03-01-02:エゴは嘘をつかないだろ?

静心 :chapter 03 コメンタリー-静心
第三章ヘッダー

これは「#03-01: ディーヴァの夢は醒めゆく」に対応したコメンタリーです。

さて、続き。

トライローグは続きます。レベッカの戦闘指揮、それによる被害、その目的、そういうものがレオンアルマによって次々と詳らかにされていきます。15、6歳の少女たちにですら「わかる」、わかりやすい文脈なわけです。レベッカも、そしてヴェーラも、それをわかった上で全てを仕込んでいるというわけですな。この時すでに、ヴェーラとレベッカ、そしてマリアの計略は動き始めているわけです。

マリオンは言います。

「そのために味方を見殺しにするとか、やっぱりおかしいよ」

それに対して、レオンは「わかりやすいたとえ」を出します。

「今日百人を救ったら、明日は千人救えない。今日百人見殺しにしたら、明日は確実に千人救える。今日救う? 明日救う?」

そして、レベッカは後者を選んだんだと。

ここでレオン、たまらず落涙。この犠牲が、3年後の自分たちのために作られたものだとわかってしまったというのもその理由の一つですね。もちろん、殺戮マシーンとなって戦うエディタの内心をおもんぱかってのものでもあります。

なおも悩むマリオンに、アルマが言います。

「一人や二人で、未来永劫この国を守ることはできない。どれほど力があったとしても、その献身が自己犠牲である限り、必ず限界は来る。摩耗して消耗して疲れ切って、やがて破綻する――ヴェーラのように」

このアルマの分析は、それこそこの物語の真髄でもあります。そしてこれこそがヴェーラの行為の原因であり、後にイザベラが起こす事件の本質でもあるのです。ということから、アルマはヴェーラの思考に極めて近いところにいるのかもしれないと言えます。ヴェーラ:アルマ、レベッカ:マリオン、というふうに、対になるように設定していたりします。

レベッカはヴェーラのブレーキ役。そしてヴェーラはレベッカがそうであるからこそ、己の意のままに振る舞える。そこには強烈な信頼関係があるんですね。でも、アルマとマリオンにはそこまでの成熟した関係性はできていない。だから、アルマの言葉はいちいちマリオンに突き刺さってくるわけなんですね。彼女たちの友情はまだこの強烈な現実の前には「ごっこ」の域を抜けていない。もちろん、平和な時代であればそれが最高に楽しかったとは思うんですが、残念ながら戦時中。

そしてマリオンたちは「必殺の兵器」であり、本人たちもそれをそれとなく知っている。これから何千人か、あるいはヴェーラたちのように数十万人か――「人を殺すことになる」事を知っている。けど、まだその覚悟はできてない。圧倒的に強力な、レベッカたちD級歌姫ディーヴァに頼ろうと――その手を変わりに汚してもらえるんだろうなって、無意識にでも漠然とでも思っていたのは紛れもない事実なわけです。

この中で一番精神年齢の高いアルマは、なおも冷静に言います。感情を殺しているのか、感情がわかなくなってしまったのか……それはともかく、アルマは怒りとか不条理を感じた時とか、とことん温度が下がるタイプです。

「ディーヴァたちが見せてくれていた夢は、もう、そろそろ終わる。あたしたちの一方的な願望、欲求、思い込み――そんなもので作られた塑像プラスティックの夢は壊れ始めた。ディーヴァは……現実を覆い隠す歌を歌うのをやめてしまった」

この言葉もまた、ヴェーラ、レベッカ、そしてイザベラの想いを完璧に汲んだものとなっています。塑像プラスティックという表現、私は結構使いますが、「簡単に壊れる」「簡単に都合よく作り変えられる」という意味を込めている表現です。

「現実を覆い隠す歌を歌うのをやめた」と言っていますが、ここで登場してくる(03-03ですね)のが「『顔』を覆い隠した歌姫セイレーン、イザベラ」なんですね。コレは完全に舞台演出を考えた設定です。

アルマが更に追い打ちを。

「始まるのさ」
「現実という名前を持った、悪夢がね」

アルマにしてみれば、第二話のとき、10歳の時にマリオンと出会うまではまさに「悪夢」のような現実だったはず。そこからも色々あったにしても、アルマにとって、この世界はとっても生きにくくて苦しい世界だったんですね。そこから脱却できた理由の一つがマリオンとの出会いであり、マリオンとの再会だった。だけどその再会ですら、結局は軍への配備、そしてそこから手を血で洗う未来につながっていく。アルマはさといのでそういうことにも頭が回ってしまう。だからこういう言い方で現実を腐すしかないんです。

