それから一時間ばかり経った頃、カティとエレナは格技訓練室にて隣り合って仰向けに寝転がっていた。二人とも正規の耐ショックスーツとヘッドギアを身に着けていたのだが、顔は腫れ上がっていたし、全身あらゆる箇所に内出血をこしらえていることは疑いようがなかった。強靭な心身を持つカティもエレナも、さすがに起き上がれなくなっていた。指先を動かすことすら激痛を伴う状態だった。
「こ、これでも骨折とかしてないってすごいわよね」
ぜぇぜぇとした呼吸の合間にエレナが言う。カティは無言だった。返事すら辛い。
「あのねカティ、訊いていい?」
「なんなりと」
「私が勝った、でいいのよね?」
「肯定」
カティは気合を込めて起き上がろうとして、諦める。せめて呼吸が落ち着かなければどうにもならないとかティは判断する。エレナも同様だった。
「手加減した?」
「する余裕なんてなかった」
カティは素直にそう言った。
「まったく、なかった」
「嬉しい」
エレナは微笑もうとしたが、諦めた。疲労が限界で、表情筋一つすら言うことを聞かないのだ。カティは右手を伸ばしてエレナの左手を掴む。
「いたたたた!」
「ごめん。でも、我慢しろ」
カティはエレナの手を握り、一つ息を吐く。
「負けるのがこんなに悔しいとはね」
「あなたに勝つのがこんなに気持ちいなんてね」
エレナはカティの手を握り返す。今度はカティが悲鳴を上げた。
「非公式記録なのが悔しいけど、初白星ね」
「ああ、アタシの中では屈辱の公式記録だ」
「あなたと殺し合いになっても希望があるわねぇ」
「何を縁起でもない」
カティは唸りながら上半身を起こす。エレナも負けじと身体を起こしたのだが、それからしばらく無言で苦痛に耐えていた。
「ねぇ、カティ。私たち、やりすぎた……かも」
「寝てれば治る怪我だろうし。ただ、そうだな、出歩くのは厳しいな、この顔じゃ」
カティはエレナの顔を指差して言う。エレナは「おたがいさまよ」と応じて、立ち上がろうとして、力が抜ける。その倒れ込んだ先にいたのはカティだ。
「うっわっ!」
避けることすらできず、カティはエレナに押し倒される。二人とも声にならない悲鳴を上げて、数分もの間抱き合う形になっていた。
「あは、あはは!」
どちらからともなく笑ってしまう。痛みと疲労が限界を超えたからだ。
「ご褒美ってことで、いいわよね」
「なにがだ」
「今夜も一緒に寝たい」
「ダメ。身体が痛いからダメ」
「治ってからならいい?」
「添い寝までね」
「やった」
エレナは小さくガッツポーズをして、また痛みに呻いた。
その時、格技訓練室の入り口のドアが開いて、見知った美少女たちが飛び込んでくる。
「カティ、大丈夫!?」
美少女たち――ヴェーラとレベッカが、息を切らせながら異口同音に言った。
「こんなになるまでやっちゃだめでしょ!」
ヴェーラがカティのヘッドギアを外して、怪我の状態を確認する。その間に、エレナは自力でヘッドギアを外していたが、治療用ナノスプレーを持ってきたレベッカが素早く状態をチェックして、的確に治療を施していく。治療用ナノスプレーというのは一種の万能薬で、骨折の回復すら数倍に早められる性能がある。ちょっとした切り傷などは、ほとんど一瞬で塞がる代物だ。
「もー、訓練の準備してたら、突然ここの部屋で戦う二人の姿が見えてさ。訓練中止して、わたしたちとクロフォード中佐、フェーン少佐で格闘技鑑賞会をすることになったんだよ」
「私たちが見えたって? どういうこと? 監視カメラ?」
「そうじゃないんだよ。って、これ、話したらまずいんじゃ?」
カティはヴェーラを見るが、ヴェーラは「どうかなぁ?」とどこかすらっとぼけた回答をした。その時、クロフォードとフェーンが部屋に姿を現した。先行したヴェーラたちに追いついたというところだろう。
「構わんさ」
クロフォードが言った。
「エレナ・ジュバイル。君にも今後の訓練は付き合ってもらうかもしれんからな。まぁ、詳しい話はそこの二人とメラルティンから聞いてくれ。俺たちが説明するよりも体験者が語る方が正確だろう。あー、二人ともそのまま。敬礼も要らん」
