士官学校入学から二ヶ月と少し。暦は十二月に入っている。この士官学校のある統合首都は冬が早い。湿気で曇ったガラス張りの天井に、ぽつぽつと落ちては消えていくのは、もしかしたら初雪かもしれない。
私は士官学校の寮の最上階に備え付けられている浴場にある、巨大な湯船に浸かっていた。ざっくり五十人くらいが同時に入浴できるくらいの広さの大浴場だ。私がいた施設もお風呂はそこそこ大きかったけど、ここの浴場はそれとは比較にならなかった。そしてなにより、快適だ。
「こんなお風呂が無料開放、いつでも使えるとか」
士官学校の訓練はとても厳しかったし、連日の戦闘を見る度に暗澹たる気持ちにさせられはしているけれど、このお風呂に関しては本当に天国だった。休日に至っては一日中入り浸っていたって構わない――という建前。
そんな建前はともかく、「士官学校に入ってよかったと思うことは?」と問われて「お風呂!」と即答してしまうくらいには快適であることは事実だった。士官学校寮の最上階にお風呂というのは、ヤーグベルテ全土のどこもほとんど共通らしい。設計者様様だ。
「でもなぁ」
洗い場には何人かの先輩や同期の子たちがいたが、今はこの浴槽は独り占めだ。だからなのか、思わず独り言が漏れ出る。
「今日もレニーは帰ってこられないかなぁ」
今夜遅くに、第一艦隊に所属する歌姫たちの訓練があるらしい。レニーはいつもどおり、さも当然のごとく呼び出されていった。レニーはこの二ヶ月の間、とにかく忙殺されているのに、疲れを見せたり弱音を吐いたりしない。レニーの頭の良さや期待に応える能力、あと、誰にでも優しいあの性格は、本当に見習わなきゃならないなと思っている。けど、私じゃ逆立ちしたってレニーには敵わないだろう。
その時だ。ざぶんという音が聞こえたかと思うと――。
「どうしたの、シケた面しちゃってさ!」
「わあああああっ!?」
あまりの大音声に、私はお湯の中に没した。マリオン水没の図である。水中で目を回していると、さっきの声の主が、私の手をぐいっと引き上げてくれた。栗色の髪と瞳の、長身の女の子。私とアルマと同じ、第四期生のレオンだ。ああ、いや、レオンというのは本名じゃなくて。本当の名前はレオノール・ヴェガっていう、良いところのお嬢様だ。
「もう! いきなり大きい声出さないでしょ! あーほんとびっくりした。心臓バクバク」
「悪い悪い! で、心臓がバクバクだって? どれどれ」
「ってやめっ! 他人の胸触らない! あぁっ、もうっ! だめだってば!」
「生存確認だよ、生存確認!」
それは、鼓膜が通常の三倍は仕事をしてしまうような声量だった。洗い場にいた先輩や同期の子たちが私たちを見て笑っている。ああ、もう、恥ずかしい!
「それで、S級歌姫様がおひとりさまで、何を感傷に浸ってらっしゃるのかなってさぁ」
レオンは声量を抑えつつ距離を近づけてくる。どこまで近づくのかなと見ていると、肩を組まれてしまった。レオンはアルマ以上に女の子が好きで、本人もそれを公言しているし、私に対してもいつもだいたいこんな距離感だ。
「私で良ければお相手致しますよ、お嬢さん」
そしてこんな具合にアルトの最低音域で囁きかけてくる。その精悍とも言える容姿との合わせ技は、正直言って反則――いや、罪だ。犯罪的だ。だから私は、彼女のことを「レオン」と男性形の呼び名で呼ぶ。その度にレオンは「レオナと呼べ!」と反論するのだけど、半分は自業自得だと思っている。
「それで。私と裸のお付き合い、なんていかがですか、マリオンお嬢様」
「間に合ってるから大丈夫」
「間に合ってるぅ? そうは見えませんなぁ?」
レオンはなおも迫ってくる。なんか今日はいつも以上にグイグイくるなぁ。そうこうしているうちに、ついにレオンに正面から捕まってしまった。具体的に言えば抱かれてしまった。こうなったらもう逃げられない。体格ではレオンの方が圧倒的に上だったからだ。
洗い場から浴槽へ移動してきた先輩たちが「ラブラブだねー」などと茶化してくる。うーん。まぁ、レオンはイケメンだし? 正直あんまり悪い気もしていない。好きとか嫌いとか以前に、その竹を割ったような性格と強烈なリーダーシップには、私は本当に憧れている。
「で、どうしたのさ、マリー。センチメンタルな顔しちゃって」
私をその引き締まった腕と豊かな胸から解放してレオンは訊いてくる。私は「むぅ」と唸ってから応えた。
「そりゃ感傷的な気分にもなるよ、レオン。テレビもネットも毎日毎日ヴェーラ特集ばっかり。ある事ない事、みんな好きなことをわぁわぁ騒いでる。誰も自分たちの吐いた言葉に責任なんて負わないくせに!」
「真実を語れる人が沈黙してるしね」
「レベッカは……沈黙で誠意を語ってるんだよね」
「マリーはいつでも詩的だねぇ」