レオンがそこにまた言葉を重ねます。マリオンさんは二人から重たい言葉を重ねられまくってかなりヘコタレています。頑張れ主人公。

「ヴェーラも、レベッカも。その悪夢から私たちを守っていたのさ。私たちは今まで二人がしてくれていたことに、その行為おこないに、感謝するべきなんだ。私たちの負うべき苦しみの肩代わりをしてくれていたことに対して。だから、あの最強の二人が、その無償の行為おこないをやめたからと言って、そこに罪の所在を認めようとするのは、単なるさのあらわれなんだよ、マリー」

国民のせめて半数が、いや、あるいはその半分が、この思いに至れていれば、ヴェーラは自ら焼くこともなかったでしょうし、この静心のストーリーもなかったはずなんです。レオンはいわゆる「不幸」でこそなかったけども、その頭脳と、マリーたちを凌駕する情報量で考えたんでしょうね。

レオンは基本としてジャスティス、正義の人ですが、その正義で人を切ったりはしません。見方を見殺しにした、悪だ、のような短絡的思考はしない少女なのです。その人格・性格は最終盤までずっと現れています。

「嗚咽しようが、激怒しようが、絶望しようが――未来はやってくる。その未来をどうしたいのか。どうなっていてほしいのか。力があるはずの私たちは考えなきゃならない。力があるからこそ、人の命を簡単に消し飛ばせる力があるからこそ、私たちは刹那的な憐憫れんびんなんてものは、無理にでも飲み下さなくちゃならないんだよ、マリー」

刹那的な憐憫というのは、前述の「今日の100人を救えば、明日1000人死なせることになるとわかっていてもなお、今日100人救うか」か、それとも、「今日100人見捨てることで明日の1000人を救う」か、という話にかかります。ここで100人死なせたからと言って、その事実だけを糾弾するなんてのはやっちゃいけないことだと。そこに明日の1000人を救うため、確実に助けるためという動機があるのなら、まして当人がそれを可能にする力を持っているのならなお、その決断を弾劾してはならんという話です。我々もやりがちじゃないですか。目先の被害、損害だけを見て先に進めず、結果その先にも損害を生んだり。あるいは、誰かの決断で少しでもマイナスが出たら、その人のビジョンも考えずにストップかけようとしたりする人とか。

だけど、マリオンはそこで考えます。100人とか1000人とか、「命」というのはそういう「数」の話じゃないと。マリオンは理解しているんですね、この現実の本当のキツさのようなものを。

「私はレオンに死ねなんて絶対に言えない。レベッカみたいな、あんな指揮をることはできない。レベッカみたいな指揮官にはなれない。私、それじゃ、ダメなのかな……」

たとえ親友であろうと局面によっては犠牲にしなければならない――みんなそこは知っている。知っているけど、「できるか?」というと、この場の三人はそれぞれに「NO」と答えるでしょう。アルマもレオンも、それを数字にして誤魔化したけども、マリオンだけは「違う」と言ったわけです。ちょっと主人公っぽい。

そしてその忖度も屈託もない正義に対して「惚れている」とレオンは言うわけです。マリオンはそれを「こんなのは私のエゴでしかない」と自虐します。ちなみにこの「ただの……エゴだよ」は、逆襲のシャアオマージュです←

しかし、そこでレオンは言うわけです。

「エゴで結構。エゴは嘘をつかないだろ」

かっこいい、レオンかっこいいよ。「エゴは嘘をつかない」というのは、厳密にはこうです。「エゴによって人は自らを取り繕うために嘘でもなんでも平気でつくが、マリオンは自らを取り繕うような人ではないのだから、そのエゴの発露による言動に嘘なんてありえない」――という。これはマリオンに超絶惚れてるレオンならではのセリフと言えますね。

この頃には戦闘は終わってしまっているわけなので、レオンも自室に帰るわけですが、マリオンを最後にちょっといじってます。

「もし、私が男だったら。惚れてた?」

コレに対してマリオンは「ううん」と言った痕で「女の子でも、惚れてるかも」と返します。この時点では、まだマリオンの中では回答は明確には出ていないんですね。でもレオンはそれに満足して帰っていくのでした。引くときはさらっとスマートに引くのも、レオンの駆け引き上手なところでしょう。家庭的には上流階級ですからね、レオンは。嫌でもうまくなるところはあったんでしょうね。

次回はレニー初登場となりますな。

→次号

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