

「もっとも、あなたには少し協力してもら――」
「お断りします」

 ヘレーネは毅然と答えた。彼女なりに、今自分が置かれている状況を理解したのだ。

 光はいよいよ巨大になってきていた。遠くの建物はもう見えない。まばゆい死の閃光に飲まれて消えていた。ヘレーネの部屋の照明が落ち、テレビが消え、彼女自身の影が床と壁に長く伸びた。

「なぜ? あなたは――」

 窓ガラスが弾けた。緩慢な刃の雨が横殴りにヘレーネを突き刺した。ヘレーネの悲鳴が上がる。全身をずたずたに切り裂かれたヘレーネは、しかしまだ生きていた。アトラク=ナクアの力である。

「もう一度訊くけど。この痛み、苦しみ。そういうものを忘れて、そして愛する人と永遠に添い遂げられ――」
「イヤよ」

 ヘレーネは血を吐きながら応じた。生き残っていた肺が、血液に溺れている。全身を絶え間なく突き刺すガラスの欠片にさいなまれながらも、ヘレーネはアトラク=ナクアを見上げていた。

「あなたには機会があるの。第二の生を、エインヘリャルとして生きることができるという」
死せる戦士エインヘリャル?」

 ヴァルキリーがヴァルハラへと、戦争のために連れて行く死者たち。それがエインヘリャル。苦痛にあえぎながらも、目を逸らそうとしないヘレーネに、アトラク=ナクアは少なからず動揺していた。

「このまま死ぬことを選ぶというの、あなたは」
「それが運命なら。わけのわからない生き方はしたくない」

 ゴボゴボと血を吐きながらも、ヘレーネは鋭い口調で応じた。アトラク=ナクアは当初の目的も忘れて、ヘレーネの血まみれの身体に手を伸ばす。

「ならあなたは、こんな人生で――」
「こんな人生だなんて、ひどい言い方ね」

 その手を払いけ、ヘレーネは咳き込んだ。大量の血液が流れ出す。

「私は私の人生に後悔なんてない。もっと上を、より大きな幸せを願わない日はなかったけど。でも、それは願望。今に満足していないわけじゃない」
「でも――」
「あと十年生きられるとしたらなんて考えなくはないけど、それもないのなら、やっぱり私は今に満足している」
「そのまま、何も遺さずに死ぬの?」
「死とはそういうもの」

 ヘレーネはもはや見えなくなった目でアトラク=ナクアを見ていた。熱が襲ってきて、ヘレーネの皮膚が泡立ち始めていた。ヘレーネは右手を伸ばす。

「でもよかった、あなたがいて」
「よかった……?」

 アトラク=ナクアは完全に狼狽ろうばいしていた。ヘレーネの言葉に。そして、ヘレーネの手を握っている自分に、だ。ヘレーネは言う。

「あなたは死なないんでしょう?」
「……そうね」
「なら、あなたの記憶には遺る。この街の多くの人が誰にも看取られなかったことに比べれば、私は幸運だったって思う。あなたは死なないから、だから、あなたの記憶も遺る」

 その言葉は音としてはもう成立していなかった。アトラク=ナクアだから理解できただけだ。

「私の記憶に遺ったって、意味なんて」
「その意味を奪わないでほしい」
「……っ!?」

 アトラク=ナクアはヘレーネの手を握ったまま、唇を噛んでいた。その自分の行動に、また自分で驚いてしまう。

「あなたの……言葉を、彼に伝えるわ。あなたの想いを」
「ありがとう、死神さん」

 ヘレーネは身体を失いつつあった。室内はもう原型を留めないほど破壊されていた。この建物ももうじき潰れてしまうに違いない。

「でも、私は想いなんて言い遺さない。言い逃げはイヤよ。だからね?」
「しかし、あなたは――」
「死神さん。あなたは、想いを伝える意味ってわかる?」
「……意味?」
「それはね、答えを聞きたいからなんだよ? 想いに対する答えを聞きたいから、想いを伝えるの。だから、私が伝えることを選んでしまったら、同時に答えも期待してしまう。聞けないのにね。そんなの残酷じゃない?」
「だったら私の――」

 言いかけて、アトラク=ナクアは沈黙した。ヘレーネの顔はもう原型を留めていなかったが、アトラク=ナクアにはこの上なく美しく静謐な、侵犯すべきではないものに見えていた。人間ごときにそんな感覚を覚えたことはなく、アトラク=ナクアは少なからず畏怖のようなものすら覚えていた。

 ヘレーネは祈っていた。何をでも、誰にでもなく。アトラク=ナクアには、その聖域に踏み込む勇気が湧いてこなかった。

 ヘレーネの身体はもうすでに蒸発していた。そこに遺されているのは意識の残渣ざんさ

『死神さん、私の想いは、私が連れて逝くの。こんな私の想いを言い逃げなんてできないし。された方も迷惑、でしょ? あの人はきっと、私のために悲しんでくれる。それで十分。十分満足』
「なぜ! なぜこんなに……。なぜおののかない。死の恐怖に震えない!」
『ありがとう、死神さん。あなたのおかげで私は死ねるよ。ありがとう』
「せめて、一言何か遺しなさい!」

 アトラク=ナクアは強制的にヘレーネをに引き戻す力を持っている。しかし、できなかった。なぜかはわからない。だが、その糸を引くことが出来なかった。普段の彼女なら人間の意思など無視してでも目的を完遂していただろう。だが、今のアトラク=ナクアにはどうしてもできなかった。

『そうね、ありがとう、死神さん。なら、一言だけ。さよならと。それだけ』
「さよなら――ですって?」
『ええ、それだけを』

 ヘレーネの意識の声が消えた。は瓦礫の山の頂上で、ただ呆然と揺れていた。

「さよなら……か」

 はそう呟くと、音もなく姿を消した。

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