レオンは私の頭をぽんぽんと叩いて、また横に並んで肩を抱いてきた。私も諦めてレオンの肩に頭を乗せる。
「マリーはヴェーラ派だっけ」
「どっちかといえば、ね。でも、ふたりとも、私の憧れ。大好きな人」
「そっか」
レオンはゆっくりと息を吐いた。私もそれを追うように二酸化炭素を吐き出した。レオンは私の頭のてっぺんあたりにキスしてくる――こういうのが本当にずるい。レオンは私の顔を見て一瞬表情を緩めたが、すぐに表情を鋭くした。
「マスコミはヴェーラ・グリエールその人を見てない。ヴェーラが被り続けていた偶像という仮面だけを見て、好き勝手言ってるだけだからね。だろ、マリー?」
「うん。ヴェーラがどんだけ苦しんだかとか、どんだけのものを背負ってたかとか……考えてくれている人はとても少ないんだ。それに私は本当にうんざりしてるよ。ただ搾取できるだけ搾取して、いざ……あんなことになったらみんな一斉に手のひらを返した。無責任だ、逃げた、ずるい、自分をなんだと思ってる――うんざりだ、ほんとに、ね」
「全員が全員そうじゃないとは思うけどね、マリー。しかしながら、残念なことに、この国は民主国家なんだ。だから、多数派が正義なのさ」
「哀しいなぁ」
私は首を振る。レオンの手が私の首から肩までを一撫でした。私は可能な限りやんわりとその手をどけて、また湿気た天井を見た。さっきよりも雪が増えている。
「民主主義って、みんなで幸せになっていくのが理想なんだよね。だけど、実際には、他人の不幸を願う人がこんなにもたくさんいる。足を引っ張り合っているようにしか――」
「他人の足を引っ張るのが目的になっている人も少なくないからね、実際さ」
暇なのだろう、みんな。私はふと思い出す。
「これって、蜘蛛の糸みたいな話だね、レオン」
「質の悪い糸と、性格の悪い神様のあわせ技だよ」
「詩的だね、レオン」
「どこがだよ、マリー。あと、私はレオナだ」
わははと豪快に笑うレオン。だけど、その表情は荒んだ影を帯びている。
「マリー。この国はね、もう随分と狂ってるんだ。ヴェーラとレベッカが現れて、たった二隻の戦艦で敵の艦隊をあっという間に殲滅してしまったその瞬間から、この国は狂ってしまったのさ」
「ヴェーラたちが悪いみたいな言い方――」
「そんなことは思ってないさ、マリー」
レオンは首を振る。
「ただ、人々はヴェーラたちを言い訳にする。パンとサーカスを寄越せ。少なくとも過半数はそれしか叫ばない――叫べないんだ」
冷たい微笑が私を捕らえて離さない。
「だからこその蜘蛛の糸、さ。振り落とさなきゃ糸が切れて、自分も地獄に逆戻り。振り落とそうとすれば、性格の悪い神様が糸をポイと捨ててしまってやっぱり逆戻り。私たちは誰もが糸につかまっている。必死につかまっている。だけど、落ちた連中は再び這い上がろうと手近な糸を探して彷徨っているのさ」
「そんな人たちに目を付けられたらおしまい。そう言いたい?」
「イエス」
レオンは栗色の前髪をつまみつつ、そう答えた。
「でもさ、それじゃぁ、コソコソ生きなきゃならないってことになるじゃん?」
「そうだよ、お嬢様」
レオンは私の前髪を軽く払う。水滴が目に入った。
「もう、レオ――」
「私たちは」
そう言って、レオンは私の口に人差し指を当てる。
「手遅れってことだ」
「……歌姫だから?」
「イエス」
……と、言われたってなぁ。私たちは歌姫としての素質があったということで、軍に引き抜かれたに過ぎない。それに、早急に施設から出なくてはならなかった私には、他に選択肢なんてなかったんだし。
もっとも、その才能とやらのおかげでアルマと再会できたのは本当に嬉しかったのだけど。
「ましてマリーとアルマはS級歌姫。レニーに続く第二、第三の矢ってことになる」
「でも、エディタとか、一期生の先輩たちがいるじゃない」
「それはそうだけど、S級とV級の間の実力差は天地だっていうよ。私とマリーの差を見てもわかるだろ?」
うーん、と、私は少し唸る。
「レオンだってすごいじゃない」
「レオナだ」
「どっちでも良いでしょ」
「良くないから、キスさせてよ」
「だめ」
新しい技を持ち出されて少し動揺したのは内緒だ。
「マリーにキスしたい!」
「だぁめっ!」
私たちがじゃれ合っていると周囲の先輩や同期の子たちが「ひゅー!」とか言って囃し立ててくる。確かに恋人同士のじゃれ合いに見えないではない……かもしれない。
「キスしようよ、ねぇ」
「だーめ!」
「私のことが嫌いなのかい?」
「嫌いじゃない、けど。……って! それとこれは別!」
むしろすごい好きかもしれない。だけど、それとこれとは本当に違う話だ。
「ちぇ」
やっと諦めたらしいレオンに、一安心。あ、でもちょっとなんか寂しい?
