ヤーグベルテがあの同時多発的大空襲により未曾有の被害を被ってから、一週間が経過した。ヤーグベルテ国内の混乱は、未だに収まる気配すらない。まさか自分たちは被害を受けることはあるまいと、戦争を他人事と捉えていた内陸部から西部で生活している人々の多くに与えた衝撃は、実に筆舌に尽くし難いものだった。たった一晩の空襲による被災者の数は、一千万人にも迫る。彼らの大規模な移動もまた、物流インフラに少なからずダメージを与えていた。
身内が死傷した士官候補生も少なくはない。精神的ショックによって倒れる者も少なくはなかった。士官学校の教程はそのほとんどがスキップされ、現状士官学校としての体裁は保てていない。しかしその一方で、士官学校の校舎内あるいは敷地内には完全武装の海兵隊や陸軍の兵士が配置されており、どこを見ても物々しく物騒な雰囲気に変わっていた。見回せば士官候補生と同じ数だけ、兵士がいるのだ。
騒がしい食堂の片隅には、ヴェーラとレベッカの姿がある。ヴェーラは備え付けのテレビに顔を向け、レベッカは自分の携帯端末を睨みつけていた。
「ねぇ、ヴェーラ。ずっと疑問だったんだけど」
レベッカの呟きを受けてもヴェーラはテレビで流されているどうでも良いバラエティ番組から目を逸らさない。
「ヴェーラ、聞いてる?」
「んぁ?」
ヴェーラは手にした細いスティック状のチョコレート菓子をもぐもぐしながらレベッカの顔を見る。レベッカはその食事中のハムスターのようなヴェーラの仕草に少し笑う。
「変な顔しないでよ」
「和んだでしょ?」
ヴェーラはお菓子の箱をレベッカに差し出す。レベッカはそこから一本とって小さく齧る。ヴェーラは満足げにその様子を眺め、小さく息を吐いた。
「ベッキーは多分、この状況に疑問を持っているんだよね」
「え、ええ、そうよ」
「これじゃまるで、あの変態的変形球体爆弾じゃなくて、まるで陸戦部隊が攻めてくるみたいだって」
「その通りよ、ヴェーラ」
レベッカはまた小さくお菓子を齧り、眉間に皺を寄せる。ヴェーラはゆっくりと頷き、その空色の瞳でレベッカを正視する。
「わたしもそう思う。そして目的は間違いなく、わたしたちだよ」
「もしかして、あの大空襲は――」
「陸戦部隊をここに送り込むための陽動、カムフラージュってセンが濃厚だね」
ヴェーラの言葉に対し、レベッカは少し釈然としない様子だった。
「でも、アーシュオンの上陸情報の類はどこにもないんじゃない?」
「さぁ、それは難しい質問だよ。でも、わたしは、わたしたちが知らないだけじゃないかって思ってる」
ヴェーラは周囲の喧騒に溶け込む程度まで声を落とす。
「フェーン少佐が話してくれたこと、覚えてる? カティの村の」
「アイギス村の……ゴーストナイトだっけ」
「そう、ゴーストナイト」
ヴェーラの目がギラリと光る。
一切が謎に包まれた謎の戦力、それがゴーストナイトだ。アーシュオンの特殊部隊であるというのが大方の見方であるが、確証になるようなものはなかった。彼らが現れたとされる場所には何一つ痕跡が残らない。ただの虐殺現場が広がるのみなのだ。
ヤーグベルテはアイギス村襲撃事件を受け、アーシュオンの特殊部隊による犯行と断定し、強烈な非難声明を出した。しかし、アーシュオンは「あの村の虐殺は、ヤーグベルテによる自作自演。国民に対するプロパガンダであり、国際社会に対する誠実さを著しく欠いた悪辣な行為である」と強い言葉で抗議した。その事件から十二年が経過していたが、唯一の目撃者であるカティの記憶も完全とは言い難いとされ、確度の高い証拠は挙げられていなかった。カティの目撃した兵士たちがゴーストナイトであるという説は非常に根強くはあったのだが――。