立ち上がろうとしてふらつく二人を見かねて、クロフォードがそう付け加える。フェーンも「休暇中だからな」と生真面目に言う。そしてエレナの前に移動する。
「君の兄は残念だった」
「兄を?」
「昔同じ部隊にいたことがあった。配属間もない頃の話だから、もう十年以上昔か。ああ、そうだ。私はアンドレアス・フェーン。海軍の教練主任にして、歌姫計画の管理責任者だ」
「歌姫計画……」
エレナもその計画の名前は知っている。だが、名前だけだ。フェーンはそれ以上何も語ることなく、部屋から出て行ってしまった。
「エレナ・ジュバイル。君の兄について思うところはあると思うが」
「兄は軍人でしたから、覚悟は――」
「あっただろうよ、彼には。しかし、そうじゃない」
クロフォードは四人に背を向ける。
「覚悟のほどを試されるのは、死んだ本人ではないのだ。遺された者の方なのさ。死者は生き残った者の頭の中で、あれやこれやと騒ぎ立てる。後悔、疑念、慚愧。その手の死者の慟哭に追いかけられ続けて、遺された者は勝手に疲弊していくのさ」
クロフォードは天井を見上げてそう言った。
「君自身がいかに割り切った――そう判断していたとしても、できていたとしても、そんなのはただの理性と論理の見せる幻想に過ぎない。喪失の苦しみや痛みは、過ぎていく時間以外には決して癒やすことはできんのだ。自分を過信してはいけない」
「中佐……」
「お前たちは何事もなければそのまま軍に配属される立場。遠からず別離の苦しみも味わうことになるだろうさ。その時に思い出せ。自分の心の強さを、過信するな」
クロフォードはそう言うと、来たときと同じように颯爽と去っていった。
それを待っていたかのように、ヴェーラがカティの対ショックスーツを一思いに脱がした。声にならない悲鳴を上げてカティが悶絶する。ヴェーラは構わずに汗だくのTシャツをまくりあげて、治療用ナノスプレーを噴射する。内出血の斑模様がすぐに消えることはないが、使わないよりはかなりマシである。
「信じらんない。なんでこんなになるまでやったの」
「まったくですよ、カティ。それに、えっと、エレナさん?」
レベッカも渋面になってエレナのTシャツを脱がせてスプレーをかけている。
「なんでって言われてもなぁ。アタシたちは本気でやらなきゃならなかったというか。お互い納得したかったというか、そんな感じかな」
「わかんないなあ。スポ根モノみたいなこと言って」
ヴェーラは鼻息荒く言って、カティの肋骨付近の大きな内出血を見て、げんなりする。
「で、二人は納得できたの?」
「ああ。な、エレナ」
「ええ。満足。ご褒美ももらえるし」
「ごほうび?」
ヴェーラとレベッカが顔を見合わせる。エレナはフフと意味深に笑う。
「カティと寝れる権利」
「わぁぉ」
素早く反応するヴェーラと、俯いてしまうレベッカである。レベッカの右手は小刻みにメガネのフレームの位置を直している。
「あのな、エレナ。それは誤解を招くだろ」
「事実でしょ」
「添い寝する権利、だ。残念だったな、ヴェーラ」
「なんだぁ。いろいろえっちな事するんじゃないんだ?」
「お前はどこでそういう知識を得てくるんだ」
「年頃の乙女だもん。あと、こういう話題、ベッキーのほうが詳しいよ?」
「ちょ、ヴェーラ!」
レベッカが顔を真っ赤にして抗議するが、ヴェーラは「事実事実~」と笑っている。
「ベッキーのさ、ブラウザの閲覧履歴とかたぶんすごいよ」
「ヴェーラ! 何言ってるのよ、け、健全よ、私は!」
「と、このように動揺を隠しきれないレベッカさんであった……」
ヴェーラはニヤニヤしながらレベッカに視線を送った。レベッカは腕を組んで顔を逸らす。エレナはそんなレベッカの手を借りて立ち上がる。
「可愛い顔してるのに、興味はあるのねぇ」
「あ、ありませんってば」
「嘘ついて、カワイイなぁ」
エレナはクスクスと笑ったが、レベッカに無言で痛む肩を叩かれて、声もなく崩れ落ちた。
「あ、そうだ。その、エレナさん?」
ヴェーラがエレナの前に駆け寄った。
「エレナでいいわ」
「オーケー、エレナ。はじめましてだよね! わたしはヴェーラ。こっちのエロメガネはベッキーだよ」