「あのさ、マリー。いきなり真面目な話していい?」
「え、う、うん」
私が頷くと、レオンはゆっくりと息を吸った。
「ヴェーラ・グリエールは、どこまでいってもヴェーラ・グリエールだよ。だから、誰がなんと言おうと、私たちは私たちのヴェーラを信じる。だろ?」
「う、うん」
「私たちの憧れ。目指すべき人なんだ。ヴェーラは。だからたとえ戦争の力として使われたとしても、私たちはヴェーラの立つ場所まで行かなければならないんだ。私はあの事件で、それを痛感したんだ」
「うん……」
私はレオンの栗色の瞳を見つめる。レオンは相変わらず厳しい表情のまま、私を見ていた。私は少しのぼせてきたのを自覚しつつ、極力小さな声で尋ねてみる。
「ヴェーラは……寂しかったのかな」
だからあんなことをしたのかな。
「どうだろうね。レベッカだっていっつも一緒にいたわけだし。だけど、十何年もヴェーラと愛し合っていたレベッカですら、ヴェーラにはなれなかった。多分、ヴェーラはそれに気付いちゃったんじゃないかな」
愛し合っていた――その意味は私にはまだいまひとつよくわからない。だけど、どれほど仲が良くても完全に理解し合えないことは知っている。というか、この二ヶ月で学んだ。アルマとなんて、三日に一回くらいは口論になる。ほんの少しのすれ違いが、丸一日口もきかないくらいの大きな傷になったりもするのだ。
「アーメリング提督……ううん、やっぱりレベッカ。レベッカは自分を責めたりしてるのかな」
「そりゃしてるだろうさ」
レオンは私の手を引いて浴槽から出た。背も高ければ足も長いレオンについていくために、私はかなり急がなければならない。
「レオン、もうちょっとゆっくり」
「レオナだ」
「今更でしょ、レオン」
「レオナだってば。というわけで、これから遊びに行っていい?」
「どういうわけ? って、え? 部屋に?」
「それ以外どこが?」
「私を襲ったりしない?」
「いいねぇ!」
「何が!」
私はレオンの背中をペチンと叩く。すべすべの白い肌だ。同い年なのに、レオンの方がずっとお姉さんな感じがするのは何故だろう。終始リードされっぱなしだからかな。
脱衣所でパジャマへの着替えを済ませて、二人で浴場から出る。向かう先は私の部屋だ。そして私はなぜかレオンと腕を組んでいる。どこでどうして組んだのかよく覚えてないけど、とにかく私の右腕はレオンの左腕に絡められている。
私は濡れた髪を左手で撫で付けながら、口を開く。
「私、未だによくわかんないんだけど。歌姫ってなに?」
「ふぇ?」
レオンが妙な声を発する。
「いや、んー。何なのって訊かれてもなぁ。セイレネスを使える能力者のことだろ?」
「そこがわかんないんだよね」
「セイレネスについては、レニー先輩からは?」
「レニー、あんまり部屋にいないんだよね」
「そっか。出ずっぱりか」
私たちが入学してから二ヶ月少々で、出撃回数は二十を超えている。ざっくり三日に一度は何らかの戦闘関連行動を行っているわけで、レニーはその全てに後方支援要員として駆り出されていた。過労死ラインとかいうものは、とっくに超えているに違いない。だから部屋にいる時は、ほとんど寝ている。
「私だって歌姫のなんたるかなんて、マリー以上には知らないさ。確かなのは、軍事バランスを完全にぶっ壊した、核兵器以来の軍事の大進化のきっかけだってことさ」
「軍事――殺す力……か」
「守るための力だって言うべきじゃないかな」
そうかな。私はレオンの言葉に疑義を差し挟もうとした。が、レオンの荒んだ微笑を受けて、私は言葉を飲み込んだ。レオンはまたあの低い声で囁いた。
「専守防衛を放棄したこの国で、私たちは何を叫んでいるんだろうね」
「核……」
そうだ。あの反撃の炎。専守防衛という体制の破棄を宣言するのと同時に、アーシュオンの本土に撃ち込まれた核兵器。思えばあの時から、ヴェーラの歌は変わっていった。いや、公式にはあの作戦にヴェーラとレベッカが関与したとは認められていないのだけれど、今やヤーグベルテの人々は、そのことを確信していた。
そしてあの核兵器を打ち込む作戦もまた、セイレネスを用いたものだった。今、マスコミは、それすらヴェーラの独断だったのではと、もっともらしい理屈を付けては情報の海に放流し続けている。殺戮者だとか、死神とか、うんざりするような誹謗中傷が飛び交っている。
そして私は、誰もが待っているのを知っている。最もセンセーショナルなその瞬間を。
「お嬢様」
「私、お嬢様なんかじゃない」
「じゃぁ、お姫様」
「もっとやだ」
私は肩を竦める。レオンはニッと笑う。とても鋭利な表情だ。
「そう、メディアの連中も、そこいらの人々も、みんな待ってるのさ。私たちが一番見たくないニュースを、大手を振って発表できる瞬間を、今か今かとね」
「え?」
……なんで私の考えてることがわかったの?