「カティの村で大虐殺をやらかしたような部隊が入ってくるとすると、ちょっとね」
「でもヴェーラ。そこら中に陸戦の兵隊さんたちがいるわ。いくらなんでもそう簡単には――」
「どうかな?」
ヴェーラの眼光がレベッカを貫く。
「ここがこれだけ厳重に警備されているってこと。アーシュオンが知らないとは思えないんだよね。そして、ここまで厳重に警備されるであろうことも、アーシュオンは予測していたと思うんだよ」
「それは、確かに、そうね」
レベッカは眼鏡を外し、落ち着きなく弄った。ヴェーラは携帯端末に視線を落としながら呟く。
「正面から仕掛けてくるのか、それともわたしたちだけをピンポイントで狙ってくるのか。それはわからないけど、あれだけの大破壊をやらかしておいて、いまさら狙撃みたいな地味で不確実な手段は使わない気はしてるよ」
時刻は午後四時五十分。寮に帰る前に立ち寄った候補生たちで食堂の人口密度が上がってくる。食堂はたちまちいつも以上の喧騒に包まれる。誰もが不安を覚えている。だからこそ、多くの言葉が飛び交うのだ。無意味な言葉でも、不安という間隙を埋める役には立つものだからだ。
「この空気は嫌いだ」
ヴェーラが眉根を寄せて吐き捨てる。レベッカは眼鏡をかけ直して大きく深呼吸した。暖房で撹拌された生暖かい空気が肺の中に入り込む。
「ヴェーラ、私たちだって不安でしょ。みんなそうよ。私たちだってこうしてカティを待ってるし」
「ま、まぁね」
ヴェーラはバツが悪そうな顔をして、その白金の髪に手を送り込む。
「カティと一緒なら絶対大丈夫。そんな気がするのは不思議だよね、ベッキー」
「そうね。早く来ないかなぁ」
携帯端末に目を落としても、未だ連絡はない。
「でもさ、ベッキー。わたしたちが狙われるとしたら、その理由ってなに?」
「セイレネスでしょ?」
「特殊部隊を喪失するリスクを払ってまで、排除する必要がある?」
「だってほら、シミュレータ通りの性能があるとしたら、アーシュオンには脅威になるでしょ、ヴェーラ」
「なんでアーシュオンがそれを知ってるの?」
矢継ぎ早の質問を受けて、レベッカはついに沈黙する。無意識に腕を組み、唇を尖らせて唸る。ヴェーラはいつの間にか空になっていたお菓子の箱を振りながら、その空色の瞳でレベッカを凝視した。
「機密漏洩……と考えるのが普通だろうけど、違うと思うんだ、わたし」
「違うの?」
「うん。セイレネスの開発元はホメロス社だ。そしてホメロス社はまず間違いなくヴァラスキャルヴと繋がりがある。そして――」
「まさか、ヴェーラ。この一連の攻撃に、あのジョルジュ・ベルリオーズが絡んでいると?」
「考えてもみてよ」
ヴェーラは低い声で言う。
「セイレネスみたいな、あんなものが世界に実装されてしまったら、そりゃもう軍事力そのもののパラダイムシフトだよ。だとしたら、そんな重大事案を前にしてベルリオーズが関与していないと考えるほうが不自然だ。ちがう?」
「だとしたら、もしかして、カティの村の事件も……?」
「ぜーんぶくっついているのかもしれないね」
ヴェーラはそう言ったが、その口調は明らかに断定だった。
「あの男は、少なくとも今の時代にあっては絶対的な支配者だ。天上宮殿に住まう、オーディンの如く、ね」
ヴェーラの記憶のどこかがチリチリと痺れている。ベルリオーズの顔、声、言葉。直接耳にしたことなどないはずなのに、何故か鮮明に覚えている。覚えているのに、漠然としか思い出せない。痺れているのだ、記憶が。
その時だ。食堂にあったテレビの映像が途切れた。電源は入っているが、画面に何も映っていない。
