士官学校周辺の通信はすべて奪われたと考えて良い――フェーンは一人、吐き気をもよおす臭気を突っ切って、シミュレータルームへと向かっていた。レクセル大尉に出した指示が守られているのだとすれば、まもなく歌姫の二人に合流できるはずだ。今は最短経路が経たれているが、レクセル大尉が初動を誤っていなければ、あの子たちはそう難なく目的地に到達できるはずだ。
しかし方々に指示を出しているうちに最短経路を奪われてしまった。フェーンは仕方なく、敵の手薄なエリアを抜けながら目的地を目指しているところだ。随所に兵士のみならず、惨たらしく破壊された候補生たちの亡骸が転がっていた。フェーンも軍の経験は長いが、ここまで凄惨な戦場を見たことはなかった。元恋人、エディット・ルフェーブルが見たというアイギス村の虐殺事件の現場――それとこれとはどちらがより凄惨なのかというほどに、想像を絶する光景が広がっている。これには豪胆にして冷静なフェーンでも、恐怖のようなものを感じざるを得なかった。
「論理回線も駄目か」
フェーンは携帯端末を確認して苦々しげに呟く。ジークフリートの統括するネットワーク、それに搭載されている通信回線システム、それが論理回線である。ジークフリートがリアルタイムに監視補正を行うため、ジークフリートが誤作動をしない限りダウンすることはなく、また、ジークフリートの誤作動自体あり得ないと言われていた。よしんばそうであったとしても人間には検知できまい――とすら、まことしやかに囁かれるくらいである。
「論理回線が落ちたことに気付いてくれれば」
あるいはまだ増援の可能性はある。しかし、論理回線の死活監視など誰も行おうとしないし、よしんば仕込んであったとしても誰も気にもとめないだろう。そのくらい、論理回線は信頼されているのだ。
「エディット、頼むぞ」
フェーンは軍内部で唯一信頼している元恋人の名を呼び、向かってきたサーチライトの輝きから身を隠す。
「あんなものまで使われるとはな」
政治の都合によって自分たちが配備した中古装備たちが、いま、自分たちに向けられている。候補生たちは単なる被害者だ。これだけの兵器が配備されていなければ、ここまでの被害は出なかったに違いないからだ。88mm速射砲すら校舎に向かって撃ち込まれている。どうやって生き残れというのかという話だった。
回線をやられている以上、校舎内に展開している部隊間の連携もとれない。おそらくほとんどが各個撃破されてしまったことだろう。銃撃音もほとんど散発的になってきている。
「となれば、この襲撃は前々から周到に準備されていたということかもしれんな。あるいは、ゴーストナイト、か」
フェーンは階段室を抜けようとしたところで手を止める。この扉を開いてはいけないという直感が働いた。扉の隙間から今まさに大量の血液が染み出してきていた。重砲の音で聞こえなかったが、今まさにここで銃撃戦が起きていたようだ。フェーンは諦めて、今降りてきたばかりの階段を登ろうと背を向ける。手にした拳銃が頼りない。頼りないが、ないよりはマシだった。敵の重甲冑の前には無力だろうが。
べちゃっ、べちゃっという不愉快な音が背後に迫る。階段室の扉の前に何かがいる。死体をどけようとしているだろうか。そう思いながらもフェーンは階段を駆け上がる。そして扉を開けてすぐに身を伏せる。サーチライトが今まさに照らしてきたからだ。その直後に外壁が粉砕される。88mm砲弾が撃ち込まれたのだ。
「く……そっ」
血煙になることは避けられたが、左の肘に破片が突き刺さっていた。もはや左腕は使い物にならない。出血も酷い。身体を動かすたびに気が遠くなるような激痛が奔る。
「エディット……」
早く気付け。せめてあの子たちだけでも助けてくれ。
フェーンは霞がかかり始めた意識を奮い立たせ、校舎屋上から狙い撃ちにされない通路へと身を隠す。フェーンはもはや合流を諦めていた。
いずれにせよ事態は動き始めた。この襲撃もまた、歌姫計画の一環なのかもな――などとも思う。
それから数秒する頃には、視界が揺れ始めた。船に乗っているような気分だった。暗い廊下の片隅だというのに、ほのかに眩しい。
足音が近付いてきていた。聞こえよがしに高らかに、踵を鳴らして近付いてくる。
せめて一矢報いねば、死んでも死にきれない。
フェーンは激痛をやり過ごすと、拳銃をしっかりと握り直して立ち上がった。
飄々とした足音が、近付いてくる――。