「エロ……ってなんてこと言うのよ!」
お約束どおりにレベッカがツッコミを入れている。
「妄想ばっかりしてるくせに」
「私が妄想なんて、いつしたのよ!」
「誰も見てないところだったらいつでもどこでもじゃん」
「誰も見てないのになんであなたが分かってるのよ」
「わたし、ベッキーのことは何でもわかるし?」
その言葉にレベッカは一瞬言葉に詰まったが、すぐに我に返って反撃する。
「でまかせばっかり!」
「だってほら、お風呂とかわたしの裸めっちゃ見るじゃん」
「そ、それは」
「見てるよね?」
「き、きれいだなって……」
「ほらぁ。ベッキーめっちゃエロい目で見るんだもん」
「エロくない! そういう意味じゃないんだから。綺麗だから思わず見ちゃうだけ! 性的なものなんて、あなたからなんて感じませんよだ!」
「そっかぁ、わたしは結構感じてるんだけどな」
「えっ?」
「あ、ちょっとうれしいって顔した!」
「し、し、してない! してないわよ!」
「もー。今晩、抱いてやるよ」
突然低い声でヴェーラは言い、レベッカの頬に触れようとした。が、レベッカは素早くそれを回避して、深呼吸を繰り返す。
「私、そういう妄想はするけど、実際に何したいとかそういうのないし!」
「妄想するんじゃん」
「あ……!」
あっさりと罠にかかったレベッカは目を丸くして分かりやすく動揺した。それを見て、カティとエレナは声を上げて笑う。
「もう、きらい! みんなきらいなんだから!」
レベッカは不貞腐れたように言って、自分の荷物をまとめ始める。その時、レベッカのお腹が音を立てる。
「え、ちょ、ちが」
「空腹でございますかぁ? 妄想ってエネルギー使うしねぇ」
「単にお昼だからでしょ! それに妄想してないし!」
レベッカは憤然と反論したが、その時ヴェーラは携帯端末に何かを打ち込んでいた。
「今日のお昼は四人でピザパーティとします」
「ぴざぱーてぃ?」
エレナが聞き慣れない言葉に首を傾げる。カティが耳打ちする。
「単にピザの配達を頼んで、みんなで食べるだけ」
「ああ、そういうこと。ピザなんて食べたことないわね」
「ええ!?」
大きな声で反応したのは、無論、ヴェーラだ。
「もしかして超大金持ち?」
「庶民じゃないのは確かね」
「わお、回らないお寿司しか食べたことない原理主義者だ」
「なにその原理主義」
レベッカより先にエレナが突っ込んだ。レベッカはセリフを奪われて呻いている。
「あのね、エレナ。回るお寿司はとてもいいものだよ! リニアカーが注文したお寿司をばびゅーんて運んできてくれるし」
「ヴェーラ、あのね、それ、お子様用オプションだからね」
レベッカが冷静に言うと、カティがたまらず吹き出す。それにつられてエレナも笑った。
「歌姫計画の主要人物ってことは、歌姫なんだろうけど。まぁ、見た目は確かに美しすぎるし人間軽く超えてるけど、中身は私たちとおなじで、ボケとツッコミで出来てるのね」
「わたしがツッコミだよね?」
「あなたはどう見てもボケでしょ!」
レベッカはようやくいつもの落ち着きを取り戻した。
「ねぇ、カティ。この二人いつもこんな?」
「ああ、いつもこんなだ」
カティは目を細める。腫れ上がっていた顔は、ナノスプレーの効果でもうすでにかなり回復していた。
「私たちもああいう関係になれるかな」
「……なりたいのか?」
「私さ、あなたがはじめての友達なんだ。あ、ちがうな。はじめて親友って呼んでもいいかなって思えた人なんだ」
「恋人になれなくて悪かったなと思うけど」
「ああ、それは気にしないで。あなたに恋人ができたらちゃんとわきまえるし。あなたとは何十年も親友でいたいもの」
エレナはそう言って微笑んだ。カティは「まいったな」と頭を掻く。
「わかった。エレナ」
「なぁに?」
「腕くらいは組んでもいいぞ」
「ついでに胸揉んでもいい?」
「なにがついでだよ。だめ」
「ちぇ。……ま、昨日はいっぱい揉んだからいいか」
「なっ?」
「うそうそ! うそだよ!」
エレナは両手を握ったり開いたりしながら、下品な笑みを浮かべた。その隣に立っているレベッカは、もはや言い訳もできない程に真っ赤な顔をしていたのだった。