解錠と同時に、ドアがスライドする。僅かな機械駆動音、具体的にはAの音と共に開く。故意にそうしたわけではないのだろうけれど、440Hzから442Hzに上がりきった所で完全にドアが開くというのは、毎度のことながら少し面白いと感じている。
私がいわゆる絶対音感と呼ばれるものを持っていると知ったのは、士官学校で検査を受けた時――つまり、二ヶ月と少し前だ。もともと歌には自信があったし、いろんな音を譜面に落とし込むこともできた。音楽理論はからっきしだったから、自分で曲を作るところまではやったことがないけど。少なくとも、ヴェーラやレベッカの楽曲なら、全てピアノロールに入れ込むことができるだろう。
「マリーの部屋のドアの音と私の部屋のは、少し違う気がするんだよね」
おじゃましまーすと言ってから、レオンはそう言った。レオンには絶対音感はないらしいが、今の発言は正解だ。
「レオンの部屋のドアはね、438Hzから441Hzにスライドするよ」
「どうやったらその1Hzが聞き分けられるんだ」
レオンは肩を竦めつつ、ようやく私を解放した。きっとソファに座って剣呑な目でこっちを見ているアルマを気遣ったのだろう。アルマは本当に、私のことを好き過ぎるのだ。
だけど、さっきのレオンの告白のせいなのか、アルマには悪いことをしてしまったかもしれない――そんな罪悪感が湧いてくる。
「別に?」
アルマが唇を尖らせる。私はレオンを見て、そしてまたアルマを見た。アルマは手にしていたタブレット端末を少し乱暴にテーブルに置いた。
「罪悪感とか要らないし?」
「ざ、罪悪感とか言ってないし」
「わかるし?」
アルマも私の心を読めてるっていうの? 私だけ置いてけぼり?
「あたしも本気だったのに」
「あー、いやいや、アルマ女史」
レオンが三人掛けソファに腰をおろして足を組む。私もそのソファに座って二人の間で視線をうろつかせる。
「実は、まだ両思いじゃないんだ。保留って感じ?」
レオンが流し目で私を見てくる。私は反射的にコクコクと頷いた。
アルマは「そーかいそーかい」とあからさまに不機嫌な声を出して、テーブルに置いたタブレット端末に動画を表示させる。空中に浮かび上がるのは、ヴェーラとレベッカのライヴステージだ。まるで目の前で見ているかのような臨場感。何十回と観た映像だったが、その度に見入ってしまう。一体全体どういう技術なのかはさっぱりだったけど、とにかくあらゆる方向からヴェーラとレベッカを見ることができるのは、とても幸せなことだった。
アルマが「ふぅ」と息を吐いた。
「セルフィッシュ・スタンド……か」
そう。今流れているのは「セルフィッシュ・スタンド」。この歌がヴェーラ・グリエールが作った最後のものになってしまう――可能性が出てきている。私たちはそれを恐れていた。レオンはソファの真ん中で足を組みつつ、じっと沈黙している。私はそのソファの隅っこで二人のことをぼんやりと見ている。
アルマは私たちを見てから、意を決したように言った。
「あたしは怖いんだ」
「アルマ?」
「怖いのさ。ヴェーラ・グリエールという圧倒的な人のことが。あの時、あのライヴで感じた底の見えない何かが怖い」
アルマは淡々と言う。テーブルの上は華々しいライヴ会場だったが、私たち三人の間の空気はどんよりと沈んでいた。気怠げな表情のアルマがレオンを見る。
「レオナはさ、ヴェーラのライヴを観たことは?」
「生で観たのは一回だけ。チケット当たらなくて。オンラインなら十回くらい?」
「その直接見た時って、どういう?」
「遠かったからなぁ」
レオンはうーんと唸る。彼女は私たちが最前列中央で観たことがあるのを知っている。
「あの時は私も興奮の極致だったから、正直よく覚えていないんだ」
レオンはそう言って腕を組む。アルマは「そっか」と言いつつ、またライヴ映像に視線を戻す。
「それに私は、アルマやマリーほど能力が高いわけでもないしね。V級だし」
「ふぅむ」
私とアルマが同時に唸る。レオンは「んー」と前置きしてから言う。
「ヴェーラは影のある人だったのか。ああ、でも、確かに、そうでもなければ火なんて……か」
「誰も気付いてあげられなかったのかな」
「それを言うなよ、マリー」
レオンとアルマに同時に言われて、私は首を竦める。アルマが私をまっすぐに見る。
「レベッカが、誰よりも傷付いてるんだ。そういうこと、言うなよ」
「あ、そ、そうだね」
私は唇を噛む。今の私の言葉を消し去りたいと思う。でも、できないのだ。レオンが私の肩を軽く叩いた。
「レベッカが戦場に立ち続けるのは、きっと、その罪滅ぼしのつもりだろう」
「罪滅ぼしって……そんな」
「哀しいね」
レオンは私を抱き寄せる。アルマの目が怖い。抵抗した方が良かったのだろうか。
「あのさ、マリー」
アルマが立ち上がってキッチンに向かう。
「全部聞こえてる」
「えーっ!」
私だけ聞こえてないの? レオンの心の声も、アルマの心の声も、まったく聞こえないんだけど!