「聞こえた」
「聞こえ、た?」
「時々、ふわっと分かるんだよ。マリーとかアルマとか先輩たちの考えが」
「なにその超能力」
「セイレネスの力だと思うよ、これ。ハンナ先輩から聞いた」
「ええっ?」
私、感じたことあるかな? あの初めてのライヴの時みたいな感じかな……?
「私だっていつもいつも分かるわけじゃない。何かタイミングがあるんだろうね」
「また心を読まれた! ずるい!」
「マリーの方が力があるんだ。そのうち嫌でも読めるようになるさ。でも、良いことばかりじゃないよ」
「そうなんだ……」
「人の心は醜いよ。私たち歌姫だって、同じさ」
そう言いながら、レオンは前を向く。
「レオン、あの、私は? 嫌な気分になったことはない?」
「マリーを不愉快に思ったことなんてない」
「そ、そぅ?」
……なんか恥ずかしい。
「マリー。一つ、良いこと教えてあげようか?」
「え、うん?」
「私が本当に、本当の本当に、心の底から好きになったのは、マリーが初めてなんだ。これは茶化してるわけでもお道化てるわけでもなくて、本気の告白だよ、マリー」
私の頬を両手で挟み込み、レオンは言う。うっかり吸い込まれてしまいそうなその栗色の瞳に、私は縛られる。
「えっと、あの……そんなこと、いわれても。私たち、女同士だし……」
「好きになるのが同性じゃ、だめなの?」
「だめじゃないけど、その、なんていうかな」
廊下に誰もいないのを確認してから、私はレオンに抱きついた。不意を打ってやった。レオンもさすがに驚いたようだ。
「私も、レオンの事好き。だけど、その」
「オーケー」
レオンは私の頭を撫でた。
「脈アリと考えて良い?」
「……うん」
うっかり頷かされてしまった。でもなんか、少しスッキリした気がしなくもない。私を好き過ぎるアルマには悪いけど。でも、アルマもレオンが相手なら納得してくれる気はする。
「私、恋愛って男の人とするものだと思ってた」
「生物学的にはそうかもね」
再び歩き出す私たち。私の心臓は早鐘のごとしだ。そんな私を見ているレオンはどうしてこんなに涼しい顔なのだろう。私なんて多分、耳まで真っ赤だ。
「でも私の場合はさ、昔からいいなと思うのはみんな女の子だった。でもそれはたまたまかなって思ってた。だからなのかな、親にも言えなかった。けど、ここでマリーと出会ってわかった」
「わかった?」
「そ。私の恋愛対象が女の子だってこと。あ、でも、性自認は女だよ。自分が男だって気はしてない。だから純粋に、女の私が女の子のことを好きってこと。だけどこれ、デリケートな問題だよねぇ」
そうなのかな?
私はそういった話には、まるで興味を抱かないまま生きてきたからよくわからない。施設には恋愛対象自体がいなかったし。
「マリーのそういうところが、心地いいんだ」
「心を読んだ?」
「いや、今読んだのは空気」
レオンは「ははっ」と笑う。私も釣られて笑ってしまう。
「でも、私、マリーが男の人が好きだ、女じゃ嫌だって言うなら、潔く身を引く。こういうのって、ほら、強制できないからさ」
「あ、ううん。そうじゃないよ。わかんないだけ。全然恋愛経験なくて。それに誰かに好かれるとか、考えたこともなくて、その、なんだろ。ちょっと戸惑ってる」
「そういうところだぞ、私を落としたのは」
レオンはまた笑った。そしてドアを指差す。私の部屋の入口だ。
私はドアの前に立ち「解錠」と呟いた。
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