カティとヨーンが昼食を終えた、その頃である。
エレナは一人、士官学校中庭に備え付けられている小さなガラス張りの建物――通称ガーデンスペースのベンチにて、読書をしながらサンドイッチを食べていた。室温は二十度もなかったが、季節を考えればエレナとしては十分に暖かかった。それになにより、この空間の利用者はほとんどいない。今もエレナ一人しかおらず、それがエレナにとっては快適だった。なお、エレナには、この空間に繁茂している植物たちのことはどうでもよかった。
エレナは普段は多くの取り巻きに囲まれていたりもするのだが、昼食時は常に一人だった。エレナがそうするようにきつく言っていたからだ。なぜなら食事時はエレナの思考の時だったからだ。わずかに確保できる沈思の時を邪魔されるのは、エレナにとって何よりの拷問だった。
サンドイッチを齧りつつ紙媒体の書籍を眺める。量子論の論文集の最新刊である。このジャンルは歴史も古く、ゆえに電子と同時に紙媒体での書籍も刊行される。量子論はエレナにとっては専門外ではあったが、それでも修士レベル程度の素養はあった。
「あら、量子論?」
そんなエレナの至福の時を邪魔する無粋な声がある。エレナの眉間にたちまちのうちに縦皺が刻まれる。無遠慮なその声の主については、顔を見る必要もなかったし、見ようと思わなかった。
「邪魔しないでくれる?」
「邪険にしないでほしいわね」
「邪険にされるような真似をしないで欲しいわ、ハルベルト・クライバー」
エレナは視線を上げて、これみよがしに目の前に立つ黒尽くめの青年を睨んだ。
「あんた、なんなの?」
「中央政府から派遣されたエージェント。では、不満そうね?」
「そりゃね。そんなの信じるのはカティくらいよ」
「あらあら」
肩を竦めて、ハルベルトは微笑む。
「で、そのカティなんだけど。あなたはどう思うの? カティ・メラルティンのこと」
「すごいやつだと思うわ」
エレナは視線を書籍に戻すと、関心なさげにそう言った。ハルベルトは「端的ね」と感想を漏らし、エレナの隣に腰を下ろした。
「近い」
「近くないわ」
「私の主観がそう言ってる。あなたの感覚はどうでもいいわ。関心ない」
「扱いが雑ねぇ」
「あんたと仲良くしなきゃならないってルールはないわ」
「で」
ハルベルトは足を組む。エレナの隣から移動する気はなさそうだった。
「あなた、カティに勝てる?」
「勝ちたいけど、今は勝てないわ」
「そう。強いのね」
ハルベルトは遠くを見るような視線をしながらそう言った。エレナはムスッとした表情のまま、開いた書籍のページを眺めている。
「その潔さに、あなたの強さが見えるわ。そう、今は勝てない。けど、勝てる日が来る可能性はある。勝ちたい。そういう思いがあるのね」
「そうよ。でも、私たちにとって今の最大のミッションは、カティにあんたを撃墜させること。私個人の目標や成績なんて、どうだっていい。ヨーンと私がカティをアシストして、あんたを叩き落とすお膳立てをする」
「なるほど、最適解ね。それでいいと思うわ」
ハルベルトは目を細めてエレナを見たが、エレナは視線を合わせない。
「エレナ、あなたは悔しくないの?」
「悔しい?」
「そう。育ちも学歴も何もかも劣るカティ・メラルティンに、一番優れていたいはずの空戦で劣る。そこに悔しさはないの?」
「あるわよ」
エレナは口の端に笑みを浮かべる。
「カティがもっと嫌味で鼻持ちならないヤツだったら良かったって思うわ。でもね、私、彼女が好きなの。好きなんだって気が付いた。愛情の話じゃないわよ。人として。どこが魅力なのかとか、どこが好きなのかなんて言語化できない。けど、なんか好きなのよ」
「カリスマ?」
「安っぽい表現」
エレナは憤慨したように応じ、書籍を閉じた。
「そして、私は、あんたが大嫌い。意味が分からない。正体が掴めない。全てが不気味」
「それはまた、言われたものねぇ」
ハルベルトはクククと声を殺して笑い、立ち上がってエレナの前に移動した。怪訝な表情でハルベルトを見上げたエレナは、息を呑む。
「あたしの正体。それは言語化できないわ。だけどね、言うならば保守派よ」
「保守派?」
エレナは上擦った声で聞き返す。歯の根が合わなかった。得体の知れない圧力に、エレナは完全に圧倒されていた。ベンチに身体が固定されていて、立ち上がることもできない。
風のないはずのガーデンスペースで、ハルベルトの金髪が靡く。髪が顔を隠し、一瞬だけ、見えた。得体の知れない何かの貌が。エレナの全身に鳥肌が立ち、呼吸が苦しくなる。目が熱くなり、脳が冷える。
「な、なん、なんなの、あんた」
繰り返し襲ってくる怖気。神経を侵す恐怖。心臓を掴む名状し得ない感触。そんなもの、その一切合切が、この眼の前に立つ男から発されていた。
「これがあたしよ、エレナ・ジュバイル。虚間から生み出されたあなたもまた」
「……どういう意味?」
「そうね、いつかわかるわ」
ハルベルトはそう言って顎を上げた。エレナをその碧眼で冷たく見下ろしている。
「エレナ、あなたは神とか悪魔とか、信じる?」
「悪魔? 神? そんなものは、妄想を定義しただけの概念じゃない。数字のゼロみたいなものよ」
エレナはようやくクリアに動き始めた思考を整理しながら、気丈に応じた。
「そうね、それは良い喩えだと思うわ」
ハルベルトはエレナを見下ろしたまま腕を組んだ。
「でも、もし神や悪魔がゼロであるとするなら、実数にそれらを関与させてしまったら、森羅万象一切合切、すべてがゼロに同化してしまう。色即是空ということになるわね」
「どうかしら」
エレナはようやく立ち上がってハルベルトと並んだ。至近距離で睨み合うような位置関係だ。
「その全てが神になる――とも言えるのではない?」
「ふふふ」
ハルベルトは妖艶な微笑を見せる。
「全てが神、か。あの男と同じことを言うのね」
「あの男?」
「歌姫計画、知ってる?」
「名前だけは。そもそもそれって」
「あなたの知ってる歌姫計画は、全体のほんの一部よ。そしてあなたはそれでいい」
「……どういうこと?」
険しい表情で尋ねるエレナに、ハルベルトは答えない。
「ハルベルト――」
「人にはそれぞれ役割があるのよ。人生とはただ彷徨う影の如し、哀れな役者に過ぎぬ――そういうセリフもあったわね」
「マクベスでしょ。で、それが私と何の――」
「刹那の灯火ということ」
ハルベルトはそう言ってエレナに背中を向ける。エレナはその肩を掴もうと手を伸ばしたが、なぜかハルベルトに触れることができなかった。肩越しに振り返ったハルベルトの碧い瞳がエレナを射抜く。その紅い唇がゆっくりと弧を描く。
ツァ・トゥ・グァ――。
その音がエレナの頭蓋骨の内側で乱反射する。目が眩み、たまらずベンチに逆戻りするエレナ。本能が拒否する音素であるということを直感する。
「な、なんなの……」
「ふふふ……。深淵を覗きたいというのなら、あなたにもまた、彼らによって観測される覚悟が必要だということ」
ハルベルトは目を細め、今度は完全に背中を向けた。
「未来なんて知らない方が良いわ。覚悟なんてするだけ無駄よ」
「だから何を――」
「哀しいことよ」
ハルベルトの囁声が、漂って消えた。