そんな私に背を向けて、ココアか何かを作りながらアルマが言い放つ。
「はいはい、キスでもセックスでもすりゃいいじゃん。ええ、どうぞ、あたしなんかにはおかまいなく!」
「せ、せ、セッ……」
「マリー、かわいい……」
動揺する私の顎を、クイッと指で持ち上げるレオン。レオンの顔が私に近付いてくる。私の心臓が爆発しそうなほど拍動する。
「え、ちょっ、ちょ、まって!」
「……ごめん」
レオンは首を振って私から手を離す。
「無理矢理はしない。ごめん、マリー」
「え、う、うん。私こそ、なんか、ごめん」
キス……いや、いや、いや。恥ずかしい。できないよ、そんなこと。一瞬、ちょっとしてみたいと思ったりはしたけど、私は首を振ってその妄想を追い出した。
「あのね、レオン。一つ訊いていい?」
「なんなりと、お嬢様」
「……本当に、私のことが、好き?」
「間違いなく」
「どのくらい、その、返事を待てる?」
「五分かな?」
「短ッ!」
思わず突っ込む私。レオンは「あははは」と笑い、そして少し思案した。
「嘘。マリーが本当に好きな人と出会えるまで、私は待つよ」
またこういうこと言う。卑怯だよ、レオンは……。本当に同じ十六歳かよと。
私は苦笑してから、いきなりにレオンに抱きついてみた。キッチンでこっちを見ながらココアと思しきものを飲んでいるアルマの表情は、まるで般若だ。だけど今は、私はレオンからの好意に応えなきゃいけない気がしていた。
「どうした、マリー?」
「嬉しいの」
「え?」
「嬉しいんだってば!」
「……何が?」
レオンの頭の上に「?」が浮かぶ。
「ねぇ、レオン」
「レオナだ」
「いいじゃん、どっちでも」
「よかないだろ。で、何が?」
私はレオンの目を見て応える。
「お願い」
「へ?」
「もう一回、告白してくれる?」
「したら、受けてくれるのか?」
「保留、かな?」
私は首を振る。レオンはニヤっと笑う。
「じゃ、やだ」
「うー……。じゃぁ、好きって言ってよ」
「好き」
「心込めて」
「愛してるよ、マリー」
不意にイケメン度が三倍くらいに増したレオンに、私はクラクラした。だめだ、陥落するかもしれない。
「愛、あ、あ、愛ってその……」
そんなこと、今まで誰からも言われた記憶がない。
「マリーは愛情に飢えていたんだな」
「かも、しれない。あ、でも今はアルマもレオンも私を好きだーって言ってくれるし、お腹いっぱいだよ」
「それはなにより」
レオンは頷いた。
「私は何一つ不自由なく暮らしていたし、今だって帰る場所があるし。あ、でも、マリーとアルマの境遇に同情してるわけじゃない」
「わかってる」
私とアルマが同時に言う。アルマはようやくソファの所に戻ってきて、どっかりと腰をおろした。ココアは飲みきってきたらしい。アルマは言う。
「あたしだって、レオナの境遇を羨ましいとは別に思ってないし」
また二人が火花を散らす。仲が悪いわけではないけど、二人とも自己主張が強いから、だいたいいつもこうなる。私はレオンの方を見る。
「わ、私も、別にレオンがお金持ちだとか、そういうのとか関係なくて。その、ただまっすぐに好きって言ってもらえるのが嬉しくて、だから――」
その時、私たちの携帯端末が同時にアラートを発する。もはや聞き慣れた音だ。代表して私が携帯端末の情報を展開する。ありとあらゆるチャネルから通知されているのは、戦闘開始の速報だ。
私はいつものチャネルにアクセスする。見慣れたキャスターが淡々と状況を説明している。要約すると、第八艦隊の支援に第二艦隊が到着して、戦闘を開始したということだ。第二艦隊、つまりレベッカ・アーメリング提督の艦隊だ。
仏頂面でアルマが言った。
「作戦なんてあってなきが如しだな」
「第二艦隊といえば、力押しの作戦しか見たことがないな」
レオンがそう言って同意する。私も賛成だ。
今のヤーグベルテ海軍は、もう歌姫依存の戦い方しか知らない。何でもかんでも歌姫たちに丸投げだ。超兵器が存在している可能性あり――それだけで第二艦隊は招集される。戦闘にならないうちにアーシュオン側が撤退することも増えてきたが、それでもレベッカたちには強い緊張状態の維持が強いられる。
「レベッカ、過労死しちゃう」
私が言うと、二人は頷いた。私は映像を凝視しながらボソボソ言った。
「レニーもエディタ先輩たちもいるけど。でも、それにしたって――」
「信じるしかない」
「でもアルマ、そんなの釈然としない」
信じるって何を? レベッカに頼って、頼りっぱなしで。彼女が敵を殺す、ううん、人を殺すのを礼賛するだけ。レベッカが憎いアーシュオンを撃滅してくださいますように、レベッカが次もまた多くを殺せるように生きて帰ってきますように、レベッカが圧倒的に敵を完膚なきまでに殺しまくって私たちに歌を存分に届けてくれますように。
祈りか? そんなの、祈りと言えるのか?