「あれ?」
ヴェーラとレベッカが同時に自分たちの携帯端末を確認し、そしてお互いの顔を見た。ヴェーラが断言する。
「通信遮断だ」
「……どうしよう」
レベッカは立ち上がりかけたが、ヴェーラによって制止された。その直後、候補生たちがどよめき始め、たちまちに人の波が生まれた。食堂の隅でじっとしているヴェーラたちはその動きに飲まれないで済んだ。
「軍も混乱してる」
食堂に配備されていた数名の兵士たちが集まって何事かを伝えあっている。レベッカは役に立たない携帯端末をバッグにしまい、震える手で服装を整える。
「兵隊さんたちは論理回線使ってるはずよね?」
「だね。それも遮断か。論理回線遮断は穏やかな話じゃないね」
物理インフラに依存しない論理回線の遮断は基本的には不可能だ。その防壁プログラムを突破することが事実上不可能だからだ。だから通信機器そのものを破壊するか、論理回線ハブと呼ばれる設備を破壊するかしか方法はない。後者についてはヤーグベルテ国内数百箇所に並列配置されているため、同時破壊は現実的ではなかった。
「候補生の諸君!」
喧騒を切り裂く男の声。声の方を見ると、そこには戦闘用軽甲冑を装備した海兵隊の大尉がいた。大尉の登場に合わせて、食堂にいた兵士たちも装着ギミックを展開して中甲冑や重甲冑へと換装している。
「緊急事態が発生した。我々の指示に従って避難せよ! 醜態を晒すな!」
大尉が檄を飛ばすと、途端に食堂の空気が沈黙のうちに張り詰めた。陸海空の候補生たちは整列するなり整然と食堂を出ていった。それを見計らって立ち上がったヴェーラたちのところへ、大尉と兵士が二人やってくる。
「君たちは別ルートだ」
「別?」
ヴェーラが訝しげな声を発する。
「フェーン少佐からこの事態が発生した際の指示は受けている。君たちはさっきの候補生たちとは反対だ」
「まさか、わたしたちの仲間を囮に?」
「肯定だろうが否定だろうが、君たちはシミュレータルームへ行くんだ。悠長な感傷に浸っている余裕はない」
大尉の言うことはもっともだ――ヴェーラはそう判断して、黙って頷いた。大尉は一瞬表情を緩め、すぐにそこにいた兵士たちに声をかけた。
「ジョンソン兵長、タガート一等兵。二人を何としても守れ。命に代えても、だ」
「イエス・サー!」
屈強な二人は並んで声を上げた。その声に被せるかのように、銃撃音が響き始める。発射音は一つや二つではない。ひっきりなしに低く高く鳴り続け、その衝撃が後者を揺らしていた。窓ガラスも割れ始める。
「急ぐぞ」
大尉は先頭に立って食堂から出る。ヴェーラとレベッカが続き、その背中をジョンソンとタガートが守った。数歩歩いたところでレベッカが尋ねる。
「あの、大尉。シミュレータルームで私たちはいったい何を……」
「知らん。だがフェーン少佐がそうしろと言った。逃がし屋の指示にもそうせよとある。それを信じるしかあるまい、今となっては」
大尉は慎重に気配を探りながら前に進む。全方位から聞こえる銃撃や砲撃の音に、ヴェーラたちは首を竦ませる。時々響くのはまごうことなき断末魔だったし、その前後には重く湿った音が加わっていることもあった。
前に海兵隊大尉、後ろに屈強な兵士が二人。そのおかげで、ヴェーラもレベッカも、足を動かすことができていた。今まさに次々と命が失われているこの場所。その空気。ヴェーラたちは文字通り震え上がっている。絶え間なきノイズに、心が殴打されている。
ヴェーラは左手でしっかりとレベッカの右手を捕まえ、耳をふさぎたいという衝動に、必死に抗った。シミュレータルームは、未だ遠い。