「泣くなよ」
レオンの指が私の頬に触れる。レオンの目は優しい。一度意識してしまうとダメだった。もう涙が止まらない。
「私、何もできないから。まだ、何もできない」
「あたしだって同じ気分だよ」
アルマがニュース映像を睨んでいる。
「でも、その時が来たら。あたしたちはS級とV級。必ず力になれる」
「なれるかな」
「なるために、今がある。あたしたちの力でレベッカと……ヴェーラを支えて。それで、世界を変えるんだ」
「世界を変える?」
大きなスケールの話に、私はアルマを凝視する。
「ヴェーラとレベッカはたった二人で世界を変えた。あたしたちにもできるはずだ」
「でも、二人はD級。私たちとは比べ物にならない……」
「そうだろうか」
アルマは私を見つめ返す。
「この世界に初めて歌姫が現れた時は、ヴェーラとレベッカの二人だけだった。二人は世界を変えた――良くも悪くも。だけど今は、エディタやレニーがいる。あたしたちは二人じゃない。C級歌姫もいる。できることはたくさんあるはずだ」
「私たちは……兵器だよ、アルマ。抑止力以下の兵器なんだよ。そんな私たちに敵を殺す以外に何ができるの」
「殺すのさ」
アルマは荒んだ表情を見せる。
「大切なレベッカ、あるいはヴェーラ。二人を守るためには、二人以上に殺すしかないんだ、マリー」
「アルマの言う通り」
レオンが私の頭に手を置いた。テーブルの上では、いつもの一方的な殺戮劇が展開されている。
「――世界平和のためにね」
「世界平和のために人を殺せって?」
「ヴェーラとレベッカは、そう決意して、殺して、殺して、殺してきたんだ」
レオンの低い声が私の胸を押し潰す。
「ヤーグベルテの人を守るために。いや、違う。世界から戦争を一掃するために、二人は……全ての怨嗟を、呪詛をその身に引き受けてきた」
「生み出した悲しみを全て引き受ける覚悟で、二人は戦場に立ち続けた」
アルマが言葉を続ける。そして、吐き捨てる。
「戦争は――いまや、娯楽なんだよ、マリー」
「娯楽……」
「守るための戦争なら、まだ言い訳は立つ。でもね――」
「私たちは、アーシュオンを焼いた」
アルマの言葉を奪ったレオンが、私の髪を撫でる。柔らかい手のひらだった。
「守るために仕方なく殺す――そんな言い訳はもう通用しない。ヴェーラにも、レベッカにも。そして当然、私たちには最初からそんなものはないんだ、マリー。さっきマリーが言った通りにさ、私たちは敵を殺す。そのためだけの歌姫なんだ」
平坦なその声に、私の心は白波を立てる。アルマは伸びをすると、冷たい視線をその中継映像に送り、大きく息を吐きながら言った。
「恍惚に酔え、か」
恍惚に――あのステージでヴェーラが叫んだ言葉。それはいったい誰に向けられた、どんなメッセージだったのか。
私の携帯端末から投影されている立体映像の中から、歌が響き始める。歌――意味を持たない音素の羅列。歌姫の奏でる怒りと絶望の歌だ。
そして国民が、いや、世界が求める歌。私たち歌姫以外の人々の意識を汚染する、歌。
「ちょっと待って」
私は思わず前のめりになる。二人は「どうした?」と顔を寄せてくる。
「レベッカが歌ってない!」
ヤーグベルテの誇る超々弩級戦艦・ウラニア。言うまでもなくレベッカ専用艦だ。だが、そのウラニアからは、あのオーロラグリーンの粒子が放出されていない。
「どういう、こと?」
私の声はとても掠れていて――。